24時間の主観性と客観性

時間は個人では本来主観的なものだ。共同で生活するからこそ客観性が必要になる。
田圃や畑で自給自足している人は、基本主観的時間で生きることができるのだろう。そこに客観的時間に縛られている人からの憧れや羨望が生まれる。
自分もサラリーマンなので当然客観的時間に取り込まれている。朝礼の時間、打ち合わせの時間、会議の時間。複数で行うからには、皆が同じ物差しでないと困るのは言うまでも無い。その無味乾燥なところに、時々何もかも投げ出してしまいたい衝動を感じてしまうのだ。
で、この圧倒的不利な客観的時間の優位性を考えてみたい。良いところもあるじゃないか、と認識する事で、明日からも少し前向きにやっていきたいところである。
①セカンドライフが充実する。
縛られているからこそ、解放された時には…と想いを馳せる。それが退職後の生き甲斐となる。
②義務教育の価値が高まる。
集団活動に意義があるとすれば、それを最良とする現代社会のシステムに慣れることが出来るというところだ。
③オフも客観的時間として取得出来る
やや強制的なところ(年間で⚪︎⚪︎日休みましょう、というスローガン的なもの)は否めないが、それでも事実として休めるのは魅力的だ。
①②③とも有り難いことではある。ただ、結局どれも主観的時間への憧れが拭い去れていない。①などはセカンドライフで主観的時間を楽しめるから、今は我慢しようということになる。
それならば、一気にハードルを下げて、いかにして小さな主観的時間を取り込んで楽しむか、を考える方が現実的だ。そう、今こうやって表現しているこの時間こそがそれだ。規制の中の緩和。法の中の無法。束縛の中の自由。ちっぽけな存在だが貴重で大切なものでもある。

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