「遺詞集」と「新遺詞集」
大学を卒業する少し前に「遺詞集」と題した文章を書き始めた。
遺書代わりである。
1985年3月から1988年3月の3年間死ぬことばかり考えて生きていたとすでに何度も書いている。
それを完遂するに際して人生を総括するような回顧をしようと考えてのことだ。
はっきりとした決意のもと始めたわけではない。
大学生協の購買部に生活家電を販売するブースがあり、そこに展示してあったワープロ専用機を買ったのだ。
Epsonの「Word Bank」128,000円である。
目的もない衝動買いだったので、使い方を習得するために文章でも書いてみようかと思った。
何を書くかと思案するともなく思案して遺書を書くことを思いついた。
そういう経緯で1987年の暮れにワープロを買って手習いに「遺詞集」を書き始めたが僅か4ヶ月後にそれが頓挫した。
1988年3月5日午前3時40分に自然法司法試験に合格したからである。
生きなければならないということを知り、とりあえず遺書という目的を失った。
実際には「遺詞集」というタイトルは残したまま、作文の手習いを続けたというのが正しい。
文章を書き散らすうち、二代目のワープロ専用機NEC文豪miniを買って使い始め、さらにはノートパソコンを買ってそれに乗り換えたりするうちに、作文を書き散らす習慣は残ったが「遺詞集」を書きづづける自覚を失った。
結局いつのまにか「遺詞集」というものはどこかへ行ってしまっていたわけだが、自然法に生かされていることの目的の一つである、両親の介護と看取りをやり遂げた。
あとは一人残った私の死をまつだけというところまで辿り着いた。
2017年6月のことだ。
だから遺品整理や心の整理を始め、また遺書を書こうという気になった。
そのような経緯で復活させた遺書代わりの作文を「新遺詞集」と題したわけだ。
24歳の頃生き急いで自ら命を絶つつもりで書いていたものだが、今は全く違う。
年齢がそこに追い付いて来たのだ。
逃げることもやり過ごすこともできない死の時が近い。
その時悔いを残さないように、すべて過去を整理しておこうという執筆意図である。
私は今自ら死にたいとは微塵も思わない。
できるだけ死ぬ時を先延ばしにする努力をしつつ、向うから否応なくやってくる死に備えようというわけだ。
私の人生に係わった某人物にとって、闇から闇に葬り去りたい過去であろうとも、私は実体験に基づいてそこに事実を書いてゆくつもりだ。
誰も読みに来ないところに書く「新遺詞集」は止めにした。
Noteに書いてゆくのでその覚悟をしておいてもらいたい。
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