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2025年1月3日
2025年が始まって3日経過。新しい年を迎えたと祝福し、初詣や福袋と意気込むムードはなく、好きな時間に好きなことができる非日常を一分一秒味わっている。初日の出に行った友人のインスタのストーリーや箱根駅伝のニュースを見て、自分のだらしない休みの過ごし方と何となく比べてしまう。比較と競争がこびりついている。
だらしない休みの過ごし方と思う一つ、過去の神ドラマを家族で見返す。横に並んで寝転がってテレビに向き合う。一度見たはずなのに、見始めると止まらなくなり、気付けば外が暗くなる。自分一人だったら、もっと有効に時間が使えたのではと思ってしまう。
神ドラマは涙なしでは見られない。いつもは泣かない父も、静かに頬を涙で濡らしていた。私も泣きながら、横目でバレないように父を見た。同じテレビを見て、悲しみを共にするこのような場がいつまで続くのだろうと不意に思った。
3年前から実家を出た私と弟、そろそろ実家を出ようかと考えている妹。全員が共に同じ時を過ごせる尊さを感じた。正直、いつまでみんなが健康でいられるかなんて分からない。こんな気持ちが、自分を優先する気持ちを薄れさせていく。家族との今をとことん味わいたいと思うのである。
紅白歌合戦を見ながら家族で年越し蕎麦をすする時、温かい床暖房の上に川の字になって昼寝をする時、家族で見たいテレビ番組が争奪戦になる時、愛犬のトイレトレーニングを見守る時、「一緒にアイス食べよ~。」と誘われ、買ったアイスをシェアして食べる時、「今晩は何食べる?」とそれぞれの食べたい物を主張して意見がぶつかる時…。
一人では生まれないあたたかい空気感が感じられる。一人ではやっぱりできないんだよなぁ。もちろん、一緒にいるめんどくささ、煩わしさもある。決して、べったりな仲良し家族ではない。心に秘めた思いはそれぞれにあるし、社会人になってぶつかることも増えた。一方で、一人一人が自分の考えをもって生きていることも分かってきた。
「あなたがどうしたいか」を尊重してくれる雰囲気が広がった社会となってきた一方で、あなたはあなた、だから、私とは関係ないと簡単に切ってしまう冷たさも広がってしまったような気がする。お節介が減った。要らない世話と批判されるようになった。お節介はそんなに悪いものだろうか。
私の家族はお節介の塊である。子どもへのお節介は子どもが失敗する経験を奪うという見方もできる。しかし、大人へのお節介は、心配をしてくれる人がいると気付き、大丈夫と安心できる関係性を作るのではないだろうか。だから、私は、何があっても、家族は変わらず私を受け止めてくれると思えるのではないかと思う。違う意見をもっていることを前提に、「何があったん?」とただ話を聴いてくれる家族に救われることは多い。評価せず、自分の意見を言うことなく、ただ話を聴くことは、話し手にとっての安心して話せる空間を作る。家族と過ごす居心地のよさは、何気ない日々の中で「話を聴く」ことから育まれた関係性の上にあると振り返る。
「ただ話を聴きたいだけだよ。」と言って、笑って寄ってくる人がここにはいる。だから、私はおしゃべりなのである。実家に帰りたいといつも思ってしまうのである。
今、ここを抱きしめよう。今を大切にしよう。その今が、今日、明日、そして、未来となるのだから。