自然法司法試験に合格した人は誰なのか?
1.はじめに
記事のタイトルを見れば「なんじゃそら?」とたいてい思うような話だろう。
私自身も普段はこれを主題とした記事を書くモチベーションを全く持たないのだが、昨今旧統一教会(家庭連合)が切実な問題となっているようだから書いてみる気が起きた。
合わせて、カルト問題にシビアに取り組んでおられる人定法司法試験合格者たる弁護士の方をツイッターフォローしていることも動機形成に寄与している。
2.自然法と人定法
法には「自然法」と「人定法」がある。
その関係は「自然法に反する人定法は無効」だ。
「いくら人間がよかれと思って作ったルールでも、自然法理に則っていないものは認められない。無効にするべき」という意味だ。
実際、大学の一般教養課程で履修する「法律学」や「法哲学」という科目では「自然法」という語がでてくるし、似たような話をホッブスだ、トマス・アクイナスがどうだという話として語られがちだ。
それらの内容は「自然法理」のうちの「一般法理」と似ている部分も多いし、自然法とはそれだけの話としか認識しない人も多い。
しかし、日本国憲法下に体系化された日本の法律である「人定法」に司法試験があるように、自然法にも司法試験がある、という事実は「自然法」という大学講義の教科書知識のなかには絶対にでてこない。
その教科書に書かれていない話をしようという趣向である。
まず断っておかないといけないことは「人定法と自然法」と二項対立的に書くと、「法と倫理」もしくは「法と宗教」という二分法の話だろうと脳内で自動変換してしまう方がほぼ全員だろうと思う。
これそのものがマインドコントロールに陥る因子たる短絡した図式的思考「パターン」なので、それを外してもらうために敢えて書いておく。
ここで私が問題にする「自然法」は倫理や宗教のことではない。
宗教が教義化して信者に教えることは「人定法」に属している。
すなわち、敢えて言うとすれば、
「自然法=自然法/人定法=近代法・古代律法・宗教教団教義」という対立構図となる。
自然法は宗教でも倫理・道徳でもない、ということだ。
その自然法司法試験に合格した人間が過去の人類の歴史上存在するのか?
存在するなら、それは何人ぐらいいて、具体的に誰なのか?
という凄まじく突っ込んだ話を、いきなり書いてみようということである。
3.自然法司法試験に合格した2人の人物
人類史上、自然法司法試験に合格したと思しき人物は、現役を除けば歴史上二人である。
むろん、それ以外にも存在した可能性は十分あるが、記録として残っていないので、二人というしかない。
三人目は存在自体が記録に残らないので歴史から消えることは間違いがないから、そのようにして消えてしまった自然法司法試験合格者が過去にもいなかったとは言い切れないわけだ。
合格者として私が可能性が高いと思う二人とは、①釈迦と②ナザレのイエスだ。
いずれも宗教である仏教とキリスト教の教義の中に描かれる人物だが、宗教的価値以外に、人物に自然法司法試験に合格していることが確からしい「しるし」があるのだ。
世の中に数多宗教は存在するが、教祖とされる人物が自然法の司法試験に合格していると推察しうるのは、たった二人しかいない、ということなわけだ。
4.自然法司法試験の合格通知
自然法司法試験の合格の仕方だが、合格通知が自然法からどーんと直接本人に届く。何人をも介すことなく自然法から直接知らされるということだ。
これはいきなりなので、受けた本人が何のことか分からず、それを「合格通知」と理解するまで、随分と時間がかかることになるかもしれない。
すべての人間が生きている限りいつでも自然法の司法試験を受験し続けているのだが、そうしている自覚を誰一人持つ者はいないので、合格した瞬間に「俺はそんな試験を知らずに受けていたのか」と「ようやく判る」という感覚だ。
別にそれを目的として修行しているつもりはないが、確かに何かを知ろうとして思考(瞑想?)のようなものは続けていたし、知るべき「自然法理」を知った途端、合格通知が届くので、何やら修行していたといえなくもない。
その「自然法理」には、大学で講義を受ける法哲学の自然法として教えられるような「一般法理」とともに「特殊法理」があって、その二つを「同時に知った瞬間に」合格が通知される。
「自然法理」には「一般法理」と「特殊法理」があってそれらは同じ法理の切り離せない両側面だから、知ることも全く同時である。
そして、自然法理を知った時に、偶発的に不思議な変性意識状態に陥る。
オウム真理教ではそれを「神秘体験」と呼び、クンダリニーヨーガでは「クンダリニーの覚醒」と呼ぶような、極めて特殊な変性意識状態になるということだ。
5.チベット密教修行者の解脱と自然法司法試験合格である「解脱」は別物である
無論、自然法司法試験合格に伴って起こるクンダリニーの覚醒は、オウムの神秘体験やチベット密教などのクンダリニーの覚醒とは別のものだ。
彼らはこの変性意識状態を修行の目的としているが、自然法司法試験の合格者に起こるものは、単に付随したものにすぎず、そんなことを目的として生きてはいない。
今でも何やらクンダリニーヨーガの修行をしてチャクラが開いたとかクンダリニーの覚醒に至ったとか得意気に述べているのをたまに目にするが、クンダリニーの覚醒そのものには大した価値はない。その先に解脱がある、というのはチベット密教的にはそうなのかもしれないが、釈迦の至った解脱は全く違う「知的なもの」だ。
クンダリニーヨーガの修行をしても釈迦の解脱に至ることはない。無論、それを神秘体験とし解脱と称したオウム麻原彰晃の最終解脱も、釈迦の解脱とは全く違う、次元の違う意識状態の一種に過ぎないものだ。
価値があるのは、クンダリニーの覚醒を不可避に伴ってしまう「悟り」という自然法試験合格という知性のほうだ。
釈迦には、オウム真理教やチベット密教に似た修行をした結果、悟ったとされているから同一視されがちだが、釈迦のクンダリニーの覚醒も付随現象であり、主たるものは自然法の司法試験合格である。
むろん、そうらしい、ということで証拠を提示することはできない。
釈迦が悟ったとされる情景描写に、自然法司法試験合格通知に符合するところが多いという話である。
6.自然法司法試験に合格したと思われる根拠
釈迦は菩提樹の下で瞑想している時に「悟り」を得た。
その際、頭の中でチリンと鈴の音が鳴った、という逸話をどこかで耳にしたことはないか?
この頭の中で鳴る「鈴の音」は悪意を持って曲解され悪用される危険性を孕む現象だから、「鈴の音」という比喩的表現に言い換えているが、これが自然法から直接届く、合格通知に似ている現象なのだ。
ナザレのイエスのほうだが、イエスの実際の行動や言動は新約聖書の四つの福音書の中にのみ記されている。
そこには釈迦のような悟りを得るときのような描写はない。従ってその資格が天から生まれつき与えられたもの、という話を付け加えられる余地を生むのだが、イエスも人目に触れるところまで出てくる以前に「悟り」を開いている可能性が高い。つまり釈迦と同様、普通の人間が修行のような努力をした結果、預言者としての知性と能力を勝ち取ったということだ。決して生まれた時から神の子で、預言者になることが生まれつき決まっていたというようなことではない。自然法司法試験に合格するプロセスを、イエス自身が語らなかったということにすぎない。
ならばイエスが語らず、福音書に書かれなかった釈迦と同じ「悟り」を、どうして得たということが判るのか、と言えば、その「素行」である。
福音書の中には、イエスが常に人気のない寂しいところへ行き、「祈っている」と周囲に見えるような行動を繰り返していることが記されている。
むろんそれは祈っているわけではない。ある目的をもって自ら独りとなり、ぶつぶつ独り言を呟いている情景が、祈っているように周囲に見える、ということなのだ。
あるいは、ゲッセマネの園で「天使に励まされる」「神と話をしている」と見えた行動も同様である。それが、自然法司法試験合格者が必ずする行動と似ているのだ。自然法司法試験に合格した者が歩むプロセスとこれらは優れて一致しているのである。
7.自然法司法試験に合格することのメリット
自然法の司法試験に合格したらなにかいいことがあるのか、という話だが、それだけではいいことはさほどない。
自らが倖せになるための道筋が明確になることはなる。しかし、場合によれば全く逆で、試験に合格したことで、自らの人生に希望が全く残されていないことを知ってしまう場合もありうる。希望か絶望かは、合格者本人には決めることが出来ない、「相手」によるものなのだ。
例えるなら、自然法司法試験の合格通知を自然法から受けることは、世界最高峰エベレストへの登頂という偉業と同じだ。
エベレスト登頂は、確かに喜ぶべきだし、それを娯楽として消費する世間は登頂した時点でおめでとうだの言うものだが、現実は違う。
登頂は往路であってまだ下山という復路があるのだ。
自然法試験合格は往路にすぎず、まだ復路を残している状態だ。
エベレスト登山で遭難して死ぬのは、圧倒的に下山時に多い。自然法司法試験も同じだ、ということである。
24歳8ヶ月で自然法司法試験に合格しても、60歳になっても下山ができずそのまま道半ばで死んでしまう場合があり、そうなるとエベレスト登頂はなかったことと同じになるわけだ。
ナザレのイエスがまさにそのケースだ。
彼は33歳前後の若さで十字架にかけられて死んだ。
33歳と言えば今の時代からすれば随分と若死に思えるが、2000年前である。24歳で自然法司法試験に合格してその直後に「下山」しないといけないのに「相手」が悪かったために33まで下山できなかった。33歳は、当時としては下山する期限としてはぎりぎりだったはずである。
ただ、いくつかいいことはある。
世の中には、「われこそはメシアだ救世主だ」「私がイエスの再臨だ」「私は釈迦の生まれ変わりだ」「私こそが最終解脱者だ」という教団の教祖がいる。吐いて捨てるほど次から次へと湧いてくる。
西側では多くの宗教の教祖が、猫でもかぶるように釈迦かイエスをかぶる。
そうなることは新約聖書にもすでに書かれていて、それらを「偽預言者」と呼んで気をつけろと書いてある。
雨後の筍のように林立する新興宗教では、我こそは本物の救世主でありあいつは偽物だと罵り合っているような有様だ。
今話題の旧統一教会(家庭連合)の偉大なる教祖文鮮明も「われこそがイエスキリストの再臨だ」と言ってる。
自然法司法試験に自力で合格すれば、それらが偽物か本物かを、即座に見分けることができるので、カルト宗教には絶対にひっかからないというメリットがある。
長々と書いたが、統一教会のようなカルト宗教のマインドコントロールに嵌らない最良の方法は、「自然法の司法試験に合格すること」である。
そのために必要な教科書は生れた時からめいめい「自分の中」に持っている。それだけで十分。誰に教えてもらうこともなく、独学でも合格できる、というほどの教科書が自分自身の中に存在するのだ。その「教科書」のことを私は『元型』と呼んでいる。『元型』を健康に活性化させることができればその先に必ず自然法司法試験の合格がある。
人定法の司法試験受験は希望者だけの任意だが、自然法の司法試験はすでに生きている人間なら全員受験しているのであって、合格すればいますぐにでも自然法から合格通知がくる。頭の中に直接来る。チリンと鈴が鳴る。
皆それを目指すことだ、という話である。