2eとしての私
はじめに
初めまして。私は、Xにアカウントを持っております「みっちい」と申します。より正確な言い方をすればnoteで発信をすることは今回が初めてではありません。ただ現有のアカウントにおいて、noteを使って発信するのは初めてです。これから私についての自己開示を行い、かつ2e当事者として感じていることを申し述べていきますが、私のプライバシーに関わる事項については、伏せさせていただきます。それでは本論に入りましょう。
自己紹介
まず私の性自認は男性です。生物学的にも、また精神的にも男性です。少なくともその点について、社会における生きづらさはありません。年齢は四十代後半と思っていただいて結構です。いわゆる就職氷河期世代です。また参考になるかどうかはわかりませんが、大学では歴史学を学び、続いて大学院で文学修士(歴史学)を取得いたしました。就職氷河期世代というワードが出てきたことからお分かりの通り、社会人としての経験は長いのですが、正社員歴は極めて短く終わってしまっています。現在は、自治体(都道府県レベルとお考えください)が行なっている発達障害者向けの就労支援事業に参加しつつ、転職活動を進めています。あとで申し述べますが、メインは障がい者枠、業種・職種によっては一般枠で転職活動しております。
とりあえず、2e属性持ち、男性、四十代後半、文系、転職活動中、というワードを押さえてくださればありがたいです。
趣味・特技など
趣味は、読書・音楽鑑賞・アニメ視聴・街歩き・ライブへの参加‥です。最初の二つについては、若い頃とほぼ変わりませんが、アニメ視聴や街歩き、ライブへの参加については、ごく最近になって私の中に生まれたものです。私の趣味の楽しみ方の特徴として、そこで得られた体験に対して対価として金銭を支払う感じです。
アニメ(あるいはゲーム)のオフラインイベントで地方に出かけることが多くなりました。そこではその街の風情を楽しんでいる感じです。またライブについては、我々オーディエンスと演者の皆さんの圧倒的な人数から来る熱量、アーティストの方が見せるパフォーマンスやアドリブ、そういったものを楽しんでいる感じです。予防線を張っておきますと、今、述べたのは私の楽しみ方・アニメやゲーム、アーティストへの応援の仕方であって、それ以外の楽しみ方が間違っていると断ずるつもりはありません。誤解なきようお願い致します。
最近読んだ本
さてそろそろ具体的な内容に入っていこうと思います。作品名、著者名などの基本的な情報に加えて読んだ本については、読後の感想を一言、添えようと思っています。可能な限りネタバレを避けるように努めます。
『1984』(ジョージ・オーウェル著 田内志文訳)
この本を読んでみようと思ったきっかけは、アニメの『攻殻機動隊 SAC_2045』です。『攻殻機動隊』という作品では、シリーズ内の別作品では別の文学作品を下敷きにしたものがあります。これを読み切ったということがきっかけで、最近、読書がとても楽しいものになっています。ちなみに『攻殻機動隊』つながりで、D・H・サリンジャーの『Catcher in the rye(ライ麦畑でつかまえて)』を読み始めています。
(『攻殻機動隊』のあの作品です、???「お姉さん、鋭い!」のアレです)。
『三体』『三体 黒暗森林』『三体 死神永世』(劉慈欣著 立原透耶 大森望 光吉さくら ワン・チャイ訳)
これを読んでみようと思ったきっかけは、バイト先の同僚の勧めでした。試しに読んでみましたが文系の私としては、理論物理学・天文学の専門用語がちょくちょく登場するのでスマートフォンを片手に、わからない用語についてはネットの力を借りて読み切りました。誤解しないでいただきたいのですが、確かに用語は圧倒的に理系用語が多いです。ただ著者の劉氏がこの作品を通じて訴えたいことは、「文系・理系」のように現実と乖離した、いわゆる便宜的な区分を完全に超越したものであると私は捉えました。言うまでもなく、いわゆる「文系」の私であっても十分楽しむことができました。まさか この歳になって、SF小説にハマるとは思っても見ませんでしたが。
『同志少女よ、敵を撃て』(逢坂冬馬著)
ネタバレを防ぐ観点から、必要最小限の感想を申し上げます。読んでいて、精神的に辛かったです。読後感も、爽快さや充実感よりも、モヤッととしたものが残りました。タイトルにある「敵って誰あるいは何だったんだろうな?」、読み終えてもいまだに明確な答えが見つかっていません。それだけ戦争というものが、人を狂わせ、「自分は正常である」という執拗なまでの「自己点検」を強いるものであり、それゆえにたくさんの奇妙な出来事が起きてしまう。この作品に、ありふれた褒め言葉を投げることは、私にはできません。ただとてもリアルでした。
『人工知能は人間を越えるか ディープラーニングの先にあるもの』(松尾豊著)
昨今、AI(Artificial Intelligence)という言葉を耳にすることが多くなりました。なぜこの本を読むきっかけとなったのは、松尾先生が提起した、「技術的特異点(シンギュラリティ)」に関する一つの問題提起でした。「仮に『知性(Intelligence)』を『計算能力』と定義した場合(意図的に極端な定義です)、電卓が社会に普及した時点で人類はすでにAIに敗北している、つまり技術的特異点(シンギュラリティ)を迎えている」というものでした。我が意を得たり、という表現が一番適していると思います。
ただ以前この本を買ったのをすっかり忘れていて、ふと自宅の本棚を見ると同名の本があることに気づきました。ええ、手元に2冊あります。ドン引きしました。
『発達障害大全』(黒坂麻由子著)
ご自身のお子さんが発達障害であることをきっかけに、専門家(具体的には医師)、当事者たちへのインタビューをまとめたものとそのインタビューを通じて考えたことをまとめたものです。「発達障害とは、ロボット(具体的にはある人にとっては「エヴァンゲリオン」、別の人にとっては「マジンガーZ」)の操縦に似ている」、「大人になってから、発達障害と診断された人は概ね、安心する(伏線回収)」など、それぞれの立場から語られた表現が私自身にも実感を持ったものになっていて、知識の集積体以上に、たくさんの勇気をもらった本でした
『死ぬ瞬間ー死とその過程について』(E・キューブラー・ロス著 鈴木晶訳)
人間が(突発的なものを除き)死に向かう過程を「否認・怒り・取引・抑鬱・受容」の5段階に分類する「死の受容モデル」、個人的には私は障がい者である私にも当てはまるところが多くあったな、と思います。決定的に違うのは、障がい者である私は発達障害で死ぬことはない、と言うことです。せいぜい、描いていた人生のプランを書き換えなければいけない、と言うくらいです。この「死の受容モデル」がなぜ障がい者である私にも(ある程度とはいえ)言えるのか、この点については後述いたします。
と挙げてきましたが、私はこういった複数の本を同時並行的に読みます。内容がごちゃごちゃになることはまずありません。現在も、『全訳 戦争論(上下)』(クラウゼヴィッツ著 加藤秀治郎訳)、前述の『ライ麦畑でつかまえて』、『戦争は女の顔をしていない』(スヴェトラーナ・アレクシエーヴィチ著 三浦みどり訳)、『イーロン・マスク(上下)』(ウォルター・アイザックソン著 井口耕二訳)などを読んでいます(厳密にいうとこれらが全てではありません)。
以前は、登場人物などの容姿やイメージが湧かないとモヤモヤしてしまっていたため、小説類は苦手でしたが、今は逆に視覚的な情報にあまり重きを置かない読み方をしているように思います。その方が作品の内容・ストーリーがスムーズに頭に入る印象があります。
好きなアーティスト、バンド(海外編)
高校の頃、文化祭でバンドを組んだ経験からか、音楽(聴く、弾く、歌う)も好きです。ちなみにベースギターでした。結束バンドでいうと「山田リョウ」、SICK HACK(シクハック)でいうと「廣井きくり」SIDEROSでいうと「内田幽々」のポジションです(いずれのバンドとキャラクターも『ぼっち・ざ・ろっく』という作品の登場人物です)。ええ、めんどうくさいタイプです。
それはさておき実際のバンドでいうと、Likin Park(リンキン・パーク)、Slipknot(スリップノット)、OASIS(オアシス)などでしょうか。特にLinkin Parkについては感慨深いものがあります。ファンの方であればご存知の通り、メインボーカルであったチェスター・ベニントンが自ら命を絶ち、事実上、バンドとしては「活動終了」と私は感じていました。確かにチェスターが亡くなった後もアルバムなどは出ましたが、いずれも過去のレコーディングから引っ張り出された音源が主体であり、旧譜の「Hybrid Theory」や「METEORA」に未収録音源を付け加えたものが出されたのがせいぜいでした。
ですが、今年、エミリー・アームストロングという女性ボーカルを迎え、再始動しました。再始動後、初アルバム「From Zero」がリリースされます。私は、今まで先行配信された楽曲を聴く限りでは、「新生」(この表現が適切かどうかはさておき)リンキン・パークには期待をしています。確かにエミリーに、チェスターのような鬼気迫るシャウトはできないかもしれませんが、逆にチェスターにない何かをエミリーが持っていることもまた否定できません。少なくとも私は楽しみにしています。おそらくファンの中にも「チェスターがいた時の方が‥」という人もおられると思います。そういった一部のファンは離れていくでしょう。それもやむを得ないことであると思います。ただ私は、リンキン・パークの新作が聴きたいという想いでいます。
チェスターがらみの思い出話を一つ。私はリンキン・パークの来日公演(A Thousand Sunsツアー)のチケットを購入することができましたが、ちょうどその公演を前にして、チェスターは自ら命を絶ってしまいました。当然払い戻しのアナウンスがあったのですが、当時の私はチェスターの死を受け入れることができず、(手続きが煩雑であったこともありますし)払い戻しはしませんでした。ただそういった私にとって思い入れのあるバンドが再始動する姿を目にすることができる、これほど幸せなことはありません(少なくとも私はそう思います)。
(本投稿を執筆している際に、リンキン・パークの12年ぶりの来日公演(2025年2月)決定のアナウンスがありました。感情がいっぱいになってしまって、「嬉しい」という言葉しか浮かびません)
あまり本題を圧迫してもまずいので少し話題を絞り、OASISに話を移しましょう。15年、長かった。仲直りしてくれました。ファンの方であればご存知の通り、OASISのギャラガー兄弟は仲が悪いことで有名で、私が若い頃から「小競り合い」を繰り返し、仲直りし、を繰り返していました。ですが15年はおそらく最長記録でしょう(ただこれは更新される危険性はありますが)。私は、今回の兄弟の仲直りの報を耳にするまで、「私が死ぬまでこの二人は仲違いしたまま、終わるのではないか」と密かに危惧していました。確かに57歳と52歳の「いい歳した」兄弟が、仲直りもできず、ミュージシャンとしての、また人間としての生を終えるというのは流石にちょっとな(笑)、と思います。
なぜなら、OASISというバンド、ノエル・ギャラガーというミュージシャン、リアム・ギャラガーというミュージシャンがそれぞれの音楽性そのものではなく、あまり真似をしない方が良いバンドあるいはミュージシャンとして認識されてしまいそうです。OASISの曲も好きな私としては、心配しておりました。既報の通り、仲直りしたようなので安堵しております。
本来であれば日本のミュージシャン、アーティスト、歌い手の皆さんにも言及したいところですが本投稿においては割愛させていただきます。リクエストがあればですが、別の機会にがっつりお話しいたします。
好きな声優さん考
私は、流行っているものにはあまり深く考えず飛びつく、という特性もあるので、我ながら迂闊な章立てにしてしまったな、と思っています。ただ私の特徴として、声優さんを追いかける形で視聴するアニメやプレイするゲームを決めているところがあります。具体的な声優さんを挙げて説明を試みたいと思います。
中村悠一さん。私にとって、一番説明しやすそうな声優さんであり、またYoutubeの「わしゃがなTV」などで、人となりをある程度存じ上げているためです。代表作は『呪術廻戦』五条悟、『ブルーロック』士道龍聖、『葬送のフリーレン』ザイン、『機動戦士ガンダム SEED FREEDOM』シュラ・サーペンタイン、『ハイキュー』黒尾、などなど。コアなファンの方からすればまだまだと言われてしまいそうなので、Wikipediaのリンクを貼っておきます。
このような追いかけ方をしていると、『ブルーロック』内の士道龍聖(CV:中村悠一)と糸師凛(CV:内山昂輝)とのやりとりは、私の中で、「呪術廻戦」のキャラクターである五条先生とその教え子の一人、狗巻棘(いぬまきとげ CV:内山昂輝)のやりとりとダブります。もちろんお二人ともプロであるので、それぞれの作品内でそれぞれの関係性をきちんと分けて表現しておられます。
ちなみに『ブルーロック』と『呪術廻戦』との共通している声優さんでは、櫻井孝宏さん(『ブルーロック』:糸師冴<凛の兄>、『呪術廻戦』:夏油傑<五条の親友>)や、日野聡さん(『ブルーロック』:オリヴァ・愛空 『呪術廻戦』:加茂憲紀)、諏訪部順一さん(『ブルーロック』:馬狼照英、『呪術廻戦』:宿儺)、内田雄馬さん(『ブルーロック』:御影玲王、『呪術廻戦』:伏黒恵)、島崎信長さん(『ブルーロック』:凪誠士郎、『呪術廻戦』:真人)などがおられます(ちなみに日野聡さんについては「鬼滅の刃」だと「煉獄杏寿郎」ですし、櫻井さんは「富岡義勇」です)。
このように説明していくと連想ゲームのようにいつまでも続きそうなのでここまでにしますが、私はこのような形で見る作品を決めているところがあります。またこのような観点から作品と声優さんを見ているので、その声優さんを表現するためのキーワードのようなものが浮かんできます。中村さんで言えば、「作中あるいは作品内に登場する組織やチームなどの中では最強の存在(あるいはそれに準ずる実力の持ち主)」という表現に落ち着くのだと思います。
作品に声優さんをキャスティングする制作の側からすれば、「このキャラクターは〇〇でこういう生い立ちだから、声は△△さんにしよう」というロジックが働いているのかもしれません。今まで挙げてきた声優さん達であると、オーディションなどをせず、製作陣の方から逆に指名を受けるということを聞くことがあります。声が「キャラ立ちしている」からでしょうか。
女性声優ですと、早見沙織さんが思い浮かびます。「普段はお淑やかに振る舞い外見もそれに相応しいが、状況や精神状態などによっては真逆の、乱暴な、あるいは攻撃的な言葉遣い・振る舞いを見せる「二面性」を持つキャラクター」が共通項として挙がるような気がしています。「鬼滅の刃」胡蝶しのぶ、「呪術廻戦」伏黒津美紀(恵の姉)、「賭ケグルイ」蛇喰夢子、「スパイ・ファミリー」ヨル・フォージャーなどが浮かびます。
ただキャラが立った声優さんが全てかというとそうでもないようです。キャラクターに「憑依」するかのような演技をされる声優さんもおられます。男性声優で言うと、櫻井孝宏さんがそのタイプかと私は思います。櫻井さんの声優としての演技を意識して聞いたのは、「呪術廻戦」本編の前日譚「呪術廻戦0」だったと記憶しています。もちろん夏油傑役でしたが、なかなか形容するのが難しい(当時の私としては)演技でしたが、櫻井さん以外に夏油傑役は務まらないと思いました。最近、アニメで放送された呪術廻戦第2期渋谷事変にて、冥冥(CV:三石琴乃)が過去の夏油への印象として「ニヒルな笑顔」と言う表現を用いていたときに、その答えが出たような気がします。ですが、ご存知の通り、「鬼滅の刃」では冨岡義勇という極めてコミュニケーション下手な、無愛想なキャラクターです。
女性声優で言うと、種崎敦美さんでしょうか。「葬送のフリーレン」フリーレン、「スパイ・ファミリー」アーニャ、「薬屋のひとりごと」玉葉妃など。フリーレンのほとんど感情の揺れを感じさせない声(例外としてミミックに頭を突っ込んで抜け出せなくなった時(「暗いよー!怖いよー!」)としょんぼり顔の時)、フリーレンとは逆で感情の揺れが大きく出る上に舌足らずなセリフ回しを要求されるアーニャの声、フリーレンとアーニャの中間に位置し成人した、しかも聡明な女性の声を要求される玉葉妃の声、全て同じ種崎さんの声です(同じタイプの声優として「薬屋のひとりごと」猫猫の悠木碧さんにも言及したいところですが)。
私は種崎さんが主役、あるいはキーパーソンを務める前述の作品群を同時期に視聴していた時期もあったので、3回種崎さんの声優としての演技を聞く日もありました。改めてプロの声優さんの凄さ、それを支える努力を思い知りました。
本当はまだまだこのテーマだと、もっと語りたいことがあるのですが、本投稿の主旨である2eと言うことへの言及が薄くなってしまいそうなのでこの辺りにいたします。リクエストなどがあれば、こちらも別の機会にがっつりお話しいたします。
2e(Twice Exceptional)という特性について
大まかなイメージ
まず2eと言う言葉を障がい者の分類の中で、耳にすることはまずないかと思います。2e、つまりTwice Exceptional(「二重に特別な」あるいは韓国や中国では「二度例外」)ということですが、「特別」が「二重」ということに今ひとつピンとこない方もおられるかと思います。まずいわゆる発達障がい者(例:ものの整理整頓が極めて苦手)として一つ「(その人に)特別な配慮が社会に対して求められる」、そしてその「特別」と併存する形で特殊な能力(異能、「ギフテッド」的能力)を持つ(二つ目の「特別」)を持つ存在が「2e」という存在です。
2eに関する基本的な 問題としては、2e属性持ちの人たちはどちらかの「特別」に、もう一方の「特別」が隠されてしまい、当事者たちからすれば、社会から(両方の「特別」をみてくれていないという意味で)中途半端な理解をされているというところが悩みどころではないのかなと思います。私もモヤッとする時があります。
このデータについては、リンク先を参照いただくことになるかとは思いますが、特性としての「2e」保持者は、人口の0.06%〜0.1%であるとされています。言い方を変えると、「一万人に六人、あるいは千人に一人」しか存在しない、それが「2e」属性持ちの特徴です。障がい者向けの合同企業説明会やあるいは一般向けの合同企業説明会でも、なんとかしてこの「2e」という特性を説明しようと試みますが、障がい者向けの説明会であっても、担当者にご理解いただけることはまずありません(理由あるいは推論は後述いたします)。いわんや、一般雇用の説明会では「なんだそれは?」みたいな表情を浮かべられてしまいます。先ほど述べた比率からすれば致し方ないことでしょう。
もっと詳しい説明を必要とされる方のためにWikipediaのリンクを残します。
実際(あくまで私を例として)
さてこれは2e特性を持つ全ての当事者に言えること、もとい、精神障害や発達障害、知的障害の当事者全てに言えることですが、こういった人々の「障がい」がどのような形でその当人の生きづらさを生み出しているかは人それぞれであるということです。例え、同じ発達障害であっても、困っていることや社会において生きづらさを感じているところは、障がい者の数だけあるということです。例えば私のように「整理整頓が極めて下手」な人もいれば、整理整頓は大丈夫でも「通常の対人関係の構築に困難を覚えている」人もおられます。またそのどちらも苦手という方もおられるのではないかと思います。またもっと別な生きづらさを抱えておられる方もいると思います。そのような意味では、障がい者こそが、生きづらさという点では多様性を持っています。
生きづらさでさえ、多様性をもつ。2eが持つもう一つの特性(異能、「ギフテッド」的能力)もまた多様性を持つと私は考えています。私は、自身を聴覚優勢型であると思っています。
いくつかエピソードをあげます。私は街を歩いている時、だいたい音楽を聴きながら歩いています。ノイズキャンセリング機能つきのものです。音量は、聴覚に障害を引き起こさない程度に抑えています。いわゆる爆音ではありません。その状態でタワーレコードやHMVといったCDショップ、飲食店、コンビニエンスストアに入ると、自動的に(あるいは無意識に)耳でとっている情報の優先順位が入れ替わります。(飲食店に入った時はすぐAirPodsを外しますが)イヤホンで聴いている音楽から、CDショップの店内で掛かっている曲やアナウンスが優先されます。そしてその曲のメロディや歌詞などを脳内の記憶を元に検索をかけます。タイトル、ミュージシャン、だいたい両方とも「正解」に辿り着きます。分からなくて、気になって仕方のない時はShazamというアプリを使います。
音声情報の優先順位の切り替えはCDショップに特化したものではなく、飲食店などでかけられている音楽でも同じです。つまり街中で掛かっている音声情報全てに適用されます。もちろん私自身は音声情報の優先順位の切り替えを意識したことはありません。私の脳が、勝手に入れ替えている感じです。今となっては、別に違和感も覚えなくなりましたが(笑)。
次のエピソードです。私は幼い頃、海外、アメリカ合衆国東海岸で家族と共に一年ほど暮らしたことがあります。帰国し、中学校の英語の授業でリスニングの時間がありますが、聞き取り(厳密にいうと英語による発話も)に苦労した記憶がありません。当時の私も、またつい最近の私もアメリカで暮らしたことで耳が英語に慣れたんだろう、と漠然と思っていました。ただどうやらそうではなかったようです。
最近になって、母校の大学で公開講座があり、ロシア語講座(初級)を受講しました。いうまでもなく、英語とロシア語は全く別の言語です。ですが私はロシア語の発音を1回から2回ほどで覚えてしまいました。くだけた表現をすれば、ロシア語の「耳コピ」ができました。講師のロシア人(かなり高齢でしたが)の方も驚いておられました。その講座での私に対する課題は、(講師の方からすると)「文字と音声を一致させること」に切り替わった印象を持ちました。
私からすると外国語の発音とは、私が耳でとった音を自分の口で忠実に真似をするだけです。人間の発声器官は、全世界共通ですので私はそれほど難しいとは思っていません。ただ言語によっては、発生する際に使う部位が異なります。例えばフランス語のr音(口蓋垂(いわゆる「のどちんこ」)を震わせて出すr音)はうまく発音できるか、自信がありません。
私の発音については、もう一つエピソードがあります。10年ほど前に中学校の同窓会がありました。同級生と話しているときに、当時の私の英語の発音のうまさに話題がいきました。その同級生曰く、英語担当の教員が、私の発音を聴いて「上手かったからもう一度発音してくれ」と指示を出した、そうです。
なぜ「そうです」という伝聞表現をしたかといえば、私の方にはそのような記憶は全くなかったからです。その場の和やかな雰囲気を壊したくなかったので、「お、おう‥」のように歯切れの悪い反応を返した記憶があります。この反応については記憶に残っています(笑)。
2eであることの困難さ(あくまで私を例として)
まずわかりやすい困難として、「部屋などの整理整頓がとても苦手」という点があります。ただおそらく街を歩く私を障がい者だと思う人はまずいないと思います(これが転職活動の難しさにつながってきます)。どちらかといえば、颯爽と、あるいは、肩で風を切るように歩いているように見えるかと思います。あまり出くわしませんが、私が「自分が障がい者であること」を証明する必要が出た場合、極めて難しいです。確かに障がい者手帳(精神)は、3級を取得しています。公共機関・美術館などであれば、それを見せれば引き下がってくれる(変な表現ですが)と思います。
ただそうではないごく普通の一般の方から、障がい者であることを証明してみせろと言われると、どうしようもないです。見せて納得してくださる方は少数であると思います。なぜなら障害者手帳から私の部屋の様子を窺い知ることはまず無理だからです。一つの方法としてスマホなどで部屋の様子を撮影し、それをお見せするしか、私にはできません。これでさえ、完全に信じてはいただけないと思います。なぜならその画像が「本当に私の部屋の画像か」を証明する術がありません。ネットで拾ってきたのだろう、と言われてしまえばそれまでです。
結局のところ、疑いを持つ人にご足労いただき、その人を私のアパートの部屋にあげて実際に見ていただくより他に手がありません。この方法が現実的かといえば、全くそうではありません。物騒な世の中になってきているので、知らない男性の、アパートの荒れ果てた部屋にそこの住人である私と二人きりで上がり込む人が果たしておられるでしょうか? 女性はいうまでもなく、男性であっても強い拒絶反応を示されると思います。また私も自分の部屋に、よく知らない方をその方が男性であれ、女性であれ、部屋にあげたいとは思いません。そういう意味ではこの困難は、もうどうしようもないと諦めています。
次に分かりにくい困難をあげていきます。これも障害者手帳や外からは計り知ることはできません。それは「絶えず脳が活動している」ということです。「そんなの当たり前じゃないか」と仰られるかもしれませんが、絶えず何がしかのことを考え続けているのです。例えば、「次の面接の時、自分の障害をどう説明しよう?」、「前を歩いている人、歩きスマホしているけど大丈夫なんだろうか」などなど、前者についてはその時点で説明を求められてもいないし、後者については私が前方の人に注意を払い続けていれば前の人が何をしようとどうとでもなります。どちらもその意味では「どうでもいい」です。そういう「どうでもいい思考」の元となる情報を、目、耳を中心に集め続け、それら情報に対する分析であったり、無意味なシミュレーションを行なったりしている。それが起きている(正確にいえば意識のある)間、ずっと続きます。唯一、その状態から解放されるのが夜寝ている時です。ただ寝ている時も脳は活動し続けているので、脳の活動は止まっていないのでしょう。つまり寝ている時だけ脳の活動を意識せずに済む感じです。
そのため、脳のエネルギー消費量が極めて多くなっているという実感を持ちます。具体的にいうと、疲れてくると無性に甘いものが欲しくなります。ここ数年になって出てきた傾向です。これには根拠を持っていえます。脳という臓器は、体重に占める割合が2%程度であるにも関わらず、人間が摂取するエネルギー(主に糖分)の25%、酸素の15%を脳という臓器のためだけに消費しています。つまり脳という臓器は、極めてエネルギー効率の悪い臓器です。
少し脱線しますが、「脳の10%神話」という俗説(迷信?)があります。10%という数値にあまり意味はありません。これは、人間は脳が本来持つ能力の10%しか使えていないというもので、残りの90%は「ブラックボックス」であると信じられてきました。残りの90%のブラックボックスは、いわゆる「超能力」の源であるなどと信じられてきました(「北斗の拳」という漫画では、活用できているのは10%ではなく、3%だったと記憶しています)。現在ではこの俗説は完全に否定されています。また私も実感を持って、私の脳は常に100%の力を出しているといえます。
大人になってからギフテッドであると診断された人々について書かれた本を読んだことがあります。その本は章が変わるごとに、扉のページに当事者たちのコメントが載せられていました。その中に、「考えることを止める薬を出してほしい」というコメントがありました(匿名の少女のコメントであったと思います)。ここでいう「考えること」は、私にとっての「どうでもいい」思考なんだと思います。マインド・ワンダリングというようです。その想いはよく分かります。
リンク先の記事をお読みいただきたいのですが、マインドワンダリングは「ポジティブで建設的な空想」、「失敗に対する罪悪感」、「注意力の制御不良」の3つのタイプに分かれるようです(あくまでおおまかな定義なので)。
ただ私の場合は、強いていうなら「ポジティブで建設的な空想」であるとしか分類できません。残りの二つ、「失敗に対する罪悪感」と「注意力の制御不良」は私には当てはまりません。まず「失敗に対する罪悪感」については、心がけているからかもしれませんが、「終わったことなんだからしょうがない」という一言で終わってしまい、罪悪感をずるずる引きずった状態にはなりません。また「注意力の制御不良」もないと思います。なぜなら私は「ポジティブで建設的な空想」をしながらも、周囲の状況(周りの人との距離、後ろから来ているであろう自動車や自転車の走行音など)には最低限の脳のリソースを割いているからです。また先ほども申し上げたように大体、私は音楽を聴きながら街を歩いています。「注意力の制御不良」によって誰かとぶつかってトラブルになったことはありません。
またギフテッドの特性を持つ人は、無意識に脳に負荷をかけるあまり、本来であれば、生命維持に関わる他の部門に回すべきエネルギーを脳に回してしまっているという記述もありました。その「他の部門」とは、免疫系だそうです。それゆえにギフテッドの特性を持つ子供たちは、感染症に極めて弱く、結果として若くしてこの世を去るようです。
ではなぜ私は四十代まで生きることができたのでしょうか? それは、私にも分からないですし、別に知りたいとも思いません。強いていえば、父と母が丈夫な体に産んでくれたことくらいしか思い当たらないです。そして二人とも私の意思を尊重した子育てをしてくれたからかもしれないです。ただそれ以上は考えることはありません。分からないことを考え続けることほど、人生の残り時間の浪費につながるものはないと考えています。
現在の状況として
転職活動の難しさ(いわゆる「障害者」にも見えないし、かといって「健常者」でもない)
社会的認知が極めて低い
幸い、近年になって大枠としての発達障害に対する社会的認知は高まってきましたが、その発達障害がもたらす社会における生きづらさが多様であるということは、私の感覚として、まだまだ認知が高いとはいえません。特に私の持つ2e属性の場合、「多くの人がイメージする発達障害」と「ギフテッド的能力、異能」が同居しているため、なかなかに厄介なのです。整理整頓が下手ということを証明することが極めて難しいのに反して、ギフテッド的能力や異能はある程度隠すことはできても完全に隠すことはできません。というかそうした能力を隠す必要はないと思います。日本社会が求める、いわゆる「個性」であると私はおもっておりますので。
私が現在、参加している発達障害者向けの就労移行支援事業においても、私は若干「浮いて」います。ただ「浮いて」いるからこそ、自分の姿を客観的に、かつ高い解像度で見ることができました。私は、他の方と違ってかなり長く集中力を維持でき、比較的高い精度で作業ができる。
短所としては、マニュアルをよく読まず、それゆえ不明なところを確認せず、作業に入ってしまうので作業を全て終えても、その作業が全て無駄になってしまうということを繰り返しています。これら短所の原因は色々だと思います。自分自身の能力への過信、家庭環境からくる「人を頼る」「人に相談する」ということが劇的なまでに下手くそ‥。ただこういった理由で失敗を誤魔化す、あるいは「正当化してしまう」ことは極めてよくないことであると自覚しています。
私が陥りがちな失敗のパターン(の一つ)を挙げておきます。
まず比較的軽微なミスをする
一旦手を止めてミスの詳細な分析をすればいいものの、めんどくさがって、また作業スピードを落としたくないため、小手先の手段でどうにかしようと「小細工を弄する」(修正をかけようとする)
(所詮は小細工、浅い分析にすぎないので上手くいかず)ミスが大きくなっていく
(2と3を繰り返していくうちに)軽微なミスが積み重なってできた大きなミスとそこまでミスを大きくしてしまった自分への怒りでどんどんミスが雪だるま式に大きくなり、また自分への怒りのようなものでイライラを周囲に撒き散らす(この辺りで周囲の方が介入してくださいます)
社会の「ギフテッド」への誤解
また社会の多くの人がギフテッドを「キラキラした素晴らしい能力の持ち主」としてしか捉えておられないような印象を持ちます。ですが、「キラキラした素晴らしい能力」を発揮してはいますが、先ほど述べたように(少なくとも私は)「絶えず脳が活動している感覚」に悩まされています。確かに絶えず何かを分析しているため、ある物事に対する(定型発達者に比べ)深い洞察に至ることも、また「答え」に早く、あるい複数の答えに辿り着くことも、また周囲のいろいろなものに気づき適切な対応ができることも(いわゆる「気が利く」)あります。でもそれは極めて強い脳疲労という代償を伴います。
つまり、ギフテッドといっても「形を変えた生きづらさ」を抱えて生きていると私は思っています。現に私も、感覚を共有するというのはほぼ不可能であると思いますが、「脳の血管に血液が流れ込む」感覚、より砕けた言い方をすれば「脳がうずく」ような感覚があります。そして若い頃とは頭の違う部位が痛む時もあります。
また発達障害(整理整頓が劇的にできない)にも苦しんでいます。確かに自分を発達障害であると受容してしまえば、かなり楽になります。この点はキューブラー・ロスの「死の受容のモデル」と似たようなところがあります。「どうしようもないんだ」、と「諦める」、「悟る」、あるいは「発達障害のせいにする」ということができます。ですが、これらも100%、発達障害者としての自分を受容できるわけではありません。少し楽になる、というくらいです。荒れ果てた部屋を見ながら、どうにかしなきゃなーと焦る時もしょっちゅうあります。いえ、ほぼ毎日です。
ただ救いとしては「整理整頓が劇的にできない」ことへの対処策は、すでに私の頭の中にあります。ものの管理が負担であるなら、「ものを必要最小限にすれば良い」のです。簡単にいうと物心共にミニマリストになればいいのだと思っています。幸い、技術的な進歩もあり、複数の機器が担っていた役割が一つに集約される傾向にあります。スマートフォンがいい例ではないでしょうか。電話、簡易的なパソコン、ゲーム機、地図、服薬管理機能、活動量計、動画を見るための道具‥。
ただ私はほとんどテレビは見ませんし、見たいアニメはどこかの合法的な動画配信サイト(例:ネットフリックス、hulu、abema、u-next、dアニメなど)で見れば良い話です。ネタバレをされなければ、少しくらい遅れた配信であろうと全く問題ありません。またYoutubeの動画は、自宅にWifiが来ているので、自宅のパソコンから見れば、スマホの通信費としては、0です。また音楽のダウンロードも同じことです。その他SNSも、出先でチェックする必要は全く感じません。
障害者全体への社会の誤解
対象を広げ、身体・知的・精神・発達の枠を取り払い、広く「障害者」に対する社会からの誤解について語ってみようと思います。私も障害者の一人ですので、開くまで、私個人の見解になりますが、いわゆる健常者(定型発達者)が多数を占める社会が持っているバイアス(認知の歪み)ついて語る資格はあると思っています。
まず我々、障害者も社会においてやりたいこと、行きたい場所はありますし、会いたい人はいます。そして周囲の人々の理解を得つつ、行きたい場所に行くことができ、かつ会いたい人に(ライブなどを想像してください)会いに行くことができます。その意味で、障害者を「行きたい場所に行けない、会いたい人にも会えない、可哀想な人たち」と定義するのは、全くの偏見であると思っています。「行きたい場所に行けない、会いたい人に会えない」という障害者の方も、相当数おられることは承知しております。
ただそれはあくまで障害者の中の一部であって、全ての障害者に該当するわけではありません。内部障害者及び車椅子を必要とされる方向けのトイレ、(電動式)車椅子、介助犬、白杖、車椅子昇降用エレベーターなどを使い、行きたい場所へ行き、会いたい人に会える障害者の方々もたくさんおられます。バリアフリーを推進する観点から、様々な施設・設備が社会の中に増えてきたことは非常に喜ばしいことであると思います。私自身は、例としてあげたものを使わなくて済んでいますが、これらのものがあるだけで、どれだけ多くの障害者が助かっているかくらいは想像できます。
こうした社会の理解に我々、障害者は感謝しております。配慮していただいているという思いもあります。ですが自分たちのことを「可哀想だ」と思うことはありません。せいぜい「ふつう」の人たちより、多めに「生きづらさ」を感じているだけです。人によっては「生きづらさ」を感じさせない、ありふれた表現になりますが「輝いて見える」方もおられます。
幸い、こうした配慮によって、社会に出て働くことができ、繰り返しになりますが、行きたい場所に行き、会いたい人に会うことができています。それゆえにやりたいことは、我々障害者の中でも増えてきています。
これを読んでいる読者がどのような方かは存じませんが、強調しておきたいことがあります。
多数派の立場から、「健常者」「定型発達者」「ふつう」である立場から、「あの人たち、可哀想」という優越感に基づいた偏見を持って、我々障害者を下に見るのはやめていただきたいと思っています。
この手の話題では必ずといっていいほど出される例として、某局がやっておられる24時間に渡り、同一の番組を流し続けるアレです。芸能人の方がマラソンをされるアレです。「感動ポ⚪︎ノ」という表現を私は好みませんので、別の例えを使って説明しようと思います。我々はサーカスでの見世物小屋の見せ物ではありませんし、また「健常者」「定型発達者」「ふつう」「多数派」の皆さんに感動していただくために社会に存在しているわけではありません。私たちもまた、社会において何かをしたくて、誰かに会いたくて、活動しています。
今後、2e当事者としてやってみたいこと
障がい者であろうと社会で活躍できるということを証明する
これに関しては、転職活動を終え、どこかの企業で働くことができれば(比較的)容易に達成できるのではないか、と思います。無論、現在でもたくさんの方々が「ふつう」の人よりも多くの「生きづらさ」を抱えながらも奮闘されていると思いますので、それらの人々の中に加わるだけです。
私が求めていることは社会に対して何らかの貢献することであって、権力を求めるわけでもなく、また高額な金銭的な報酬を求めているわけでもありません。ただ私の社会生活が成り立つくらいの経済的な基盤が欲しいだけです。
発達障害者向けの自助グループを作る
残念ながらと申しますか、発達障害に対する公助は今の社会では不十分ではないか、と私は感じています。確かに障がい者の就労支援事業などの分野で奮闘されている企業や特例子会社などという形で一般企業も努力されていると思いますし、それらの奮闘や努力を否定するつもりはありません。ただもっとそれらの奮闘や努力をもっと社会の広い領域へと広げる必要があるのではないか、と思っています。
そのための手段として、私は自助グループを作ろうと思っています。もちろんいきなり主宰としてではなく、企業で働きながらいくつかの既存の自助グループに参加しつつ、ノウハウを学び、いずれ独立したグループを作ろうと思っています。
またこれはちょっとした思いつきではありますが、手話を学ぼうとも思っています。理由は、2025年に東京デフリンピックが開催されるためです。
公式ボランティアとしてだけでなく、手話ができる人間が一人でも多く街を歩いていた方がいいかな、というくらいです。
最後に
久しぶりに長い文章を書きました。本当はもっとたくさんのこと・表現が執筆メモにありましたが、このテーマには不要なもの、あるいは不快感を読者に感じさせるものもありましたので、今回の投稿では取り上げませんでした。でも四十代後半に入って、これだけの熱のようなものが自分の中にあるとは思ってみませんでした。そしてまだまだたくさんやりたいこと、会いたい人、行きたい場所がある、それはとても幸せなことだと思っています。
もしリクエストなどがあれば、Xのアカウントへダイレクトメッセージをいただければと思います。ただし投稿内容については、全てのリクエストにお応えすることはないと思います。その点、あらかじめご了承くださいませ。
「千里の行、足下より始まる」という言葉もございます。まずは今日という日を後悔のないように過ごすことが私の今現在の課題です。それではまた!
P.S.
とりあえずリンキン・パークの来日公演に参加するかどうかの長考モードに入りまーす。