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【デュエプレ】モーツァルトと鬼羅丸のボイスについて、あるいは『地獄の季節』

あれはいつの頃だったか。私がデュエマのパックをやみくもに買って、キラキラしたのが出たらニコニコとしていたような頃。コロコロコミックを貪るように読んで、なにかのデュエマのデッキを開けたら、「偽りの王 モーツァルト」が目に飛び込んできた。


ドラゴン以外全部破壊するの!? かっこいい!


あまりのかっこよさに戦慄し、眺めていたら夕飯の時間だった。あの戦慄的興奮は、いまだに心中に燻っている。そこからいくつもの映画や本、アニメ、マンガを鑑賞したが、まるでモーツァルトの幻影を追うように手に取った、『アマデウス』という映画。小林秀雄の『モォツァルト 無常といふこと』は、とてもよく覚えている。もっとも、途中で投げだしてしまったが。そしていま、デュエプレ19弾で「偽りの王 モーツァルト」がついに登場した。モーツァルトのボイスで、私の幼少からの記憶は一種の結実を見ることになる。

レジェンドバトルのベートーベンに「偽りの王 モーツァルト」を出されたのがデュエプレにおけるモーツァルトとの初めての邂逅である。そこで私を攻撃した彼は、たしかにこう言ったのだ。


「私の記憶が正しければ…」

よくわからなかった。モーツァルトは、そんなこと言っていないような気がした。だが、どこかで聞いたこともあった。調べてみた私の憶測だが、これはかつて、「料理の鉄人」という番組の冒頭の決めゼリフとして毎回使われていた言い回しである。モーツァルトに関係ないじゃないか。 

だがこういう決めゼリフというのは、得てして元があるもので、ランボー著『地獄の季節』を小林秀雄が訳した際に、冒頭の一節が「私の記憶が確かなら」と訳されたのがそもそもの源流であると言われている。かつてパックから現れたモーツァルトの輝きに当てられて、私は岩波文庫の小林秀雄訳『地獄の季節』をひらいてみた。
こちらで試し読みも可能だ。
https://viewer-trial.bookwalker.jp/03/15/viewer.html?cid=e92f0892-37d3-4edd-a848-2323e17bb215&cty=0&adpcnt=7qM_t


なんたるすばらしい文章か。
「かつては、もし俺の記憶が正しければ、俺の生活は宴であった。」もっと語りたいところだが、本筋を優先し割愛。

そしてこの時点で、私は散らばっていたシナプスが固く結ばれたような感覚を覚えていた。モーツァルトのボイスはこの『地獄の季節』の一節がまちがいなく元となっている、と思い込んだ。というのは、この訳者、小林秀雄はこのほかにも有名な本を記しているからだ。そのひとつの題名は、『モォツァルト 無常といふこと』。私がかつて、偽りの王のおぼろげな記憶をたどってまさぐった本である。小林秀雄つながりで、見事に「モォツァルト」を表現してみせたわけだ。新潮文庫の『モォツァルト 無常といふこと』は以下。
デュエプレを見たあとだと、「メンデルスゾオン」「ベエトオベン」などの描写も面白い。



私はこのとき、幼少にみたあの美しい輝きを、再び「偽りの王 モーツァルト」に見た。私の記憶が確かならば、たしかにそれは宴であった。かつて見た、モーツァルトの美しさが私を小林秀雄に導き、それがボイスとなってデュエプレにて収斂した。それに深く感動した、という話であった。追記:実際には、マンガ原作のオサムライ・VAN・オサムのセリフのようです。だから聞き覚えがあったのかも。

で。
それに並ぶ思い出がもう一つ。鬼羅丸がとどめをさすときに言うセリフ。


超絶奇跡 鬼羅丸
「それじゃ、つまんねえだろ!」


簡単な文章だが、ハイコンテクスト

さすがにこれはぐっとくるでしょう。TCGフレーバーテキストの中でも屈指の名ゼリフ。すばらしい。「つまんねえ」から、奇跡は起こるのだと。心があるのだと。すごいセリフですよ、これは。「アガサ・クリスティ」などのフィクションモチーフ、あるいは「ベートーベン」などかの音楽モチーフをもってきて、「シナリオ」とか「楽譜」とかを意識させる。いずれもシンフォニーを奏でるように、予定調和を彷彿とさせ、決まった「運命」、すなわちシャングリラの標榜する「ゼロ」に導くのだが、鬼羅丸はこれにすごくシンプルに抗う。「それじゃ、つまんねえじゃねえか!」。定まっていること、敷かれたレールに乗っていること、デュエルに同じ動きで勝つこと。愛憎、その矛盾、心を廃すること。定型的で、ある種安心すらできる合理性について、彼は奇跡、心で対抗する。「流れ」を断ち切って、主人公として奇跡的に勝つ。「主人公補正」という言葉、都合よいシナリオもなにもかも、このセリフで看板される。悪役がどんなに強くても、奇跡をおこしてなぜか主人公が勝つ。その理由がここに集約されている。これは本当にかっこいい。まさしく、あの頃のデュエマの興奮が、新たな形で蘇ってきた。デュエプレのフレーバーテキストにて言及されないため、残念がっていたが、やはり拾ってくれた。

以上が私のなにともつかない19弾の感想である。パックを開けて光っていれば目を見開いていたあの頃と比べて、わたしは遥かに「つまらなく」なったのだろうか。ランボーの『地獄の季節』、その自分との惜別じみた描写がなぜだか目にしみるようだった。



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