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ルックバック②大学から今まで

私が生まれた島根県から遥か40km先にて運良く某鳥取県の大学に合格した。
私の本来通う医学部のキャンパスには2年生から通うことになっている。
最初1年は医学部キャンパスから車で2時間ほど離れている本キャンパス(基本的に全ての学部がある)にて過ごした。

そのキャンパスには軽音学部があり、誘われて行った軽音楽部の新入生歓迎ライブにめちゃくちゃ上手いメタルバンドがいて、これはやばい、音楽やるか!となってまた楽器を再開することになった。大学生だがスキンヘッドで聖飢魔IIを原曲キーで歌ってた。ちなみにこの人は大学の時点で改造車に乗っていた。

ちなみに、このメタルバンド派閥とその反対派閥みたいな、いわゆる派閥争いというか小さな抗争に巻き込まれたため、全然バンドが組めないまま秋を迎えるという小話もあるが、そこは割愛。

大学生特有の尖りを発揮し、「大学ではキーボードで活躍するか」となぜか鍵盤を始める。これがバンドを組めなかった最大の理由だ。初心者の鍵盤が活躍できるバンドなんてそもそもない。想像してごらん?東京事変のキーボードが下手くそだったら聞くに耐えないでしょ?ジョンレノンも流石に殴ると思う。

そんな僕に、優しく鍵盤を教えてくださる優しい先輩がいた。この人がいないと音楽はすぐ飽きてたと思う。その人は踊ってばかりの国やはっぴいえんどなど見知らぬ良曲をガンガン教えてくださった。その人のおかげで音楽が再燃した。

さすがにバンドが組めないのでベースを再度購入し、見事バンド活動復帰を果たすことに成功し、そんなこんなで2年になりキャンパス移動をするまで楽しくバンド活動できた。
と言えたら良かったが、当時塾講師のバイトをしており、ほぼ無給の勉強会に参加していたため、ほぼバンドを出来ずキャンパス移動した。何しとんねん。ちなみにだが、改造車の先輩もこのバイト先だった。どないなっとんねん。

医学部キャンパスでは軽音楽部とジャズ研に入る。
軽音は引き続きなので入った理由は割愛する。

ジャズ研は単純に「ジャズしている自分カッコいいのでは?」というアホな大学生の発想が加入理由である。コントラバス弾けたらカッコいいと思ったので入るが、とにかく難しいのと軽音に入り浸っていたた、足が遠のいてしまいがちだった。
しかし、このジャズ研での活動が今の音楽人生に割と生きている。
まず、音楽理論の勉強会があった。「どんなコード進行にリアレンジできるのか」とか「このスケールはこのような場面において使える」など音楽体系をしっかり学べるすごい会をやっていた。

医学部キャンパスなので、(もちろん僕は違うが)医学科、つまりは医者の卵の人たちは地頭が違うので音楽理論なんぞは簡単覚えてしまう。本当にすごい。正直、当時は全く分からんかったが、今学び直している時に進研ゼミの如く「これ、ジャズ研でやったところだ!」と言ってしまう。

続いてセッション力。ジャズといえばアドリブセッションでしょ!みたいな雰囲気もある部活だったので、人が集まればすぐ曲をセッションしていた。僕はコントラバスはそんなに上手くは弾けなかったが、セッションは好きだった。その人の本質的な部分が見えるので好きだった。
ここで培われたのは演奏力ではなく、ホスピタリティだ。僕同様、初心者で入部する人がほとんどだ。なので、周りの人がロスト(曲の中で楽譜の今、どの辺にいるのか分からなくなること)してないか注意深く見たり、そのために顔や視線を見たり、アイコンタクトを交わしてコミュニケーションしたり、音の大小で盛り上げたり、逆に抑制したりと多くのことを学べた。

このホスピタリティはバンド活動する中で僕が今でも人に誇れる、強みだ。
周りを見る力が培われた。

軽音楽部ではとにかくいろんなバンドのコピーバンドを行ってた。特に、僕が人生の中で誇れることの一つは「世界で一番最初に髭ダンのコピバン」をしたことだ。2015年の時点でやっていた。

鳥取大学医学部軽音学部のXアカウントより引用してます。
HIKOUSHIKI眉女dismという名前で髭ダンのコピーバンドをしてました。

どのくらい音楽が好きだったか察してほしい。

そのくらい音楽をやっていたので、大学卒業と同時に楽器熱は燃え尽きた。

22年田舎に住んでいたため、都会を知ってみたいと社会人になると同時に東京に出た。初めて住んだのはお台場だった。初日に「東京は思ったより狭えな、、、」と悦に浸った表情で呟いてた記憶がある、ウォークインクローゼットで(電気が通ってなかったので)。

音楽を聴くのはずっと好きだった。
友達に誘われてやってた緩いバンドもやってはいたが、なんとなく全身全霊にはなれずドーナツの穴みたいな人生が続いてた。

社会人3年目に転機が訪れる。
音楽好きが集まって語り合おうみたいな飲み会があった。
なんとなく参加した。
「音楽やってます」という人から「音楽関係に就職したいです」みたいな人もいて、とにかくいろんな人がいた。

女性多数の場で、割とガヤガヤしている中で寡黙な青年がいた。
周りの人が「小津安二郎好きなんですー」と今思うと大分、文脈もなければ尖っていることを言った際に「いいですよね、東京物語」とスッと入ってきた。本当に清廉そうなカッコ良い佇まいだった。せっかくなので話してみると、バンドをやっていると。名前を聞くと、今や誰でも知っているあのバンドの人だった。当時は知る人ぞ知るみたいなバンドで、僕は偶然知っていたので、大感動だった。当時は少しだけ連絡していたが、徐々に忙しくなって、かつ遠い存在になったので連絡もしなくなった。

この青年がどんどん活躍するのを見ていると「自分の人生の中でまだやれることあるんじゃないか?諦めてることないか?」と自問自答するようになった。それはやっぱりバンドだった。

一人で曲を作って、弾き語りバーで飛び込み参加して歌ったり、高円寺の駅前で路上ライブしている人に声かけて、ライブに誘ってもらったり、とにかくできることをやっていた。
このタイミングで好きな人にフラれたのでやけくそになってMPCを買い、本格的に音楽に復帰した。デートの帰りに駅前でサプライズで花束をあげたらフラれた。最寄り駅まで1時間かかる遠い駅の駅前だったので、若干迷惑そうだった。こんな気遣いできないやつ、そりゃフラれるだろ。

そんなこんなのタイミングで、某バンドメンバー募集サイトで、一念発起してバンドしたいとメンバー募集しているとある投稿になぜか惹かれた。人生の転機と思ってメッセージを送った。

これ以降はMonthly Mu & New Caledoniaのインタビューを参照してほしい。

こうやって振り返ると、僕の人生の中には、僕をなんらかの形で支えてくれる人がたくさんいたと気づけた。

憧れになってくれたり、そっと導いてくれたり、褒めてくれたり。

映画の【ルックバック】と同じだ
周りの人を敵視するのではなく、切磋琢磨する存在として、愛する存在として、支え合う仲間として人は存在できるとなんとも美しい。

いつだった自分を動かすのはどこかの誰かの褒め言葉だ。
僕なんかより売れてるバンドの人が「上手いね」とか「カッコ良い」と言ってくれると、藤野と同じように澄ました顔で歩きながら気づいたら、嬉しさのあまり小躍りするようにスキップしてしまう。
そして、その言葉が僕を今日も音楽作らせる。

見えない有象無象に向かって音楽をしているのではなく、僕の音楽で喜んでくれた顔の浮かぶあの人のために今日も手を動かす。だから、音楽そのものはずっと楽しい。

今日も明日も、僕自身も誰かにとっての、顔の浮かぶあの人になれるような言葉をかけて生きていきたい。

せめて、これを読んでくださってるあなたにとって、そんな人になれますように。

では。


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