観察する
1901年から続くノーベル文学賞を
日本人で受賞されたのは、
川端康成さんと大江健三郎さんのお二人。
二人しかいらっしゃらないのですね。
そのうちの一人、川端康成さんは、
私が今住むまちで、幼少期から青年期までを
すごしたとのこと。
「川端通り」「川端康成文学館」があります。
文章を書く、ようになるまで、
恥ずかしながらあまり関心を持てていなかった
のですが、
この週末、市の図書館に行ったとき、
カウンターにあった
「第2回 川端康成青春文学賞入賞作品集」
をふと手に取りました。(無料配布)
そのなかに、小説家 羽田圭介さん
(2015年 『スクラップ・アンド・ビルド』芥川賞受賞)の選考委員選評がありました。
この作品集のどれもが、スッと入ってきて、
無料で読むには忍びないほどに、心が、
揺れました。
それらを選評する、という視点からの言葉が
また、深くうなずくこと。
あたまに ? が浮かびながらも
考えさせられることが多かったです。
ここに、羽田圭介さんの選評を
紹介させていただきます。
「目に止まった」っていう瞬間って、
その時には気づかなくて、
1日の終わりにnoteを書こうてする時に、
「そういえば」ということが多いんです。
だから、思い起こす、文字におこす
ことがいつもハードルが高いんですが、
その時その場でメモを取っておくこと以上に、
「頭の中で、観察し直す過程そのものを、
読者の方が、同じ道を辿れるかどうか」
を楽しみながら、辿りなおし紐解きたい
と思いました。
まだまだ観察力、表現力は、
まだまだまだ、育てないといけないのですが、
「目に止まったものの、どこになぜ、
目に止まったのか?」を習慣づけて、
かつ文章にしていきたいと思いました。
ある受賞作品に対して、
目の動きー。
「目に止まったもの」に対して、
自分の目が、そのまわりの風景や、
そこにいる人達のどこをとらえていたのか、
なぜなのか?
そこまで考えたこと、なかったのですが。
「自分が何を見たか」という一点ではなく、
「何をみて、次にどこを見て、またそれを
見たときの感情」までを線にしたい。
と思いました。
でないと、想像力と創造力のある
文章は書けないな。
また、
「小説を自分のために利用しない」
というのも、ハッと目から鱗がおちる動きを
とりました。
noteを自分のために利用してたなー。
もちろん、その側面はあっていいと思うんです
ただ、「利用する」という発想はなかった。
書くことが目的になってたな。
「誰のために利用して、どうなってほしいか」
までを見据えて、利用したいです。
でないと、自分に「利用されて」
書いてしまいそうです。
目的を見失ったまま、路頭に迷いそうです。
自分はなぜ、noteを書きたいと思ったのか?
創作講座に参加し、エッセイを書きたいと
思っているのか?
忘れそうになります。
わたしが書きたい理由は、
はじめは、自分が自己開示をして、
みずからの可能性を引き出すこと。でしたが、
違ってきている、変わってきています。
自分の自己開示が、
生きる・働く悩みを抱えたり、
迷っている人達の、救いのきっかけに
なればー。
そこは、変わらない。
けど、忘れそうになります。
技術先行ではなく、
目的と志先行でいきます。
ここまでお読みいただきありがとうございます
noteもですが、
世にはいろんな作品応募があることも
知りました。
自分からなにかに応募してみる、なんて、
就活の、採用エントリー応募以来、
20年ぶりかもしれません。
きょうは6月9日、ロックの日。
魂をふるわさて!書いてゆきます宣言の日。
そういえば、観察って、
小学生の「いきものがかり」か、
夏休みの宿題ぶりかも!
観察は、青春。