最近のあれこれ
ひとりで山に登っている時、そういえば友人のゴリにピチピチでパンパンに膨らんだマグロのぬいぐるみをあげたことがあるなぁとふと思い出した。
ヴィレッジヴァンガードで見つけたリアルなビニール素材のマグロにテンションが上がって、こんなん誰だって喜ぶだろうと思い購入したのだけど、今となればあんなもん誰が喜ぶのだろうと思う。
次の連休にゴリとも山に登ったから
「そういえば私マグロのぬいぐるみあげたことがあるよね、どうしてあんなもんあげたんだろうね?」と言うと、ゴリは振り返り
「マグロじゃないよね、カツオだったよ」と言った。
ゴリの息も上がっている。
「カツオかぁ。確かにマグロよりプリっプリだったもんね。あれどうした?」
ゴリは笑って何も答えなかったから、また一歩、一歩と不安定な山道を登る。なんてことのない山でも道幅が狭くてすぐ横に急な斜面が広がっているのは今もどこか緊張するし、怖いなと思う。
意味の分からないものを押し付けて、数年後に所在を問われるというのもまた恐怖だろうなと思う。
会社のパソコンのキーボードが壊れてかれこれ4ヶ月ほど経った。
派手に玉子スープをぶちまけた割に地味に壊れて、GとHと7が打てない。地味に壊れたとはいえ、スポーツで言えばスタメンに違いないGとHと7を使わずに仕事をするというのはまあまあ大変で、IMEパッドの手書き機能を使ったり、どこかからコピーしてペーストするを繰り返していると気が狂いそうになる。自分の失敗を棚に上げてどうせならもっと派手に壊れてくれたらよかったものを!などと思ってしまったりする。
会社には別のパソコンもあるからそっちを使えばいいのだけど、ずっとこのパソコンをつかってきたから自分仕様になっていて、データを移して色々な設定をしてと考えるとGとHと7が打てないパソコンの方が少しだけ楽なような気がしてしまうのである。でもたった今「方が」を打った瞬間に溜まっていたフラストレーションが爆発して気が狂いそうになったのだけど。
そんなこんなでお昼休みにnoteを書き進めるという気がめっきり起きなくなってしまった。帰れば帰ったで自宅のパソコンを起ち上げて一から書く気になれず、更新が減っている時はあいつGとHと7が打てないもんな、とご賢察いただく存じます。
下書きが溜まっている。
自分が割と下書きを溜めない方だと思うのは、勢いで思いのままに書き上げるタイプだからで、書けない時は早い段階で気が付いて削除するというスタイルでやっていたのだけど、どういう訳だかここのところ下書きが増え始めた。
消すには惜しいけど着地点が見出せなかったり、文章自体は消してもいいけどたった一文が気に入って書き直してどうにかならないかしらと思ったり、再度編集してみても更新に至らないまま閉じている。
その下書きたちを目にすると、私は何か迷ってるのかなとか欲張り始めたのかしらなんて思ったりするのだけど、答えはわからないまま、自分の力のなさもGとHと7が打てないせいにして片付けている。
腕に長い毛が生えた。
透明で他の毛に比べて明らかに長い毛に気がついたのは、車の助手席に乗っている時だった。容赦ない日差しにズボラな私も堪らなくなって日焼け止めを塗っているとひょろっと長い一本の毛に気がついたのだ。
小学生の頃、音楽の授業で合唱をしていると、隣で歌っているともちゃんは歌いながら私の顔をじっと見ていた。なんでこっちを見ているんだろうなと不思議に思っていたら、歌が終わるとともちゃんは興奮気味に「ジェーンのほっぺからすごい長い毛が生えてるんだけど!」と言ってきた。
私が「うそでしょ?毛?」と驚いていると、ともちゃんがほらほらほらとその毛を指で引っ張った。本当に8㎝くらいある透明の毛が私の頬から生えていたのだ。どうしようどうしようとなる私にともちゃんが抜いていい?抜いていい?と聞くので抜いてくれと頼むと、ピンと頬が引っ張られる感覚があってその毛はあっけなく抜けた。
しかしくっ付いていた訳でなく、ちゃんと頬から生えていたのだ。
その毛が宝毛といって、自然と抜ける頃に幸福が訪れると知ったのは随分後のことだったけど、ずっとずっと不思議だった。どうしてその毛に気付かなかったのかということが。
確かにその毛も透明だったけど、毎日鏡の前で顔を洗ったり髪を結んだりしていたのに8㎝もの長さになるまで気付かないことなんてあるのだろうか。
もしかして10日間くらいで8㎝まで伸びたのかしら?と思うと気になって気になって仕方がないまま生きてきた。
宝毛が生えたら誰にも言わずに自然に抜けるのを待つと幸福が訪れるらしいのだけど、私はね、チャンスを得たんだよ。今はまだ3.5㎝くらいの毛がどのくらいのスピードで伸びるのか知るチャンスを!
幸福より疑問を解決したい。
人のいびきとか寝息が好きだ。
例えば自分が眠れない夜に、横で一定のリズムで繰り返す胸の上下や呼吸を眺めているととても安心する。
それが人でなくても動物でもそうだし、誰かが寝息をたてているというのはどうしてこんなに幸せな気持ちになるのだろう。
今日、帰り道に随分低い空を飛行機が飛んで行った。
赤いランプを点滅させて雲の中に消えていく飛行機を見上げて、こんなに大きく飛行機を見たのはいつぶりだろうと思い出してみると、3年前の外苑前、金色に輝く銀杏並木の下だった。
飛行機がすごく大きいねってベンチから見上げていた。
そうしたらその時間も自分も相手のこともすごく愛おしく思えてきたんだよ。
実際、人は一定のリズムでなんか生きられないし、エネルギーもあったりなかったりする。だけど寝息の聞こえるスペースに入っても嫌じゃない人たちに対してだけは、そういうの丸ごと引き受けられる自分でありたいなって思ったんだ。
夏がもうさよならですなんて言うものだから、飛んでいく飛行機にさえそんなことを思ってしまうんだよ。
ホットコーヒーを注文することは、夏が好きな私にとって少し寂しいことだ。