#22 ーうつ病みのうつ闇ー 自分をはめる罠…他人の問題と自分の問題
#20と#21で、残酷な正論についてかつてなく考え、自分なりに結論が出たはずだった。いつもはそこで止まっていた。それが最終地点だと思っていた。
でもなぜか今回は、自分がどうしてこんなふうに感じるのか、ふと不思議に思った。『○○~してくれない』『○○~された』そういう言葉が多いことに、何か違和感を覚えた。
今まで隠れていた何かの影が、ちらっと見えたような気がした。その正体を知りたかった。
相手は私を傷つける気などない。それはわかっているはずなのに、どうして自分がそんなにも、傷つけられたように感じるのか。どうしてこんなに腹が立つのか。なぜ一つの世界が、崩れ去ったように感じるのか。
本当にこれが最終地点なのか。この先には何もないのか…じっと自分の心を見つめ、ちらっと見えた影を追って、今までよりも一層深く深く自分の中に潜(もぐ)っていった。
その影を追って行って見えたもの…それはなんと、自分の姿だった。ああこれはきっと、相手の問題じゃなく、自分の中の何かが反応した結果なんだ――
『~してくれない』『~された』というのは、要求だ。相手に求め続ける限り、自分が満足することはない。誰でも、他人の期待に応え続けることなど、できないはしないからだ。
『自分の機嫌(きげん)は自分でとる』と、お笑い芸人のみやぞんさんが言うのを観て感心したことがあったが、自分の感情に責任を持たねばならないというのは、こういうことだったのか…
自分の痛いところに触れられて、その正論に傷ついた。
『家族はいざという時、助け合うものだ』――そういう家族でないことに…そういう家族にできなかったことに、罪悪感を感じ、また寂しさも感じていた。そんな風になれたら、どんな良かっただろう。
街で仲の良さそうな家族連れの姿を見るたび、羨(うらや)ましくて寂しくてどうしようもなかった。
幼い子供の手を引いて歩くママ。隣には赤ちゃんを抱っこするパパ。交わす言葉と視線に愛がある夫婦。本当に仲のいい家族は見てわかる。
子供があのくらいの幼い頃に、あんな風に仲良く外出したり、食事したり、旅行に行ったりしたかった…もっと子供を抱っこしたり、一緒に遊んだり、料理したり、掃除したり、日常のそんなごく当たり前の時間を過ごしたかった…
どんなに願っても、望んでも、祈っても――もう時間は戻らない。何だかとても自分が惨(みじ)めに思えた。私なりに一生懸命だったはずなのに、ごくごく普通の日常さえも奪(うば)われてしまった。
どうしてこんなことに…打ち砕(くだ)かれ、切り裂かれた心から熱い血が流れ出て体をつたい、止めどなく落ちていくようだった。
そんな現実が辛く、受け入れ難かった。取り返しのつかない大失敗をした自分を許せず憎むと同時に、心のどこかでそんなもう取り戻せない時間を、自分の人生を一度終わらせることで、やり直したいという気持ちもあったのかもしれない。
他人との関係も、所詮(しょせん)は自分自身との関係なのかもしれない。私は自分を嵌(は)める罠に堕(お)ちていたのだ。
自分の中にある問題や傷を、相手のせいにすること。他人の問題を自分の問題とごっちゃにしてしまうこと――
悩む相手にかける言葉として、正論が適切なのかどうなのか…それは相手の問題だ。
誰かの言葉に傷つけられたと感じる時、実はそれは自分の中にある傷に、たまたまその人が触れてしまっただけなのかもしれない。傷のないところをちょっと触ったぐらいでは、そんなに激しく痛むはずがない。
家族関係に満足している人が、「家族は助け合わないと」と言われたら「そうだね」その一言で終わる話なのだ。
誰かのアクションに自分の心が大きく波立った時、『自分の心が、なぜそうなったのか』を考えてみる。そしたらそれは相手の問題ではなくて、実は自分の問題であるということに、気づくことがあるだろう。
解決のカギは自分の中にあり、違う反応を選択することができる。そうなれば『何が』『誰の』問題かをはっきり分けられる。相手の問題を引き受けることがなくなり、自分の課題に集中できる。自分の傷を癒すことに。
自分の課題を一つ一つクリアしていけば、成長という変化が起こり、周りに振り回わされなくなる。やはり、解決のカギは自分の中にあるのだ。
これを書き始めた頃の自分を思うと、なんだかとても遠いところまで来たような気がする…