なぜすべての偉大な思想家は、例外なく、その教えを生みだすまで、自然の中で隠遁生活をするのか?
アナスタシア1
p292 アナスタシア、きみはいったい誰?
から抜粋させていただきます。😊
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だが、なぜかここにただひとつ、決して取りあげられず、周到に避けて議論されることもない現象がある。
われわれはそのことについて話すことさえ恐れているのだ。
なぜなら、その現象はわれわれの教育の基本的システムや科学的結論をいとも簡単にくつがえし、日常生活の現実を嘲笑する結果を招くからだ。
それゆえに、われわれはその現象について考えまいとし、そんなものは存在しないと思いこもうとする。
だか、どんなにそこから目をそむけても、あるいは逃げても、その現象は厳然として存在する。
今こそ、その現象をありのままにしっかりと見て、多くの頭脳を結集し、この問いへの答えを見出だすべきときではないか。
なぜすべての偉大な思想家~おびただしい数の人々が従う(あるいは従おうとする)宗教的、哲学的教えを説く人物~は、例外なく、その教えを生みだすまで、自然のなかで隠遁生活をするのか?
なぜ彼らは隠遁するのか?
しかもなぜ大部分が森の中なのか?
この点に注文書すべきなのだ。
なぜ、どこかの最高学府の研究院ではなく、とくに森の中なのか。
旧約聖書のモーゼがなぜ、あれほど長い期間をひとり荒野で過ごし、そののち、石板に刻まれた知恵を世界に示したのか?
イエス▪キリストはなぜ弟子たちさえも遠ざけて、砂漠や山や森にひとりはいっていったのか?
紀元前六世紀、インドに住んでいたゴータマ▪シッダールタはなぜ、六年もの間、森で隠遁生活をしていたのか?
彼は森から戻り、人々に教えを説き、その教えは、数千年後の今日もなお、多くの人の心を揺り動かしている。
人々は大きな寺を建て、この教えを仏教と呼び、彼は野馳に釈迦と呼ばれるようになった。
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アナスタシアを含めて森の中に隠遁者として暮らす人々は、われわれとはまったく異なる角度から、人生に起こるすべての現象をとらえているということだ。
アナスタシアの考えをいくつかとってみても、一般的に考えられていることと百八十度ちがっていることが多い。
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「初めに言葉があった。
言葉は神とともにあった。
言葉は神であった」
(※「ヨハネによる福音書」第一章第一節)
とあるではないか。
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聖書の中のこの一節によって、多くのことが一度にはっきりしてきた。
ずるさや欺くことを知らないアナスタシアは、意味を含まない言葉を発することができないのだ。
それについて話していた彼女の言葉を思い出した。
「そのとき、私は大変なことを忘れていた。
中身の伴わない空っぽの言葉、うわべだけの言葉は私の口から出てこない、それを忘れていた。
私の口から出る言葉はつねに、気持ち、意識をすべてありのまま表現していなければならない」
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彼女の説明によれば、光線を用いて人を助けるとき、彼女はまず光線をひとりの人に向け、その人を目に見えない光で照らしだして、その人に、良きこと、光あふれること、それらを願う彼女の思いを送りこむのだそうだ。
あるとき彼女は私の疑念を見すかしたように言ったことがある。
「ちがう、ちがう。
私は決して人の精神に干渉したり、魂)理性の働きを妨害したりはしない。
人は私が送るこの思いを受け入れることも拒否することも自由。
その人が私から送られてくるこの思いを好む度合いと、その人の魂のあり方がこの思いに類似している度合いに応じて、受け入れたり拒んだりする。
それと、この思いはいくらでも吸収できる。
どんなに大量でも、無限の心はそれを保持できるから。
この思いを吸収すると、その人は外見も明るくなって、部分的か完璧かのちがいはあっても、病気も癒されていく。」
以上です。😊
どんなに金銭的物質的に満たされても、何かが足りないと感じることがあります。
お金も物も人間がつくったモノ。
いろんな意図を持ってつくられています。
自然は神がつくった愛の空間💓🌲🍀🌍️
私は数年前にひとりでスペイン巡礼に行きました。
今は田舎の🌲山の中に住んでいます。
充実した日々を過ごしています。😊💓
人生は真実と喜びと愛の中にある。
真実を追及し、喜びに溢れ、愛や思いやりを持ち、自然と調和して生きる😊💓🌲🍀
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