直球ストレート⚾️
「ひかりちゃんは、いつでも直球ストレート。」
大切な友人たちに言われた言葉である。「それがいいところなんだけどね…。」と一言添えて。
人との付き合い方において、私は「直球ストレート」らしい。つまり、いつも投手である。確かに、私はいつも真っ直ぐに自分の意見を伝えてしまう。話すことで自分の気持ちを整理しているところもある。
家族という私の特性を受け止め、尊重してくれる環境を離れて、新しい環境で新しい他者と出会う機会が増えた2022年から現在。自分を外に表現し、自分の意図や解釈を分かってもらうように努めるが、思うように伝わらないことがある。また、他者とぶつかることや折り合いをつけないといけない場面も増えた。その度に、「あ〜、何でこうなるんだろう…」と、直球ストレートで人と向き合う自分の特性を自己否定する。「私にはこういうところあるよね。だから…」と自分を否定的に評価するばかりで、素直に「こういうところがあるんだ」と受け止めることが苦手なのだ。
人によっては、自分からボールを投げない人もいる。また、投げられたボールを取らない人もいるし、ボールは受け取るが一旦横に置く人やカーブで返す人もいる。ここで、私の生きづらさを生んでいる要因の一つに、すべての人が直球ストレートで投げ返してくれると思い込んでいることにあるのかもしれないと気付く。どんな他者とも、言葉で気持ちをありのままに表現して分かり合いたいのである。いや、もしかしたら、私が共感されたいのかもしれない。
私は、他者から承認されるよう、嫌われないように生きてきた。相手の気持ちを想像し、その気持ちに沿うような私であるように演じてきたと思っている。だから、自分を承認してもらえる環境がほとんどだった。そのような環境で育つと、相手の気持ちが想像できないと、自分の振る舞いを決められず不安なのである。また、自分なら評価を受けられるという根拠のない自信もどこかにある。そして、出会う人に対する信頼度の値が高い一方、裏切られたと感じたときの自分にもたらされるダメージも大きい。そろそろ他者のための自分を生きることから抜け出してもいいんじゃないかと思うのである。
3人の友人たちと私はそれぞれ特性が違う。でも、呼吸が合う。間が合う。テンポ感が合う。自然体な自分であることを許してくれる。そして、あるがままの自分である方が私たちの関係に、よい化学反応が起きるのである。一人一人のあるがままが尊重されるように一人一人が気遣い、思いやる。一人一人のありのままが生かされるように一人一人が自分の特性を理解し、役割を全うする。それが自然とできると居心地がよい。あるがままの自分でいていいと思える関係性なのである。
きっと、私たちはそれぞれみんな迷惑をかけて生きている。私の真っ直ぐ直球ストレートは、きっと面倒で融通が利かない。でも、自身の特性が誰かのためになることもあるのである。
だから、迷惑をかけていることを前提に、自分の特性を理解して誰かのために立ち振る舞うことが私が私らしくいる意味なのかもしれないと思った。支え合いで成り立っているからこそ、支えられている分、誰かを支えることが出来る人でありたいと思う。