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モガモガ期間のこと

自分のために書き記してまとめておきたいようなので書いてみます。
自分のここ2ヶ月程のこと。(抽象的なものばかりで、実際何があったのかはわからないままの表現かもしれないけれど・・・)
自分のためのものなので、読まずともコメントなどもせずとも大丈夫です🍀
まとめられるくらいになりました。


嫌なものを嫌だと感じること
悲しい事を悲しいと感じること
痛い事を痛いと感じること
辛い事をつらいと感じること
怒りを、素直に出してあげること

そんな、当たり前の事を、これまでの人生で、自分は自分に許していなかったのだと思う。していたつもりで、奥底まで見てあげていなかった。
それらを、喜びと同じように、心地よさと同じように扱ってあげないと自分は自分を苦しめる。

抑えているつもりがなくとも、ここまでの何十年間、それこそ子供の時から今まで、抑えることが当たり前になっていて、知らずに抑えていたのだ。

今回の出来事が起こった時、私に訪れた感情は怒りだった。悲しみからくる怒り。瞬間的にワッと湧いて、フツフツ煮え立って、体に反応が出た。
自覚してからものの数分で、全身のしびれと呼吸困難で、倒れ込んだ。うまく呼吸ができず、手足はずっとビリビリして動かせず、涙をボロボロ流し、「大丈夫」と唱えながら数十分かけて落ち着かせた。多分血圧が急上昇した反応だと思う。調べたらそのものな症状。
心、感情から、こんなにも体に反応するのかと実感。
翌日も少し影響して動きにくくはあったけれど、症状はそれで収まった。

その後は、思考のグルグルが開始。
いつも通りのポジティブ寄りな思考もないわけではなかったけれど、ジワジワと侵食されていき、毎日、気づけば思考が乗っ取られ、怒り、落ち込み、食欲を無くしてみたり、眠れなかったり。(食欲、睡眠は、それでも確保していたので大丈夫)悪魔のような表情の自分も初めて見た。気持ちは確実に体に現れる。あとは、日々泣いた。毎日のように泣いた。それでも普通にしようと、気持ちを取りもどそうと、思考で、感情を切り替えたりしながら過ごそうと試みた。職場でも、周りでも、目立って気づかれた感じが無かったのは、ちゃんと振る舞えていたからか、優しさだったのか。
限界だ!と思ったり、呼吸が整わなかったり、それでも時間はちゃんと進んでいくし、限界は限界では全く無くて。生きている限り、大丈夫な範囲の中なのだ。出来事として、実際は自分が思うほどそんな大層なものではなく、井のなかの蛙。そうと知っていても、それでも、その時の自分にとっては限界だと思ってた。

私はこれまでの人生で、「なぜこれが起こったのか」「対象が人ならばなぜその人はどういう性格で、どのような発想でそうしたのか」そう思考して、「それならそうなるね」「対象はかわらないのだから、自分を変えよう」という解決法が常だった。それで納得して、それで解決できていた。
知識と、経験と、直感で、対処法はコレで、こういう風に捉えれば良い事で…なんて感じで道筋を見つけてこなしてきた。そんなに冷静になれずとも、どういうあり方であれば上手く行くのかわかっているつもりだった。
それが、今回通用しなかった。そんな余裕もなかった。
きっと、それが大きな答え。

ちゃんと、認めてあげてなかったんだ。受け入れてあげてなかったんだ。蓋をして、なかったことにしていたんだ。確実に、自分の「ダメ」とする感情に。この事をきっかけに、気づけたことの一つ。


この件が起きる前、ふと私がよく出そうとしてしまう言葉の中に
「正しい」「間違い」というワードがあるなと思っていた。
つまりは、全て正しく、全てそのままで良いよと思っている裏に、「正しい」「間違い」の区分けが私の中にあって、自分に対して「正しくなくてはならない」「間違ってはならない」があったのだと思う。あくまでも自分に対して。
(人はそんなに簡単には変わらないから、これからも出てくるワードであるとは思うけれど。)
今回の件は、私の中の「正しく」が出来事に牙を剥き、自分に対して責め立てていた。だって、人間だもの。出来事も、自分も、社会や自分や過去の経験が作った「正しい」にすべてが沿うわけではない。自分の中にだってたくさんの「正しい」にそぐわない私がいる。それを否定するのは自分を否定することだ。
これから、「正しい」がガラリと変わっていく気がしている。そんな様な事がたくさん起こる気がしている。そんな時に、自分の中心はどこ???を常に持っていれば大丈夫で、それを作っておく為にも、今回の事は必要なのかもなぁと思う。

そして、混乱の中で、「痛い」について考えたりもしていた。痛みほど、その時しか実感できるものはないと思う。痛いは直接的に教えてくれる。目の前になくとも、思考や感情だけで、本当に胸は体は痛くなる。体はとっても素直でいてくれる。あの苦しみを感じている時「痛い」と呟きながら「今しか感じられないものだ」とすごく大切だと思った。
過去、病気の時にも、出産の時にも思っていたけれど。正か負かどちらの向きなのか正体がわからずとも、サインとしてすごく大きなものだ。痛いから、不快だから、向き合うべきものに向き合うのだ。(もちろん、自然と無理なく離れられるならそれがベストで、エゴに巻き込まれる必要などないのだけど)

今回の出来事は、数ヶ月先、数年先の私から見て「なぜそんなに反応してたの???」と思うものかもしれないと思う。もし、相談されていたら「こうすればいいんだよ」と答えられる、正しい先がスッとわかるようなことだろうなと思う。そんな、甘っちょろく、ささやかな罠に、ズブズブ嵌った。物事の大小は、そうやって推し量れるものではなく、その時のその人に取って、一番のトリガーとなる形で、一番最適な分量で訪れる。大きく感じるならば大きいことなのだ。私にとっての最大値としてやってきた。
この感覚も、とても大切なもの。誰にとっても、自分にとってのトリガーがあって、対処法をいくら示されても、分かっていても、抗えないもので、それは人生のうちでとても大切なものなのだ。辛くとも。キツくとも。そんな最中にいる気持ちを、ずっとリアルに覚えていられなくとも、経験した事実はかけがえのないものだと思う。(これまでも、何度も同じようなことを感じてはいるのだけれどね。)

この他にも、様々な面から捉えて、毎日のように勝手に「このためか!」と発見を繰り返して歩いてきた。あっているかなんてわからないけれど、今回の事柄の中に、様々な理由や目的や意義がたくさんたくさん重なっていた気がしていて、切り捨てて見ないようにしてもしても存在がアピールされ続け、見なければ情報が更新されて悪化していく。真っ向から突きつけられて、とにかく自分を見て、見て、見る必要があったのだと思っている。
それこそ、この感覚が「正しい」かなんてわかんない。それでもいいんだ。私が、それを「そうだ」と思えるのなら、それでいいんだ。

物事を深く見ようとして、浅いものを深くしてしまうのは悪い癖。
感情に乗ってみたり、前向きに捉えたり、後ろを見てみたり、翻弄されて、揺らいで、見つけて、決意してみたり、逆らってみたり、自分の傲慢さを見たり、反省したり、感謝したり、愛おしくなったり・・・。
この短期間でたくさんした。
そんな風に捉えずに、考えずでも良かったのかもしれない。
それでも、これが自分のやり方で、それしか選択肢がないと思える反応をしてきた。この期間内であったことは全部、全部、自分のもので、1歩たりとも不要なものはなかった。見なければよかったものはないと言える。

本当に抜け出せたのかはわからない。
けれど、自然と笑みが出ること、呼吸が穏やかにできること、思考の余地と、フラットな状態があることは、こんなにも幸福なのだと今思えている。

そして根本で、何か本当に人として魂として正しくないことがあるならば、自分だろうと、人だろうと、ものごとだろうと、自分が何か動かずとも自然と縁が起こり現れてくると思っている。この件に関してだって、そうして起こった縁。だから、お任せすればいいだけの事。私が知らなくてもよい事。動かしたい、知りたい、はもう必要のないこと。見るもの見尽くして、やることやり尽くして、まだ残っているならばまた向かえばいいこと。
そう思えている。

たった数ヶ月の出来事。
大げさかもしれなけれど。

以前に「怒らない」という記事を書いていた。書いていたのにね。だけれど、書いていて良かったなとも思う。あの時点での事実だったから。
それはこちら。


そろそろ本格的に、自分、エゴの世界に浸る私はもういいよ。じゅ〜ぶん見たし、感じたし、満足したよ!よくやった!と切り替えて、自分の本分に戻りたいと思う。戻るというよりも、全部抱えて、さぁ、新しい私はどんなだろう???という感じで。

何度だって行ったり戻ったりして、少しずつ進んでここまで来たから、何度だって繰り返して、バージョンアップして行こう。
今までの私が思う「間違い」をしたって、今までの中でしていたっていい。いっぱい、「あれ?これは違ったかも」があったのだけど、それなら修正しながら、謝りながら、感謝しながら、進もうと思う。

本分はなんだろう。もっと、自然と取り組み、何かに幸せや楽に影響を与えるような何かであって、ここにこだわり続ける事でないというのは分かる。ここからどうやって本気で抜け出す?を、自然とやって、また私の一つの糧にしたい。

ってか、考えすぎ!ね😅

重い話にお付き合い下さりありがとうございました!🍀✨
いつもありがとうございますっ!!

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