短編小説「麻倉」
「…え?」
目に映るものは空以外何も無い。
言い方に語弊があるにしても、現状を伝える言葉としては何一つ間違ってはいない。
私が見ているものはなんなのだろうか。状況が理解出来ないし、起きたばかりの頭は考えるための機能を動かせていない。
「背中が冷たい…私寝てる?」
私は背中の冷たさと身体の感覚から今現在寝っ転がっているということを判断した。
空を見上げてみても得られる情報は数えるのみ。空が綺麗だとか今は昼だとかが限界なので、空を見上げるのが趣味ではないなら起き上がるのが必然か。
私はゆっくりと身体を起こして、空以外の視覚情報を頭に入れ始める。様々な木々が生えて地面も雑草や芝で溢れかえる。人の生活圏とは言い難いこの場所は森だろうか。
「ようこそ。目の前の女性よ」
先程まで何もいなかった足元に突如として猫が現れた。可愛い黒猫。
「あら、可愛い黒猫。ここはどこなの?」
「森の中でございます」
「うーん…それは見てわかるのだけれど」
「もう少し深く言うと、ここは島の中にある森でございます」
「島…そうね…潮の匂いはするわね」
目の情報だけでは分からなかったが、潮の匂いがする。海に近い証拠だ。黒猫の言うことは間違いではなさそう。
「島に来た記憶は無いのだけれど」
「それも無理はありません。神様の気まぐれに巻き込まれているのですから」
「あら、神様もいじわるね。女性をこんなところにポツンと置いていくだなんて」
「元々はあなたが神様に近寄ってしまったのですから、致し方ない部分ではありますよ」
そう言われたところでそんな記憶は無い。ここに足を踏み入れた記憶は無い。
私は何をしてここに来たのかを思い出す。
倒れる前に何をしていたのか、神様にどうやって近づいたのか、ここに何をしに来たのか。
必死に頭を回転させても何も出てこない。記憶の欠片も脳内には残っていない。全ての情報を洗い出してみたが、恐ろしいことに気がついた。
そして、私は私自身に問いかける羽目になった。
「私は誰だ」
「女性よ。やっと気がつきましたか」
「黒猫…私は一体…誰なの」
「あなたの記憶は今ほとんどありません。神様が会った時に全ての記憶を戻してくださいます。では、行きましょう」
不審者には着いていかないと子供の頃から教わっているけれど、今その教えを行使できる状況かと問われたらそれは否だ。
記憶が無いまま放っておかれることを考えると恐ろしいのだから、着いていかざるを得ない。
「ねぇ、海を見せてくれないかしら」
私は折角島に来たのだから海が見たいと笑顔で提案した。
「海ですか?いいですけどこの状況下で?」
「えぇそうよ」
「マイペースですね。分かりました。あちらです」
以外にも意見は即承諾されてしまった。
急いでるからダメだと言われるかなと思ったのに。
海まではすぐだった。
案内をする黒猫に着いて森を歩くとすぐに視界は抜けて砂浜へ。海の先を見て陸地があればここがどこら辺か思い出せるのかもしれないと精一杯の知恵を出したのが、あえなく撃沈した。
砂浜の先は本来海のはず。なのに、海は色濃い霧で一切の表情を見せない。
「晴れなのに霧が」
「この島は今完全に独立をしていますので、外界の情報は遮断されます」
「あら、そうなのね残念」
「諦めが早くて助かります」
人の手のかかっていない美しい表情を魅せる砂浜に、全てを隠す霧化粧の海。対比がとっても綺麗でどことなく神秘的。当初の思惑は外れたが、来てよかったのかもしれない。
私の記憶が戻ったとしてもこの景色は忘れたくない。おそらく二度と見ることは出来ない。
無い記憶に刻んだ初めての喜び。
「さて、行きましょうか。記憶を戻すために」
「そうね。寄り道はこれで充分だわ」
私は隠れた海に別れを告げて森へと戻って行った。黒猫に神様はどこにいるか聞いてみたらこの島の真ん中にある「倉」の中にいるとの事。いかにも神様らしい住処ではあるが、神様の気まぐれならあちらから出てきて欲しいものなのに。
目的は不明。神様が私に何かをしたのか。はたまた、私が神様に何かをしたのか。言葉通り「神のみぞ知る」といったところか。
私が何かしていた場合はどうしたらいいのだろうか。頭の中で一生懸命考えたら1つの答えが出たから安心した。
「謝れば大丈夫」
最悪は神様に美味しい料理を紹介すればきっと機嫌は治してくれるはず。
「美味しい料理…」
記憶は無いのに美味しい料理のことが頭によぎったのは不自然だ。
頭にないのに浮かんだということは。
「私は食べるのが好きなのかしら!間違いないわ!」
感覚から自分自身についての情報を手に入れた。あまりの嬉しさにその場で飛び跳ねてしまった。
「独り言が多いですねぇ。食いしん坊な事が分かったのがそんなに嬉しいですか」
「あ!黒猫ちゃん。デリカシーが無い。女性にそんなこと言っちゃだめ。食べるのが好きだということよりも、自分で自分の情報を得られたことが大事なの」
「左様ですか」
食べることが好きだと分かったところで特に何も無いのは事実ではある。
神様に会うまでの悪あがきかもしれないけども、この行為を無駄とは呼びたくない。
その後も少しの異変も逃さないよう慎重に黒猫と会話をした。私で私自身を取り戻すために。
森の中をどれだけ歩いてどれだけ会話をしても自分のことは全然分からない状態だった。
頭の中は霧がかり、ただ時間に弄ばれるだけ。気がついたら時の影に閉じ込められるかのよう。
黒猫も「もう諦めろ」と言わんばかりの表情。確かに神様に会えば全て解決するけど、可能であれば自分で取り戻したい。
「食いしん坊ってことしか判明しませんでしたね」
「黒猫ちゃん最低よ」
「もういいでしょう。そろそろ神様に近づきます。森も異変を出してきますから気をつけてください」
「はーい」
森の異変はすぐに訪れた。
木々は不自然に曲がり一種のトンネルを形成して私達を導く。木々達は私達に興味津々なようで黒猫に話しかけていた。
「珍しいね。お客さん?」
「神様首を長くして待ってるんじゃねえか」
「この島に他の人間なんて来るんだな」
これらの問いに黒猫は全て無視をした。私に話しかけられているのではないから、私が返答する理由もない。にこやかに笑顔で挨拶だけした。
歩いていると暑さと寒さが交互に訪れる。
不思議な現象だ。
この現象に記憶は無い。
花々は極端に大きくなったり、鳥のさえずりは爆音になったり等森の異変は私の感覚を凌駕してくる。
見るもの聞くもの全てが異変に変わってきた頃、今度は雨が降ってきた。
雨は次第に強くなり、視界が悪くなるほどにまで悪化。こんなにも強い雨があるのだろうか。
強い雨は等々視界を完全に遮断してここが森なのかさえも分からなくなった。
森…では無いと直感は言う。
また不思議な事に誰かとすれ違ったのだ。
気のせいとかではない。
確実に誰かとすれ違った。それが誰なのかは知る由もない。
「ほれ、雨は止みましたぞ」
黒猫の声と同時に雨はまるで降っていなかったとでも思わせるほど急に止んだ。
そして、何故か夜になっていた。
視界が開けて鬱蒼とした森と沢が流れているのが確認できた。あまりにも美しく、華麗なまでの光景に意識が持っていかれそうだ。
「あ!ホタル!綺麗〜」
「さっきから異常が起こりまくってるのにそんなこと言えるとは…神経図太いですね」
「こら!またデリカシーの無いわね。綺麗なものには綺麗と伝えるのがマナーよ」
驚く程に綺麗な景色は視線を釘付けにする。
不気味さも併せ持つここは一体何なのだろう。
「え?人?」
「どうされましたか」
「いや、隣に女性が…いた気がしたの」
「いませんじゃないですか。豊かな好奇心も程々にしてください」
「う、うん」
黒猫は呆れた顔でいっぱいの表情を浮かべてため息をついている。
だが、刹那感じ取った人の気配は本当に嘘だとは信じきれない。私は大きなモヤモヤを持って先へと足を進める。
細かい異常なんてどうでも良くなった矢先にどうやら目的地に到着したようだ。
「着きました。こちらが神様の待つ倉になります」
「結構普通ね」
「神様に容赦ない発言とは怖いもの知らずですね」
「思っただけよ」
「口に出てます。私はここまでになります。中へはおひとりで」
ハチャメチャな放浪はこれで終わり。
自分で解決したり何かしら障害があって乗り越えるという訳でもなく、ただ単に訪問したら記憶を教えて貰えるなんて都合が良すぎるのではないだろうか。変だなと少し思いながら重い扉を開ける。
中はもはや倉庫。ホコリ被った箱が所狭しと並べられて、来訪者の私へと目を向ける。
初対面なので挨拶は忘れず。
「箱の皆さんこんにちは」
「よく来たな。神様はこの先だ」
少々高圧的かとも思うが気にせず真っ直ぐ進む。箱からの目線を気にしながらも真っ直ぐに。
こうなると神様というのも、もしかしたら人の形では無いのかもしれない。
「ご名答」
「??」
「すまんの。心の声を読ませてもらった」
「あら、神様もデリカシーないんですね」
神様の正体も「箱」だった。
どんな神様かと思ったら箱が喋っているだけで、神々しさとかはあまり無い。神座が作られてそこにお供えされているような見た目はある。
「いやはや、すまないね来てもらって」
「いえいえ。私の記憶を取り戻さないとなので」
「いやぁぁ大変じゃったろここに来るまで」
「なんか色んな光景が見えました」
私は目に焼き付けてきた光景を思い出す。
不思議な現象ではあったが、身の危険は感じれなかった。木々はトンネルを作り天気は荒れまくるし、綺麗なホタルは見れたりと振り返れば面白いもの達ばかり。
「さて、何から話そうか」
「神様が箱なのがまずは気になります」
「なんてことは無い。この国は八百万の神の国であろう。どんなものにでも神は宿る」
「う〜ん…たしかに」
言われれば納得してしまった。
「この島は今でもかなり力が強くてな。この島を管理してくれる一族とその地域の者たちがお参りしてきてくれるのが理由じゃな」
「とても大事にされてるのですね」
「非常にありがたい話じゃ。この島は出入りが難しい。本島にある神社に参拝してくれる方が多いからね」
本島に神社がある島ということは、私はその神社のある地域の人間であるということだろうか。普通に考えればそうなるが。
「あぁ君はその地域の人じゃ。あっておる」
「何で本島の私が出入りの難しいこの島に?」
「大人になったからじゃ。そして、私が呼び込んだ」
答えは答えになっておらず更なる疑問を生む。
「大人になったから」これでは何の解決にもなっていない。全ての過程を無視したこの結論は如何なものか。
「考えてもみなされ。ただの一般人がここに呼ばれると思うかい?」
一般人がここに来ることは考えにくい。神様にそんな簡単に会えるほど神様も暇では無いはず。しかも、神聖な土地であれば一般人が立ち入ったら罰当たりにも程がある。
なるほど。
「私はここの島の管理してる側の一族なのね」
「ご名答」
これなら私がここに呼ばれた理由も納得がつく。腑に落ちないのは変わらないが。
「それで私は何で呼ばれたのですか?」
「我々からのご挨拶じゃ」
「え?」
「我々は信仰の力で自我を保っておる。時代が進めど変わらず我々を大切にしてくださっている一族のご令嬢。そんな方が大人になられたなら挨拶は必須。そういうことじゃ」
「え、あ、そうなのですね」
「いずれはご挨拶せねばと思いながらもなかなかに機会がなくてな。そしたら、ちょうど本島の神社にあなたが現れた。私は慌てて急遽こちらに呼び込んだのじゃ。勝手じゃったな」
神様の気まぐれというのはこういうことか。
「なるほど…」
「急遽呼んだから上手く召喚できなくてな」
記憶が無い理由と神様の気まぐれについてはこれで概ね理解出来た。
私は説明を聞いてる内に急に頭が冴えていた。
ここは父達が年に一度必ずお供え物を変えるために訪れる島。
私達の地域の特産物。この地域を発展させた特産物を感謝込めて奉納して、1年の繁栄を願う。
そうだ。ここは「神聖な島」だ。
「ちなみに、私が今でも箱だと思っておるかね?」
「いえ、もう分かりました」
「さすがは未来の当主様じゃ」
私は私の地域を守る義務がある。
先祖代々守られてきたこの島と街を。
「箱を開けてもいいですか?」
「ええ、あなたであれば」
この地域が発展した織物産業。
それになぞらえてとあるものを奉納する。
神座に近寄り膝を着いて箱に手をかける。喋っているのは箱では無い。その先の物が喋っている。
「記憶通りです」
「初めてお目にかかるのぉ…ご令嬢」
「えぇ。初めまして麻の神」
入っていたのは麻。
織物には必須の素材。
繁栄したことを祈って当主であった私の先祖様は名字を決めた。
「私は麻倉家ですね」
「左様。いつまでも我々のことをよろしくお願いしたいものじゃ」
「大丈夫です」
私はそっと箱を閉じて神座から降りた。
「先程の出口から出れば戻れるから安心して欲しい」
「はい。わかりました。1つ聞いていいですか」
この島には人がいない。そのはずなのにすれ違った実体の無い人達の存在が気になる。
「私はここに来る途中2人にすれ違った気がします。あれは誰なんですか」
「あなたにとって大事な…いつも助け合う2人じゃ。この世界でなくともどこかでな」
「わかりました。ありがとうございます」
力強い足取りで倉の扉を開けた。眩い光に包まれて私は目を閉じた。
「私の名前は麻倉もも」
麻の神は神聖な島の倉にて鎮座する。