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考え事しながら歩ける幸せ
まえがき
ハノイ滞在期間は最終盤を迎え、残すは語学学校で行われる確認テストと発表会を残すまでになった。ノイバイ空港に到着してからここまで、大なり小なりの感情の浮き沈みはあったものの、都合の悪いことは忘れるように暮らす日々。今は、派遣前訓練と違い、1人の時間が多くあるため、ある意味自己管理能力が求められる。
訓練所での私の苦悩は以下を参照してほしい。
語学の苦悩
語学学校では、出来の良いクラスメートのおかげで語学学校の先生をはじめベトナム人の言っている単語を少しずつ拾えるようになってきた。しかし、パニック状態になると話は違う。理解できるはずの単語が形を変えて、いびつな紐のように絡み合い、理解を停止させてしまう。現在は、耳から聞こえた情報のみでの理解では到底情報量が少なく、相手の表情を中心とした視覚情報、声のトーンで相手の感情を推測するなど、ほとんど状況判断や経験則に基づく推測でコミュニケーションをとっている。現在の私では言語情報の理解に依存してはコミュニケーションは取れない。しかし、現在はそれに頼る時期ではない、そしてコミュニケーションは言語情報だけではない。ということも頭で理解しているが、理解できない、表出できないもどかしさがつい頭の片隅にちらついてしまう。
有名なコミュニケーションの学説として、「メラビアンの法則」がある。
学生時代から社会人になった後の研修でたこに耳ができてしまう耳にたこができるほど言われてきたものだ。しかし、今、もどかしさに直面しながらもいかにこれが私を勇気づけるものか、今この学説のありがたみを身に沁みて感じている。おおげさではなく、五臓六腑まで沁みこんでいる。ふと思ったのだが、日本だと、表情やトーンを変えなくても、コミュニケーションが取れてしまうことが多かった。そのため、この学説を軽視していたのだが、これは異国であればあるほど必要な情報だと感じる(n=1の意見)。
原著にあたるのは面倒なので、読むことは割愛させてもらったが、ずっと研修等でこの内容が使われていることが今、はじめて腑に落ちた。という具合で、私は勝手に前向きになっては後ろ向きになる絶叫マシーンの「ハリウッドドリーム・ザ・ライド」のような者だ。
あとがき
ハノイの交通状況は相変わらず最悪であり、良くなることは特段、30年ほど期待はしていない。日本では歩くことが好きであり、職場から自宅まで50分ほど夏も冬も雨の日も関係なく、よく歩いていた。それは人間観察ついでにその日の1日を振り返りながら、感情を整理するためでもあった。じっとしながら考え事をするより、動きながらの方が振り返り→感情と出来事を思い出す→なぜ自分はそう考えたのか理由を考える→明日への課題→ざっくりとした明日の行動計画というような感じで、歩きながら家に帰るまでにそれらを整理していた。しかし、ハノイに来てから、それがあまりできていない。というかそんなことを歩きながらしていたら、怪我や最悪命を落とし、親が私の身辺整理をせねばならぬことになる。歩道を歩いているのにクラクションを鳴らされ、バスや自動車、バイクには大きな石ころ扱い。ほとんどの横断歩道は物理的にも白線が消えかけており、圧倒的歩行者不利の交通状況ではそんなことはできない。はやく、代替を考えねば。
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井の中の蛙、大海原でも井の中と比べてしまう。