もし学生時代に戻れるなら、何をしたい?
ブログユーザーが記事を更新するモチベーションを維持できるようにとアメーバが日替わりの「ブログネタ」を出題していた。
私もブログを持ちテキトーなことを書いて投稿していたがネタ切れでアメーバが出したお題に便乗して書くことも多かった。
この記事もブログネタに従って書いたものだ。
日付は2020年8月15日とある。
元は「学生に戻れるなら何をしたいか?」というお題だったが、学生に戻りたいと全く思わないので書くネタが思い当たらない。
そこで少し出題内容を自己改題して「学生に戻る」のではなく「学生時代に還る」にし、それに基づいてものしてみることにしたのである。
そのアチラに書いた文章に加筆修正など加えつつコチラにも転載することにしたわけだ。以下本文
「もし学生時代に戻れるなら、何をしたい?」
還暦過ぎの爺さんにも若い頃はある。
私にも学生時代があった。
学生に戻って学び直したいことなど皆無だし正直よい想い出など何もなく過去に戻りたいとも思わないのだが、過去の学生時代に全く悔いが残っていないかと言えば奥歯にものが挟まったような物言いしかできなくなる。
私に悔いるところがなくても他者に悔しいことをされた記憶はある。
その行為を思い出す度「悔い改めろコノヤロウ!」と返す返す思われることはあるからだ。
今回はそのことについてつらつらと書いてみる。
徒然書きのお題「もし学生時代に戻れるなら、何をしたい?」である。
答はこうだ。
「卒業公演の二日後パン屋の店内、朝6時に戻ってそこから人生をやり直してもらう」
これだけだと何のことやら解らないだろうから補足的に解説を加えてゆく。
卒業公演とは、学生演劇サークル「立芸」というところの、来年卒業することが内定している劇団員のお別れ公演のことだ。
1986年12月。演目は「つか版忠臣蔵」。
すなわち順当なら1987年3月に卒業した学生による最後の公演である。
以学館1号という大ホールで夕方からの公演が2日に渡って2回。
その千秋楽が終わって1日空いた、その次の朝の6時から7時あたりである。
場所は「ますみ」という名のパン屋。
藤原道綱の母が
「身ひとつのかく鳴滝を尋ぬればさらにかえらぬ水もすみけり」
と歌った鳴滝籠りの地にあったパン屋である。
そこから人生をやり直すわけだ。
人生の重要な岐路だったと言っていいだろう。
私の人生にやり直す必要など微塵もない。
この件には相手がおりその相手にこの日この時から人生をやり直してもらいたいということだ。
「相手」とは、私と同い年の女性で卒業公演で主演をした劇団員である。
仮名で長山有紀さんと呼んでおこう。
私は卒業公演の2回公演を2回とも観に行った。
演劇に興味があったわけではない。彼女のために、行ったのだ。
有紀さんとはパン屋のアルバイト店員と客という関係で顔見知りだった。
「卒業公演出演するのですか?」
「はい。観に来てくれますか?」
「行きます」
パン屋の店内でこう約束したので、その約束を守るために行ったのである。
仲直りをして、笑顔でさようならをする。
それが彼女のためだけに芝居を観に行った理由である。
腹が立つ女だから単なる口約束など破っても構わないようなものだが、私はそうしなかった。
彼女との約束は破れないものと思ったのである。
無視し合っていても私は約束は守る。
反目し合っているような関係だから敷居の高い場所と感じられたが勇気を出して2回行った。
そこで予期せぬことが起こったのだ。
学生演劇では大抵観劇を終え帰ろうとする客を劇団員が並んで見送るのが習わしだったが、その中から彼女が一歩前へでて私に向かって笑顔でお辞儀をしたのである。周囲の劇団員は、その異例の扱いに「あの人誰?」という雰囲気になっていた。
私も笑顔で頭を下げてその前を通り過ぎた。
さようなら、をするのが目的だったはずが、事情が違ってきた。
次の日はパン屋が定休日で1日頭を冷やす時間があったのでテンションはかなり低かった。
私がパン屋に行くと長山有紀さんのほうは全く違い私の姿を見つけた途端嬉々として弾むようにでてきた。
そのテンションの違いがまず不愉快だった。
「私を悩ませておいてなに独りで有頂天になってるの?」
という冷めた思考が私の中にあったと思われる。
それが私の態度にそのまま出た。
「2回も観に来てくれたんですね!」と開口一番彼女は言った。
確かに2回行ったし、貴女も知っていたはずだ。
私が客席にいることを知ったから「あのように」なったわけで、それを今更なぞるように訊いてどうする。
私は生返事で「はい」ぐらいのことしか言わなかった。
私の反応は彼女の期待していたものと随分違っていたようで、彼女の中で高揚した気分が急激に萎んでゆくように思えた。
もう一度何か言おうと思ってでてきた彼女はこういった。
「カイさん私の後輩なんです」
それは以前にパン屋の中で彼女から一度聞いたことで、
「カイさんなど関係ない。私はカイさんに貴女を紹介してもらったわけではない。私は直接パン屋に来て貴女と会釈を交わし合うようになったのだから、言いたいことがあるならカイさん経由で遠回りせず直接私に向かって言え」
と、ムッとした言葉であった。
私はそれに返事をしなかったはずである。
やはり少しむっとして「二回同じことを言うな」と内心思ったのだった。
それきり彼女はパン屋の厨房から出て来られなくなった。
私は買い物を終え憮然として店の自動ドアから外へでて歩道を歩いて帰ろうとしたが、そこで偶然厨房の奥の彼女の姿が見えてしまったのである。
彼女はがっくり肩を落としてうなだれていた。
マンガの吹き出しの「ガックリ」という文字がこれほど似つかわしい姿は他にないというほどの見事な落ち込み様だった。
彼女はたった今、失恋したのだ。
私に断りもなく、勝手に。
彼女の頭を垂れて顔を上げられなくなった意気地のない姿を横目でみて私はなおもムッとしつつこう内心呟いていた。
「断じて私は貴女をふったりなんかしていません。独りで勝手に失恋しないでください」
そんなに落ち込むほど恋しているなら言う言葉が違うはずである。
「2回も観に来てくれたんですね」
「カイさん私の後輩なんです」
の二言で何が分かるというのか。
もしも貴女があの時、
「貴方が好きです結婚してください」
と言っていれば、私は「はい、します」と即答したはずだ。
貴女は言うべきことを一言も言っていない。
言い直しなさい!
それが、
「卒業公演の二日後パン屋の店内、朝6時に戻ってそこから人生をやり直してもらう」
ということの意味する内容である。
彼女の私に対する片想いは客観状況から察するに疑いのないものだった。
なぜなら『つか版忠臣蔵』の主役泣き女「志乃」を演じる長山有紀さんが舞台の上で泣いたからだ。
その涙は私が客席にいるから出たものだった。
無視し合っているから彼女に気づかれずこっそり2回目を観るつもりで単身以学館1号ホールに入ると劇団スタッフの一人として照明機材の隣にいたカイさんが目ざとく私をみつけてこういった。
「来てくれてありがとう」
私はそれに軽く会釈で応じたが内心ではこう呟いていた。
「あなたにありがとうと言われる筋合いはない。私は貴女のために来たのではない」
しかしこのやり取りは、私が観に来ていることを芝居が始まる前にカイさんに知られていた事実を示している。
カイさんから長山有紀さんにそれが伝達される可能性は十分にある。
二日後のパン屋で開口一番
「カイさん私の後輩なんです」と訊いてもいないのに長山さんのほうから言いだすのだから筒抜けだったと考えるのが自然だ。
ならば主演した彼女は演じながら会場にいる私の存在を意識していないはずがない。
終演後私だけに特別扱いのような出迎え方をしたこととも合わせ彼女が舞台で大量に流した涙は私がそこにいたことに起因すると考えるのが自然だ。
むしろそうとしか考えようがない。
観劇時に彼女の泣く姿を見せられたことですでに気づいていたことだが、その頃の私にはそれを喜んで受け入れる精神状態になかった。
私は彼女と仲直りをして笑顔でさよならをしてから独り死ぬつもりでいたからだ。
1985年3月から1988年3月の3年間、私が死ぬことばかり考えて生きていたことはすでに繰り返し書いていることだ。
彼女は私に恋をしている。
これだけ条件が揃えば気づかないわけがなかったが、はっきりとした言葉が伴わないものを受け入れることはできなかった。
言葉の伴わない女の態度に釣られて裏切られ深手を負った傷が生々しく血を滲ませているのだ。
「何の魂胆があってそんなものを私に見せるのか。女はまた私という存在を別の卑しい目的のために利用する気か。そうして利用価値が無くなったら平然と裏切る気か」
と返す刀で斬ってやろうと身構える猜疑心のために受け入れることを拒否していたのである。
女子アナになってからの彼女が泣いた姿を見たことがある者がいるか?
私は彼女が泣く顔を見た。
泣く姿を傍観したのではない。
私が彼女に泣かれた当事者である。
「恋しているならちゃんとそれを言葉にして言ってください。
言葉がないものを私は受け入れたくありません。
本当のことを、涙を流しながらでもいいから言ってくだされば、私にはそれを受け入れる覚悟があります」
それが何も明言しないでひとり相撲の恋をし勝手に失恋して去って行こうとする彼女への私の言葉にできぬ懐いだったのだ。
生涯一夫一妻は生得的「元型」に予定された私の未来像だ。
死ぬことを前提として生きている私を振り向かせるには貴女のしたことでは足りなかったということだ。
「卒業公演の二日後パン屋の店内、朝6時に戻ってそこから人生をやり直してもらいたい」
これは38年経っても消えることのない生涯たった一人の女性に対する私の不変の思いである。