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広島市精神ソフトバレー国体へ出場の経緯

入部した際の広島市ソフトバレー部は

病院のデイケアのレクリエーションの一環として行われていました。
入院しておられる人も練習の日には外出届を提出し練習に参加できます。
外に出れるのが嬉しくてバレー部に参加しておられた人もチラホラと見受けられました。
その当時の大きな大会は年に2回あり
①4人制の広島県から色々な作業所や病院が集う大会
「西部地区大会」
②6人制で広島市代表として国体予選に参加する
「中四国大会」
の2つです。
ネットの高さやコートの広さもこの2つは違うんです。

広島市は西部地区大会は3連覇という偉業を成し遂げましたが、他の作業所や病院などの参加数が激変したことから現在は行われていません泣

西部地区大会は三連覇したが・・・

広島の大会では三連覇をしたのですが、中四国大会になると一回戦ボーイの広島市・・・いつも
「今年は勝てる!!!」
と意気込んで行っては、勝てない年月が何年も経過していきました。
それもそのはず、広島市自体が「中四国大会」で優勝したことはなかったんです。そして、本気で優勝を目指すと言うチームではなく、レクレーションの一環として行われてきた背景もそこにはありました。

優勝を目指すことになるきっかけ・・・ターニングポイント

僕が入部して二年後。毎年監督が代わっていた監督が固定になりました。
大学までプレイヤーとしてバレーをしておられた経験豊富な監督が就任されたのが「大きなターニングポイント」だったと今思えば感じます。
それでも、難しかったのではないでしょうか・・・
監督が就任当初は色々な職員間の意見の違いなどを小耳に挟んでいました。
それは、当たり前のことなのかもしれませんね。だって、「参加することが意義のある」ものを「優勝し国体にでる」と言うとてもスケールの大きな目標に変わったのですから。
周りからしたら「何言ってるんだ???」「不可能だ!!!」などの声が出るのは普通の反応と言えます。
それを、顔に出さず心の中で「見てろよ」と黙って8年間も監督業をされている監督が一番のチームの貢献者ではないかと思っています。

「人の常識を超える目標は時として孤独になります」

その時の僕は・・・

毎日のようにバレーばっかりしていました(笑)監督が就任されて2年目からはキャプテンに抜擢してもらい。
バレーのプレイヤーとしてのスキルも上がり、楽しくて仕方なかった時代です。一般のバレーチームにも一人で参加してみたり。
とにかくバレーで負けるのが悔しくて、毎日バレー尽くしで生活していました。


さて、今度は・・・


* 経験豊富な監督が就任してもなかなか勝てない中四国大会・・・

* 強くなったからそこ起こる回避できなかった出来事・・・

今度の投稿では上記の内容を記載しようと思っております。

少しづつの投稿となりますが、本日も最後まで読んで頂きありがとうございました<m(__)m>


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