中世の罪と罰④

皆様、こんばんは。
今回で4回目となります。あと一つで今回のテーマは終わりになります。
それでは、早速本題入りましょう!


夜討ち

「夜討ち」は「夜」という時間、「打(討)入る」という行動の2つの要素からその語はなり立つ。
白昼の「打入り」が「昼打入」であり、「夜」であっても双方が陣から出て戦う場合、それは「夜軍(いくさ)」とされる。
つまり、何者かが主人として支配する、門・垣によって区分された場所に「打入る」のでなければ「夜討ち」は成立しない。

平安から鎌倉にかけての時代、東国の武士団の間には、つぎのような「合戦のルール」が存在した。
(一)軍使の交換による合戦日時・場所の指定。
(二)「一騎打ち」のつり合いのための「名乗り」。
(三)敵の乗馬、非戦闘員、降参人の殺戮の禁止。

以上を踏まえると「夜討ち」はルールに合致しないどころか、むしろその対極であったが、非難されている様子がない。
「名乗る」のが「昼の法」だとすれば「名乗らぬ」のが「夜討ちの法」だと言えないだろうか。
また、「夜討ち」の道に長ずることが、「武者」の資格であり、「芸」の一つでもあった。

夜動くものに対して、村落、都市、農耕や通行でも一つの集団、一つのテリトリーの平和維持という立場から、厳しいルールが存在した。

「打入り」は「住宅」への侵入であり、「夜討ち」は夜中、集団、「住宅」への侵入が典型とされてた。

博奕

博奕は万人のものといってよいほど古代の天皇、その一族から無足の浪人にいたるまで行っていた。
中世後期以降も基本的に変わらない。
『看聞日記』には伏見宮でさかんに「博奕会」が行われたと記されている。

鎌倉中期、囲碁・将棋などは、四一半など賽のみによる博奕と異なる扱いをうけていた。多少とも技能によって勝負を争うものと、偶然による比重が大きい博奕が区別されるようになったきたと推測される。
博奕の徒は、古くから「遊手の徒」、「遊食博戯の徒」などといわれていた。これが直ちに博奕の専業者とはいえないが、菅原道真が漢詩に詠んだ「裸身博奕者」にはすでにその片鱗があると思われる。
十世紀から十一世紀にかけて、博打は確実に「所能」「芸能」の一つとなる。『新猿楽記』の「大君の夫」は、「高名の博打」であり、「職人」であった。
博打は国々に党をなして「博党」といわれ、その間を遍歴して歩く人々も多かった。
南北朝・室町期に入っても世に知られた博奕打は多かったと思われる。足利義満時代に「奉公」した多胡重俊は、日本一の博奕打だった。

「職人」的な博奕打は時代とともに数を増していたと見られるが、博奕禁制の強化に伴って、社会的な地位が変化してきた。遅くとも戦国期に碁、将棋以外の博奕は嫌う空気が社会にかなり広くひろがりつつあった。

巫女と博奕は、神と関わりのある呪術的な力と結びつけられて考えられていたが、巫女をみにくい老女、博打を裸身の男として描く頃には、呪術的な職業民を零落したものと見るような萌しがあったといえる。
多数の「職人」や名人まで生み出した博奕が、一方では古代から現代にいたるまで一貫して忌み嫌われ、きびしい禁制の対象となってきた。「諸悪の源、博奕より起る」とまでいわれるにいたった。十三世紀後半から一段ときびしさを増す幕府の悪党禁圧令は、同時に、四一半打などをはじめとする博奕の禁止を内実に含んでいた。
盗みも殺害も、博奕の「芸能」として当然とされていたため、博奕は悪党と不可分の関係とされたからだ。

本日のまとめ

夜討ちは、武者の資格、芸の一つと言われたり、博奕も芸能と言われたり、現在の価値観ではなかなか受け入れにくい面もある。
しかし、博奕は偶然が左右すると言うことは神のみぞ知る、に近い世界だと解釈され神に捧げる芸の一つだったのだろう。
その一方で、盗みも殺害も博奕の芸能扱いをされて、政治的な意図で禁制になることや、博奕で身ぐるみを剥がされることもあるためか、次第に神聖さが無くなった結果が、巫女と博奕を貧相な姿で描くようになったのだろう。
また、夜討ちはルール違反にも関わらず非難されず芸の一つというのも、矛盾した事柄ではあるが、夜という明かりのない時代の空間はルールすら越える何かがあると考えられていたのだろうか。

こうした意識が現在にもそこはかとなく生きている。そう感じる空間が日本にもまだあるような気がする。
そうであるから、博奕に関する作品なども持て囃されるのだろうか。などと勝手に考えてしまう。

今回もお付き合い頂きありがとうございました。
次回もどうかお付き合いよろしくお願いします。

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