ボボボーボボーボボに乗れない私は
ボボボーボボーボボという作品をご存知だろうか?
見てると頭がおかしくなるとPTAに言われた伝説的ギャグ作品である。
この、ボボボーボボーボボだが何故だか定期的に話題となる。Mステに出たり、なんかコラボをしたり、舞台化をしたり……
兎に角、いまだに色褪せない人気を誇る作品な訳だが、自分は残念ながらボーボボの面白みを掴み逃している側の人間である。
ボーボボを見ていて、ふむ。。。という感覚しか持てない。そもそも、人気のお笑い芸人でも笑う事があまりない、ギャグを楽しめない側の人間なのだ。
まぁ、たまーには笑うし……ゲラゲラ笑えない人間でもいいや……と思ってこれまで生きていたが、最近になって思う。
自分もゲラゲラ笑いたい……
私がボーボボやお笑いを楽しめない理由として、いつの間にか主体が自分ではなく、自分以外の誰かになってくるという現象がある。これを私は、「楽しみ方の型」論と名付ける。
まず、思考の第一段階にあるのが「これは皆んなが評価する面白いものなのだ」という考えであって、それを念頭に作品を見てしまうため、次にはさて、皆んなが笑うのはどういったポイントなのだろう?」「どこを面白いと、何故考えるのだろう?」という分析のフェーズに入ってしまうのだ。
もう、この時点で楽しむことには失敗している。楽しむというのは「何となく」の感覚が何よりも大事なのではないか?
例えば、自分は美術作品がまぁそこそこ好きなのだが事前知識はあまり入れたくはなく、知らない画家の作品を特別展などをやっていれば気まぐれに見る。というスタンスをとっている。
何故なら、その方が面白いからである。「なんか知らない人のなんか知らない作品だけど、なんか良いな!」という感覚が、自分は好きなのだ。
そこを、この画家は有名でこれが良くて……みたいな事前知識がある場合だと、ふむ……コレが良いとされるモノなんだな……というような考えになってしまう。
つまり、初見でないと自分はあまり楽しめないタイプという事なのだ。
人から勧められたモノ、世間で良いとされているモノ。誰かになんか良い!と、勧められたものを、自分自身の「なんか良い!」の感覚に落とし込めないカチカチの脳みその持ち主なのだ。
さて、ここで話を美術作品からお笑いやギャグ漫画に戻すが、まず「お笑い」や「ギャグ」は笑うためにある。笑わせるためにあるという前提知識があるわけである。
美術作品には、笑っても泣いても何を思ってもええんやで〜〜〜みたいなある程度の自由が存在すると個人的には思っているが、お笑いなどは、「これで皆笑うんやで〜〜〜」みたいな固定観念がまずある。
そのため、「どこで皆笑うのかな?」という分析的思考が自分の脳にノイズとしてある訳で、それにより自分は楽しむ事ができないのではないだろうか?
思うと、自分がゲラゲラ笑う場面というのはゲーム実況者のふとした瞬間の何いってんねんこの人は!!!みたいな面白さであったり、「笑うもの」という前提がない場面でしか笑った事がないのだ。
同じ場面でも、爆笑シーン切り抜き!みたいな感じで提示されていたものであれば、自分は笑わなかったであろう。
まぁ、こんなグダグダと色々話したけれど何が言いたいのか?というと、自分はそういう笑うモノとして作られたモノであっても、前提知識があっても「何となく良い!」の感覚でたのしんでゲラゲラ笑える側の感性の人間になりたいのだ。
だって、その方が人生楽しそうだもん。
ボーボボ好きな人を見てよ!お笑い好きで〜!って言っている人を見てよ!
めちゃくちゃ人生楽しそ〜〜〜〜!!!!
めちゃくちゃ羨ましい〜〜〜〜!!!!
自分も早くそれになりたい。ボーボボを楽しめないPTAママ的思考から、クソガキハジケリスト人生楽しいピーポーになりたい人生だった……
〜おわり〜
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