メリーメリー・ドロップアウト
あらすじ
母親に捨てられた経験のある少女、神崎翔子は、ネット世界の自由さと広大さに魅了されバーチャル配信者『山田夜夢』として活動を始める。配信は順調でファンも増えていったが、ある事件をきっかけに引退せざるを得なくなり、唐突に活動を終える。それから10年。中学校の養護教諭として、子供を相手に平穏な日々を送っていた祥子だったが、彼女の前に『山田夜夢』そっくりな女の子、山田夜夢が現れて―――—。
本編
二人は普段どんなだったか?ふつうに仲よかったと思いますよ。
いやふつうじゃないな、ええっとかなり仲良しでした。
はい、私は保健室のことしか知りませんけど、よく一緒にいるなーって思ってましたもん。
何してた?ふつうにお喋りしてましたね。内容は覚えてません。
……いや、逆に覚えてたら怖くないですか? 覚えてないってことは、それだけ取り留めのない内容だったってことですよ。
ええ、そうですね。……っていっても、ほとんど山田さんのほうから絡んでいってたんだと思います。
神崎先生ですか?うーん、若干引いてた気がします。保健の先生なんですから、生徒から好かれることを嫌がる人はいないと思うんですよ、でも山田さんってけっこーぐいぐいいくタイプだったからなー。……私?いやー私は柄じゃないんで、先生と仲よくーとか、そういうの。あ、だからって神崎先生のこと嫌いだったわけじゃないですよ?むしろ美人の先生でラッキーぐらいに思ってました。あはは、そりゃイケメンだったらもっと嬉しいですけど、女子校ですし。
でもそう考えてみると山田さんってそっち系だったんですかね?その……女の人が好きだった、の、かな?異性の教師と生徒の交際が問題になるってよく聞きますけど、同性ってどうなんですかね?……あ、同性でもダメなんですね、法律だと、へー。あ、いや私の想像なんで本当に山田さんがそっち系だったかは分からないです。すみません。
……え?だって山田さんは山田さんじゃないですか。
すみません質問の意味が分かりません。
……ああ、下の名前で呼ばないのかってことですか? 必要性を感じないですね。そりゃあ名前もひとつの個性でしょうけど、それを口にするかは人次第じゃないですか。いや仲が悪かったわけじゃないですよ?単に私がクラスメイトを名字で呼ぶ人間ってだけです。
それに私だったら呼ばれたくなかったと思いますもん。「ないとめあ」なんて。親御さんのことを悪く言いたくないですけど、キラキラネーム世代なんでしたっけ?ちょっと同情します。感性がおかしいですよね「山田ナイトメア」って、姓と名のバランスも悪いですし。
え、そうでしたっけ?うんまあ漢字なら……いやそれでもアンバランスだと思うなー。
あ、はい。すみません。話がそれましたね。って言っても、実は私も詳しくは知らないんですよ。保健室だって怪我した時くらいにしか行きませんでしたし。確かにあの頃はよくお世話になってましたけど、仲良くお喋りって感じの人間じゃないんです、私。
……いえそんなことないです。さっきも言いましたけど神崎先生はいい先生だと思います、本当に。山田さんも、いい人間だと私は思います。他の人がなんて言おうがそれは変わりません。
それが問題?
別にいいですよ。人間なんて、一方向から見ただけで理解できるもんじゃないです。私に見る目がなくたって、それは誰のせいでもないんですよ。
ただあの二人が私より賢かった……ってだけのことで。
神崎 翔子
神様が嫌いだった。
彼らは弱い者にはなにもしてくれない。
翔子は常々考えていた。神様が施しを与えるのは強い者だけだ。
挑戦し、行動し、諦めず、足掻く、そういった強い者にしか、神様は微笑まない。つらい現実に打ちひしがれ、困難に手も足も出ず、何もできずに祈るしかない「ただ助けてほしい」者の願いを、神様は聞き入れてくれない。
無慈悲で、ある意味公平。世界と一緒だ。命は——人生は平等だと宣っておいて、実際には幸運も幸福も偏っている。どころか、実力のない者は淘汰される弱肉強食。神様だってそう。「弱い者を救いますよ」と甘い仮面で顔を覆い、仮面の下の目は弱者を見てすらない。彼の者の顔はそういう見せかけの仮面で覆われている。
偏見だろうか? いや、これは確執ではあるが偏見ではない。翔子自信、神様に対する行き過ぎた情念を抱いていることは自覚していた。しかし、その理由を具体的に言語化することが出来ないのも事実だった。
常に、漠然とした憤りが胸の内で燻っていた。
親から受け継いだ苗字に「神」という字が入っていたことが原因の可能性もある。
母のことは神様より嫌いだ。あの女は翔子を捨ててどこかへ消えた。
借金もないのに、ある日、こつぜんと。
戸籍上の父親がいないこと、翔子のルックスが日本人離れしていること、生まれてから一度も部屋から出してくれなかったことなどが理由かもしれないが、そんなことは子供である翔子には関係ない。納得なんてできるはずがなかった。
捨てられたという発想に至ることなく、数週間を一人で過ごした。
食べ物が底を尽き、子供ながらに命の危機を感じても家を出なかったのは、扉に鍵がかかっていたから―—ではなく、母に「扉を開けてはいけない」と教えられていたから。翔子の世界にとって母はすべてで、何をやるにも母の許しがいった。愚直にも、死にかけていたにも関わらず、翔子は母の帰りを待った。
それに至ったのは、命の灯があと少しで消える……という時だった。意識は朦朧とし、母に祈るどころか思考もままならない、生体機能が限界まで追い込まれ、人格というものがフラットになる瞬間。脳を通して衰弱し切った肉体が訴えた。
助けて。
翔子は祈っていた。
母にではない。
もっと漠然としていて、大きな存在。世界のすべてを司るような万能の存在。人々が無意識のうちに神様と呼ぶ者に。
動かない体で翔子は神様に祈った。たすけてください、わたしはいきたい。言葉が頭の中で纏まらずとも、ただそう念じた。
けれどその想いが叶えられることはなかった。いつまでも翔子は祈り続けたが、誰も、何も、彼女を助けてはくれなかった。扉は固く閉ざされ、開くことはなかった。
頭の奥でぷち、と虫を潰すような音がした。
翔子は悟る。
誰も自分を救ってはくれない。神様のような万能の存在は、この世にいない。誰にも救われないまま自分はこのまま擦り切れて、消えてしまうだろう。
翔子の意識は蝋燭の煙のように暗闇に滲んでいった。
それでもやはり扉が開かれることはなかった。
けれど翔子が生きているのは、燃え滓になっても生きる力、生への執着が備わっていたからに違いない。翔子は自力で、扉を開けずに生き残った。
具体的にはどうしたかというと……考えてみれば単純なことで、人によっては考える必要すらないことだろう。翔子はトイレの窓から外に出たのだ。
幼さ故に死にかけた翔子は、幼さ故に小さな窓から外に出ることができた。
そうして初めて外の世界に出た翔子は、すぐに保護され病院に送られる。初めて会う母以外の大人たちと話し、いつの間にか翔子は祖父母と言われる人間に引き取られることとなった。
そして翔子が小学生に上がる頃には、母と会うことは二度とないだろうということをなんとなく察していて、あれだけ大切だった母に対する興味も失せていった。
しかし人は成長する。中学に上がる頃には、翔子は自分の境遇や母が行った所業を完全に理解していた。理解はしても、納得はできなかった。友人の家族や、町を歩く親子連れを見るたびに、疑念が首をもたげてくる。
子供を捨てる母親なんて本当に存在するのだろうか?
初めは好奇心だった。自分だけが特別で……いや、母は本当は翔子を捨てたわけではなく、事故にでも遭って帰れなくなっただけなのかもしれない。
知りたかった。母は何故自分を産んだのか。何故育てたのか。どこに行ってしまったのか。
衝動のままに端末を操作する。ネット社会全盛の時代に調べられないものはない。警察すら見つけられていない母の行方などは難しいだろうが、自分と似たような境遇の子供、親、事件などはすぐにヒットした。
『好奇心猫を殺す』とはよく言ったもので。翔子のそれは知的好奇心というより、母親に対する慕情や信仰を正当化したかっただけなのだけど……結論から言えば、翔子は調べたことを後悔することになる。
世界は不幸で溢れていた。翔子が歩んできた人生の後ろで、幼い命の理不尽な死が山積みになっていた。
産まれた直後にトイレに流された子供。
押し入れで見つかったミイラになった子供。
義父にらんぼうされる子供、母親に金の道具として使われる子供。
多種多様に子供が虐げられている事例、事実。
真っ先に浮かんだのは拒絶──嘘だ、こんなことがあるはずがない。次に湧いてきたのは憎悪──ふざけるな、なんで誰もこの子達を守ってあげなかったんだ。そして、恐怖──ぞっとした。一歩間違えれば自分まで彼ら彼女らと同じ場所にいたのかと考えると、背筋が凍った。
自分と彼らとの違いは運などではなく、生きる力が強かったか弱かったか、これに尽きる。強い人間は行動できる。苦境に立ち、打ちのめされ、すり減ったとしても、最後まで足掻くことができる。弱い者にはそれができない。
翔子は自分が弱い者だとは思っていない。生き伸びた事実がそれを証明している。かといって弱い者を見下しているわけではなく、むしろ弱い者が悪いわけではないと直感的に確信していた。
悪いのはすべて、周りの環境。子供を育てる親。暮らす社会。存在する世界。そういった「子供の未来や運命を司る広義の神様すべて」が悪なのだ。そう直感していた。
中学三年生になった翔子の胸中で、世界に対する憎悪が日に日に募っていく。当然捌け口は必要だった。そしてそれが仮想空間(インターネット)に向けられたのは、時代を考えれば自然の成り行きといえた。
日本で生きていれば嫌でも目にする、SNSや動画サイトを主とする仮想空間で架空のアバターが活躍するムーブメントは、翔子にとって単なる娯楽以上の価値があった。
自分とは全く異なる存在を画面の中で自由に操作する。「ネットの中でならどんな自分にもなれる」根幹にある思想は翔子を惹きつけ、魅力した。インターネットの中でなら、なんでもできる気さえした。初めて彼らを知った時の衝撃を翔子は一生忘れないだろう。
自分もこの世界を体験したい。……いや、自分も伝える側になりたい。
決断した後の翔子の行動は早かった。自営業だった祖父母の手伝いで貯めていた数年分のお小遣いをすべて使い、配信環境を整えた。アバターの発注なんて金額的にも手続き的にも中学生には難しいと思われたが、想像より遥かにハードルは低く、一ヶ月も経たずに翔子はネット空間での自分の体を手に入れた。
端末に表示された完成品を見てほくそえむ。バーチャル世界ではなりたい自分になれる。容姿にコンプレックスのあった翔子は、アバターの容姿は現実の自分とは正反対のものにしようと最初から決めていた。
出来上がったのは年齢こそ同じ中学三年生だが、髪色は翔子とは真逆の黒髪で、しかもピンクのメッシュが入ったハーフアップ。全体的な見た目も、自分では絶対やらない所謂『地雷系』にしてもらった。
イラストレーターを吟味しただけあって、かなりクオリティが高く、フェイシングなどの動きも許容範囲だった。我ながらよい注文をしたと、翔子は端末の前で頷く。
キャラ設定も細かくつくった。
仮想空間での翔子の名前は『山田夜夢』──ヤマダナイトメア。
平凡な山田という苗字とキラキラネームである夜夢(ナイトメア)の組み合わせでギャップが出ていい、と個人的には思っていた。神様と世界に絶望した堕天使という設定で、腐った社会を世直すために学校に紛れ込んだ自称中学三年生の女の子。
神様と世界の否定、世直し──それこそ翔子がやりたかったこと、言いたかったことだった。アバターを悪魔っぽい見た目にしたのにもそういう理由がある。
決まり文句や挨拶は配信者のキャラ付けにとても重要だったが、中学生の翔子ではこじゃれた言い回しなど思いつくはずもなく、無難に「こんばんナイト~★」というわかりやすい挨拶に落ち着いた。けれど会話の節々に神アンチの発言を織り交ぜキャラとして尖った部分を出したり、リスナーをナイトメアとクラスメイトをもじった『ナイトメイト』と呼ぶことで仲間意識を感じさせるなど、有名配信者がやっているようなことはどんどん真似した。
動画編集できるほどの技術は持っていなかったから配信しか出来なかったが、むしろ翔子は配信一本でよいと考えていた。翔子の考えていることをリアルタイムで言うことが重要なんだと思っていたから。
初めての配信は緊張した。
大勢に見られることにではない。新人バーチャル配信者なんて腐るほどいる界隈、無名の個人配信者のデビュー配信なんて誰も見ない。それは翔子も理解していたから閲覧者数に期待はしていなかった。
緊張したのは「世界に自分の言葉を発信する」という行為そのものに対して。現実でもそんな経験はなかったから、翔子は妙にあがってしまった。結果、台詞を噛んだり声が上擦ったり、変な沈黙が続いてしまったりと散々の初配信だった。
配信の後、徹夜の反省会をおこなった。羞恥心と自己嫌悪に苛まれながら、それでもバーチャル配信者を続ける決断をしたのは、翔子が強かったから。翔子には配信者としてやりたいことが明確にあった。
神様と世界の否定──翔子は山田夜夢の姿を借りて、声を張り上げる。今の社会がどれだけ腐っているか、世界が崩壊に向かっていること、神様の無能っぷり。説得力を持たせるように図書館で調べた実際の事件を取り上げ、神話の一節を引用し、リスナーに語りかける。否定的なコメントも多かったが、アンチと呼ぶような輩は現れなかった。時にはそのリスナーと意見交換をしたりもして、良い距離感を保てていた。
若い女の子が毒舌で社会を否定する様子は一定の需要があったのか、数ヶ月でチャンネル登録者は増え、お小遣い程度のギフティングも貰えるようになっていた。
配信者として食べていくつもりはさらさらない翔子だったが、もっと多くの人間に自分の言葉を聞いてほしいとは思っていた。
手っ取り早く有名になる方法といえば他の配信者とのコラボだ。しかしネームバリューのない山田夜夢とコラボしてくれる人間はそうはいない。それに山田夜夢のチャンネルは一般的な配信者のそれとは違い、エンタメ性が皆無だった。コラボしたとして山田夜夢のキャラを活かせるのかといえば正直難しい。
他の手段はというと……翔子が考えつくのは炎上商法くらいしかなく、こちらも現実的とは言えなかった。偏った思想の人間ばかりがナイトメイトになる危険性があったからだ。
結局、地道に配信を続けていくしかない。……そう思っていた矢先、ある事件が起きた。
都営アパートの一室で女性の首吊り死体が発見された。
それだけだと昨今の刺激に飢えた視聴者には見向きもされない。この事件のセンセーショナルなところは、その部屋には自殺者以外に生きた人間がいたということ。それは自殺した女性の子供だった。しかも発見当時、子供は母親の死体にしがみついていたらしい。
母親の死体と子供が暮らしていた、というセンセーショナルな部分に世間は注目したのだ。しかし翔子の視点は違う。
現実に耐え切れず世界から逃げ出した母親と、そんな母親に見捨てられた子供。翔子の脳裏に、もう忘れてしまった母の顔が思い浮かぶ。
状況は違えど境遇は自分と似ている、そう思った翔子はこの事件を取り上げずにはいられなかった。どの時事ネタ配信者よりも早く脚本をまとめ配信し、子供がいかに可哀想か、母親の無責任さ、存在するであろう父親の非道さ……そして親子を助けられなかった社会の惰弱さに対し、熱く語った。
それが転機だった。
その配信自体が、ではない。山田夜夢がその配信で語った内容が、ニュースで取り上げられたのだ。
運が良かったとしかいえない。ネット配信者が流行っていたことと、事件の新鮮さが絶妙なタイミングで符合し、テレビ局のプロデューサーの目に留まった。テレビでネット配信者の切り抜きが流れるという珍しさもあいまって、山田夜夢の発言は多くの人間に爆発的に広まっていった。
それからは早かった。翔子の生活は一変する。チャンネル登録者は数十万にのぼり、動画収入とギフティングで年収は八桁を超えた。真面目に生きるのが馬鹿らしくなり、中学を卒業後は高校すら行かず、夢のような生活を送っていった。
「——そんな奇跡、起きるわけないじゃんね」
「ショーコちゃんいまなんかいった?」
声に振り向くと、ベッドに横たわった生徒がカーテンの隙間から顔を覗かせていた。翔子は眺めていたスマホを伏せ、さりげなく業務日誌を広げる。
「なんもないよー」
「独り言っておばさんっぽいよ?」
「寝てろ。……小林さん重いんでしょー今日」
「いやそうなんだけどさ、静かなのって嫌じゃん」
生徒──小林は、言いながら苦笑する。よく見ればその顔は、中学生とは思えない派手なメイクの上からでもわかるほど辛そうだった。翔子は複雑な感情がこもった息を吐いた。
「じゃあ帰ればいいじゃない」
「ひっど!ひどーい!辛そうな生徒にそんなことゆー?保健室の先生とは思えなーい!」
「保健室はお喋りする場所じゃありませーん。静かにできない人には帰ってもらいまーす」
「でもよく他の子とは貸し切りで喋ってんじゃん」
「貸し切りって……」翔子は思わずこめかみに手を当てていた。
「あのね、あれはただのお喋りじゃなくて個人相談なの。生徒の悩みを聞いて、どうすればいいいか、力になれないか、一緒に考えたりアドバイスをあげたりしてるのよ。人には言えないようなことを、内緒でね」
「そうなん?へー、メンタリスト的な?」
「メンタリスト知っててなんで保健室の役目知らないのよ……」
「ごめんしったかした。メンタリストもなんとなくしか知らない」
へへへと笑いながら、女子は興味を引かれたのかベッドから起き上がり、足を投げ出した。若く艶のあるふくらはぎが眩しい。
翔子と話がしたいのだ。養護教諭としての感覚が反応し、翔子は体を半身に向けた。正対すると相手が委縮してしまう可能性がある。あくまでさりげなく、自然に。「片手間で聞くだけ聞きますよ」というポーズをとる。
相談事の導入は、それぐらいなあなあでいい。まず相手の口を開かせることが目的なのだから。
「でもショーコちゃんもそういうことするんでしょ?心を読む……的な。マインドコントロール?」
「しないし、出来ないよー。保健室の先生ごときはそんなに万能じゃないの。あくまで生徒が心で抱えてる不安を和らげてあげるだけ。……そもそも洗脳とかできるなら学校の先生なんてやらずパパ活で稼いでるわよ」
女子が吹き出した。
「ふははっ!先生がパパ活!……っふふ、マジでうける。で、でもショーコちゃんなら洗脳とかせずに稼げそう。ハーフだし、美人だし……ふふっ!」
「でしょ?……でもまあ、ああいうことできるのは若いうちだけだし、刹那的に稼いでも身にはならないからねー」
「もったいなー」女子の言葉に翔子は違和感を覚えた。
「なに?やってみたいの?援助交際」
流し目で尋ねると女子は分かりやすく目を泳がせた。
「そっそういうわけじゃないけど、さ。でもいま流行ってんじゃん?違う学校の友達とか、やってるって聞くし」
てしてしとぶつかり合う足の先で、ビビットな顔料がきらめいていた。
パパ活に興味があるのか?わざわざ『違う学校の友達』と前置きするあたりいかにもそれらしいが、翔子の問い掛けに反応しただけかもしれない。他の要因も探る必要がある。「最近の子供はなんでも進んでるわねー」翔子は女子に正対し、頬杖を突いた。
「その言い方おばさんくさいよ」
「あと十年もしたらこうなるわよ」
「十年……」女子の表情が一瞬曇る。
「……十年たってもショーコちゃんみたいな美人にはなれないだろうなー、わたし可愛くないし」
苦笑いで誤魔化そうとしているが、翔子は聞き逃さない。
「はー?十代半ばの女の子がなに言ってんの。小林さん可愛いじゃない。メイクも上手いし、十年後は今より綺麗になってるでしょう。流石の私でも分からないわよー」
「でも……十年後も今みたいにやってるかわかんないじゃん」
目を伏せる女子を翔子は冷静に観察していた。
美容系の悩みでもないようだ。では、単純に将来への不安だろうか?それにしては態度が露骨すぎるし、そもそも話が二転三転している気がする。本題は別にあって、いつ切り出そうか迷っている、という感じだ。
この小林という女子は、いつもはもっと明るく緩い(悪く言うと横柄)雰囲気の人間だ。それがここまで神妙なのは珍しい。
何かしらの悩みを抱えていることは間違いないだろう。それか形のない漠然とした不安が、生理によって大きな感情となって現れたか……。なんにせよ話を聞かなければならない。翔子は慎重に言葉を選び、努めて砕けた口調で話しだす。
「……まあ、学生でないことは確かね。あ、待って。留年とか院生とか含めれば25でも全然学生だったわ」
「そうなんだ?めちゃくちゃ大人って感じなのになんか変だね」
「言い方。別に変ではないわよ。大抵の人は学びたいことがあって学生してるんだから。やりたいことに向かって行動できるって素敵でしょ?」
「そ……だね」レスポンスが悪い。しかし悪いことではない。悩みを抱えている場合、それが話題に上った時に口ごもってしまうのは誰にでもあることだ。
故に翔子はその方向に話を広げる。
「学業に関わらずそういう人って強いわよね。自分のやりたいことがはっきりしてる人。野球選手でも歌手でも……あとほら、小林さんがこの前読んでた雑誌」
「モデルの?」
「そうそれ。あれの特集に出てたデザイナーさんだって、学校中退して海外で学んでた人でしょ。記事読んだけど、小さい頃から自分の作った服を世界に広めたいって夢だったそうよ」
「夢……。夢かー」
女子は口の中で「夢」という言葉を転がしている。翔子はそれを黙って見守っていた。
「先生もやっぱり、夢ってあった方がいいと思う?」
唐突だが、それは予想していた言葉でもあった。翔子は視線を泳がせ考えるふりをした後、神妙そうに頷いて見せた。
「あるかないかで言ったら、あった方がいいね」
「そっか……」
呟いたきり女子は沈黙してしまう。翔子は机に体を預けるように座り直すが視線は女子から外さない。女子生徒の葛藤を想像する。おそらく彼女は
進路に関することで悩みを抱えている。それを翔子に話すか――いや、話すことは決めているのだろうけど、どう切り出すかを考えあぐねているのだろう。それをどう導くかは、養護教諭である翔子の腕の見せどころだ。
「無理に見つける必要もないけどね。でも夢があった方が人生が楽しいのは間違いないだろうし、生活するうえではりがあるでしょう。……あと、年齢を重ねてから夢が見つかった場合、時間的にも体力的にも厳しいことって多いから、若い方が夢が叶う確率が高いとは思う」
そこで初めて翔子は女子に問いかけた。
「小林さんなにかやりたいことでもあるの?」
「やりたいことっていうかー」
んー、と女子は背中を伸ばし、勢いのままベッドに倒れ込む。そして天井を眺めたままとつとつと語り出した。
「それっぽいことは見つけた、気がするんだけど……本当にそれが自分のやりたいことなのかわっかんないだよね。唐突なことだったからさ」
「びびっときた感じ?」
「びびっと……なのかなー?多分そう」
ネガティブな悩みでないと分かって翔子は胸をなでおろす。まだ「親に反対される」とか「才能や環境に障害がある」などの懸念もあるだろうが、自殺願望や性被害に関する悩みではないようだから一安心だ。
中学生は場合によっては高校生よりも難しい。肉体も精神も、高校生よりは未熟だけれど、だからこそ子供っぽい純粋さが極端な行動に走らせる。
達観し大人びた子供たちを世間は揶揄してZ世代なんて言うけれど、これは大きな勘違いだ。子供らが達観したように見えるのは、その方がかっこよく見えるから、大人っぽく見えるからそう振舞っているに過ぎない。つまり、中身はちゃんとガキなのだ。
多くの生徒と接してきた翔子はそれを肌で感じていた。
「ショーコちゃんもそういう感覚あって保健室の先生やってんの?」
気づけば女子が体を起こし翔子の方を見ていた。
翔子は机上のスマホを一瞥すると、意味ありげに女子に微笑みかけた。
「そうだよ。私、みんなと同じくらいの時に夢……かな?やりたいことがあったんだけど、どうしてもうまくいかなくてね。なんでだよーって、一人で悩んでた時があったの。あの時誰か相談できる人がいたらよかったなって……そう思ったから保健の先生やってるんだ」
「へー、なんかいいね、そういうの」
「でしょ?だから、小林さんが何かで迷ってるならなんでもいいから相談してくれると嬉しいな」
翔子が促すと、女子は気恥ずかしそうに足を擦ったり「んー」と唸ったが、決心がついたのか覗き込むように翔子の方を見返してきた。
「あの……さ」
「うん」
「十代の結婚って、どう思う?」
女子の言葉を聞いた瞬間、翔子の胸の内で「恋バナ(そっち)かー」と大きなため息が嵐のように吹き荒れた。しかしそこはプロである。翔子は少し驚いたようなリアクションをしつつ、回答をぼかした。
「他の学校の人?」
翔子が務める中学校は女子校なので男子は他校生に限られる。教師という線も考えられるが、中学生に結婚をほのめかすような大人がこの学校に勤めているとも考えにくい。やはり、多感な年齢の男性だろう。
「いや、ちがくて……そういうのじゃないんだけど」
女子は面白いくらいに焦燥していた。自覚があるのか顔を隠しているが、耳まで赤く染まっているのを翔子は見逃さなかった。この小林という生徒は、派手な見た目のわりに純粋なところがある。異性とまともな関係をもったこともないのではないだろうか?初恋である可能性も低くはない。まだ、15歳なのだし。
「そういうのじゃないのね」
「そ、そう……。塾で知り合っただけだし」
「ふーん。じゃあ深くは聞かないけど、よく遊んだりするの?」
「……そんなに多くないよ。5回くらい」
期間は分からないが回数だけ見れば良好ともいえる。まあ回数を覚えている時点で、女子がその男子にどれだけ本気なのか分かるが。
さて、どういうアドバイスをすればいいだろうか。
翔子」の頭が回転する。結婚を考えるほど真剣な相手といえば聞こえはいいが、恋愛経験の浅い男女ほど「結婚」という言葉に魔力と神秘性を感じているものだ。特に中学生なんかは、「結婚」に限らず言葉の意味を考えずに使用している場合が多い。なので今回も一時の気持ちの高ぶりだと翔子は判断していたが、いくら恋熱に浮かされているとはいえ女子の悩んでいること自体は真実なのだ。それを否定することは避けたい。
惚気たいだけでアドバイスは求めていないかもしれないが。しかしまずは聞くことだ。
カウンセリングとは相手の話を聞くことにリソースのほとんどを費やす作業なのだから。
方針を決め、翔子が口を開こうとしたその時、不意に扉が叩かれた。ついで男性の声が響く。
「神崎先生、いまお時間いいですか?」
返事をする前に扉が開かれ、翔子もよく知る年配の教師が顔を覗かせた。
後ろには女子生徒が立っている。顔を伏せているが、肩が小刻みに震えている……泣いているようだ。
「どうかしましたか?」
年配の教師はベッドに腰かける小林を一瞥してから、翔子に向き直る。普段は気の優しそうなその顔が、困ったようにしぼんでいた。
「ええ、うちの生徒が授業中に突然泣き出してしまいまして、ちょっと保健室で休ませようと思うんです。……それでー、先生、よかったら話を聞いてあげてはくれませんかね?」
年上とは思えない腰の低さで年配教師は翔子を窺う。翔子は横目で小林を窺った。翔子はわずかに悩んだが、すぐに小林の方から声があがった。
「あ、じゃあ私はおいとましようかなー。もう体調よくなってきたし」
言いながらいそいそとソックスと上履きを履き始めた小林を、翔子は止めなかった。気を遣わせることを止めるより、その気遣いを単純に褒めた方が、彼女の精神衛生上よいと考えたからだ。
「ありがとう小林さん。また聞かせてね、今度は詳しく」
そういって笑い掛けると、小林もはにかんで応えた。
教師と女子生徒の隙間を抜けていった小林を見送ってから、翔子は新たな女子生徒を保健室に招き入れ、何度も頭を下げる年配教師をクラスに帰した。
靴底を擦りながら歩く女子をベッドに座らせ、翔子はしゃがみ込む。女子は泣きじゃくったまで、目線は合わない。翔子は泣くのが収まり始めたころを見計らって声をかけた。
「なにか飲む?」
女子は無言で首を振る。
「そう……」
女子の両手はスカートを握り固くなっている。翔子はその手に覆い被せるように自分の手を重ねた。女子の体が一瞬跳ねた。
「津山さん、だよね?」女子生徒──津山が驚いたように顔を上げる。赤く潤んだ瞳が翔子を見た。
翔子はやり過ぎなくらい穏やかな表情で「生徒の名前は全部覚えてるんだ」微笑み、津村を安心させるよう努める。
「大丈夫。落ち着いてからでいいから、お話聞かせてね。ちゃんと聞くから」
翔子の言葉に、女子生徒の頬に大粒の涙がつたった。
女子生徒──津村が去った後の保健室。一仕事終えた翔子はデスクに座り、伏せたままだったスマホを手に取った。電源は落ちておらず画面には「今日の生放送は終了しました」のテロップが流れている。実際の生放送を視聴していたわけではない、忙しくて見れなかった昨日の配信のアーカイブだ。
翔子は10年前にバーチャル配信者を辞めてしまったが見ることは辞められなかった。しかし趣味嗜好は変わり、今推しているのはニッチな個人勢ではなく大手事務所に所属している有名勢である。結局、大手事務所のバックアップがあるぶん企画も豪華だし内容も安定している。メッセージ性などは皆無だが、純粋に見ていて面白い。
翔子の感性が衰えた、ということなのだろう。歳をとったのだ。
10年前、翔子は……いや『山田夜夢』は一時的に有名になった。ニュースで切り抜きが流れ、順調に知名度は上がっていった。このまま有名になれば、もっと多くの人間が夜夢の言葉を聞いてくれる。そう思ったし続けていれば、実際そうなっていただろう。
翔子が自主的に配信者を辞めてさえいなければ。
ニュースに取り上げられたことで有名になって、炎上し、誹謗中傷の嵐に晒されたから辞めた──なんてありがちな理由ではない。むしろ翔子に賛同する者は多かった。問題はその「方向性」だった。
有名になり翔子のチャンネル登録者数は一気に増えた。最初はそれでよかった。しかし、切り抜かれ第三者によって伝播された翔子の言葉は徐々に変容していき、翔子の伝えたい真意から外れていったのである。
たとえば「0歳児餓死事件」
被害者は文字通り生後まもない幼児。加害者は……この場合加害者といってよいか微妙だが、幼児の実の母親だった。
母親は10代のシングルマザーで、親とは疎遠、頼れる友人もおらず、一人で赤ん坊を育てていた。母親は赤ん坊を愛していた。赤ん坊を育てようと「一人で」がんばった。しかし生きるにはお金がいる。十代の女性に十分な蓄えがないことなど誰にでも想像出来る。母親は子供を育てるのに必要なお金を得るために、バイトを掛け持ちしてがんばった。結果、赤ん坊を家に残すことが多くなり、死なせてしまった。母親は逮捕され、有罪となった。
翔子はこの事件に対して憤った。
なんだこの母親は、なんで生む前にもっと教養を身にけておかなかったんだ。国は、行政機関は何をやっているんだ。それ以前に親も友達も、周りの人間はなにをしていたんだ……そういう内容のことを配信で熱く語った。
誤解を招くようだが、翔子は決して当事者を糾弾したかったわけでも体制を否定したかったわけでもない。ただ、自分の考えを広めることで誰かを救いたかっただけだ。
事実、配信の中でシングルマザーのための補助金が豊富にあることや(中学生が調べただけでもすぐにヒットした)親や学校はもっと教育の根本について考える必要がある、なども話している。件の母親は、知識や運や、誰かの慈愛だったり……何かのきっかけさえあれば、我が子を死なせずにすんだのだ。
決して怒りのままに叫んでいたわけではない。けれど自分が思っているほど言葉の意味は正しく伝わらない。今思えばそこが中学生の思慮の限界だったのかもしれないが、当時の翔子にはそれがわからなかった。わからないまま、疑念のみがどんどん自分の内で膨らんでいった。
その時点ではまだ翔子は配信を辞めるという考えを持っていなかった。疑念を抱きつつも、配信を続けていけばいずれは翔子の真意を汲み取ってくれるという淡い希望があったからだ。
問題は……翔子自身が配信中に「夜夢ならこう言うんじゃないか?」と考えてしまったことにある。
バーチャル配信者はアニメの声優とは違い、キャラクターに歩み寄ってはならない。
キャラクターを成立させる最低限の設定を守る必要はあるし、設定を守っている姿勢は見せる必要があるが、しかしバーチャルキャラクターの性格に合わせる必要はない。思想や発言は、翔子由来のものでなくてはならない。でなくてはバーチャル配信者の意味がない。
発信する手段としてバーチャルの外面があるのであって、バーチャルの外面を維持するように思想を変えては意味がない。翔子は、有名になったことで「周囲に知られている夜夢」の人物像を意識するようになっていた。それに気づいてしまった時点で、山田夜夢は翔子の分身ではなくなっていた。
そしてそれは、翔子が配信を辞めるには充分な理由だった。
それから10年──自分の言葉で誰かを救いたいという想いが手離せなかった翔子は、顔の見えない不特定多数ではなく、子供たちと直接顔を合わせ心身共にケアをする養護教諭の道を選んだ。そして華やかではないが確かな手応えのある生活を送っている。
こんなものだ、人生は。
でも「こんなもの」を手に入れるには多大な労力を要する。普通に暮らすのは想像以上に難しい。それを翔子は、幼い時の事件と、25年間生きてきた経験で、身をもって知っていた。
四捨五入すれば30……一般的に考えれば、そろそろ結婚だ出産だと焦る時期かもしれない。が、翔子に結婚願望はない。恋人はいたことがあるし、セックスが苦手なわけでもなかったが、自分が家族を構成する一部になる想像ができないでいた。はっきり言ってしまえば、自分が母親となって子供を産み育てることが。
わかっている。それは翔子が真っ当な親に育てられなかったから。母親を知らずに自分が母親になることなどできようはずもない。翔子はだから、見ようによっては一生子供のままなのだ。
それでいい。
家庭に入ることが幸せなんて時代はとっくに過ぎた。個人が充実してさえいれば、それがおおむね普通の幸せなのだ。それにこれは予防策ともいえる。翔子には我が子を捨てた母の遺伝子が半分入っている。そしてもう半分は、おそらく欧米人だろうこと以外身上不明の父親の遺伝子が。二人とも今生きているのかさえ分からないが、確かなのは責任力が著しく欠けているということ。でなければ翔子は死にかけたりせず、親の愛情を知らずに育つこともなかった。
理性では分かっているし子供を愛おしく思う感情もある。しかし、自分の体に刻まれた遺伝子が意思や感情を無視しないと誰がいえるだろう?翔子はそれが怖かった。自分が怪物になることが。
だからこれは予防策。不幸な子供を生み出さないために、翔子は一生家庭なんて持たないと決めていた。
スマホの電源を切りふと外を見やると、女子生徒達がきゃいきゃいと騒ぎながら歩いている。翔子にはそれが酷く尊く、眩しく見えた。
下校時間が過ぎクラブ活動で学校全体が活気に溢れていたが、反対に保健室は静かなものだった。規則上翔子は帰ってもいいことになっていたが、運動部の生徒が怪我をして転がり込んでくることも珍しくなく、学校が定めたクラブ活動時間までは残るようにしていた。日本人特有のサービス精神溢れる待機業務だ。
動画サイト以外はアプリゲームくらいしか趣味がない翔子にとってはスマホさえあれば職場も自宅も関係ないからそんなに苦痛ではないけれど、最近は危機感……というか、運動系の趣味を始めた方がいいかなとは思い始めていた。生活を指導している養護教諭が不健康では生徒に示しがつかない、と気づきを得たことが切っ掛けだったりする。
ゴルフやボルダリングなんかはかっこいいし、前から興味があった。スマホで近場の施設を検索していると、廊下から気になる音が聞こえてきた。
遠くから響く運動部の掛け声や吹奏楽部の残響をかき分けて翔子の耳に真っすぐ向かって来る、それは足音だったが、翔子の記憶にない音だった。保健室に出入りする者の足音は大体覚えている。なのに翔子が覚えていないということは、初めて保健室を利用する者ということになる。
ケガ人だろうか?それにしては足取りに焦りがない。委員会の生徒が訪れるような用件も、直近ではないはずだ。眉を顰める翔子を尻目に足音は扉の前で止まった。すりガラスの向こう側には生徒と思しきシルエットが立っている。何の用件だろう、と翔子が椅子から立ち上がると、それを見計らったかのように扉がノックされた。礼儀のある生徒のようだ。
翔子はどこか緊張していた自分に気づき、浅く息を吐いた。
「どうぞ、開いてますよ」
穏やかな声をかき消すように扉が勢いよく開かれた。
その瞬間、翔子は言葉をなくす。
そこに立っていたのは『翔子』だった。
……いや、十年前に捨てたはずの、仮想空間での翔子の姿だった。つまり、バーチャル配信者、『山田夜夢』。セーラー服に悪魔の羽が付いた鞄を背負った、黒髪ピンクメッシュの女の子。
唖然とする翔子を意に介した風もなく、彼女は不敵に微笑みこう言った。
「こんばんナイト〜★」
前置きが長くなってしまったが、これはこの二人の物語。
神崎翔子と山田夜夢。
本物と偽物。
見ようによっては親と子。
歪な二人の物語。
ショーコちゃんとヤムっち? ああ、あの二人って姉妹なんだよねー。
知ってた? 知らなかった? え、めっちゃ驚くじゃん、うけんだけど。
……は? いや冗談だし。そんな怒んないでよ。どんな感じだったって聞いてきたのはそっちじゃん。わたしは正直に思ったまんま答えただけだし。……あー、うん。そだねーヤムっちからそういうことを聞いた覚えはないかなー。ショーコちゃんも言ってなかったと思う。
でもマジで仲良かったからあの二人。ほんとに姉妹なんじゃないかって思うくらいにさ。
もちろん喧嘩するときもあったよ? でもそんなもんじゃん? 本当に仲いい関係って。けんかすることがあってもずーっと一緒にいられるから、相性がいいんだよね。なんだっけ、雨降って地固まる的な?
え、なんで知ってんの? ストーカーかよ。……そうなん?学校ってそこまで個人情報知ってんだ?うん、弟が二人。もーマジで仲悪いから。
うん、うん?あー……、まあ、ねー?確かにあの時は家の空気最悪だったなー。弟たちには流石に教えてなかったけどさ、やっぱわかっちゃうじゃん?険悪なふんいきってやつ。みょーに優しくてさ2人とも、思い出すと笑えてくるよ。
あっ優しいといえばパパがあんまり怒らなかったのは意外だったなー。いやブチギレてはいたんだけどさ、塾とか、相手には。でもわたしに対してはすごく真面目な顔して、静かに叱られるぐらいですんだんだよね。ふつーはぶん殴られると思わない?それが本当に予想外だったっていうか……。
うん、基本的には放任主義だね。でも勉強に対してはすっごく厳しいの。塾だって小学生から行かされてたからねー。やっぱどこの親も一緒なんだね、確か津村さんの両親もそんな感じだったんでしょ?……教えられない?別にいいじゃんそのぐらい。
てか学校でもけっこー話題になってたし、秘密ってほどでもないんじゃない?どこの親も、やっぱ子供には勉強がんばってほしいもんなんだよ。……ああ話題といえば、あの時のヤムっちはかーなり話題になってたなー。だってあの見た目だし。
うちの学校って校則かなり緩くて服装も自由なのね?わたしも髪とか爪とかやってるし。他の子も好奇心程度のメイクくらいはやってたしさ。でもヤムっちのあれは度を越してたよねー。ピンクのメッシュに地雷メイクだよ?中学生でやってる子なんていないいない。流石に先生たちも引くって。いくら成績いい生徒だからってさ。
でもショーコちゃんは何も言ってなかったなー、ヤムっちにもうちらにも。他の学校の友達から聞いたんだけど、ふつーの中学の保健の先生ってもっと厳しいらしいじゃん。校則で許されててもメイクとか服装とか、めっちゃ口出ししてくるんだって。……あ、やっぱりそれが普通なの?そっかー。じゃーショーコちゃんが特別だったんだね。
ううん、生徒に興味ないとかじゃないと思う。てか、他の人からも話聞いてんでしょ?じゃあわかるよね。ショーコちゃんは確かに先生としては緩いところがあったけど、うちらに興味がないんじゃなくて……対等に話すために、あえて目線をうちらに合わせてくれてたんだと思う。
それってすごいことだよね。大人が子供に合わせてくれるんだよ?嬉しいってふつーは。……うん、嬉しかった。あの時、わたしが本当に取り返しつかないことしたのに、ショーコちゃんはそばにいてくれたんだ。ぜんぜん偉そうじゃなくて、怒ってもいなくて、まるで自分も苦しんでるみたいに一緒にいてくれた。
本当に、嬉しかったなあ。
……えっヤムっち?うーん、どうだろ。わたしは友達のつもりだけど、あっちはどうか正直わかんないんだよね。
でもそうだなー、多分あーいう人間のことを「魔性」っていうんだろーね。
『山田 夜夢』
「翔子先生、初恋っていつでした?」
「ノーコメント」
「あたしはねー、5歳のときでした!」
「じゃあ私もそれくらいかなー」
「えーなんですかーそれ、マネしないでくださいよー」
文句を言いながらも山田夜夢は嬉しそうにベッドの上を転がりまわる。
「こら、ほこりが舞うでしょ」
「はーい」
ぴたりと止まる夜夢、しかし悪戯げな顔で翔子を見つめている。
視線を無視しようと机に向かう翔子だったが、見られていると思うとどうにも集中できない。かと言って注意しようものなら、夜夢は大げさに反応し、さらに喜ばせることになるだろう。
夜夢は翔子に構って欲しいのだ。それは純粋で子供が親に向けるものと似ているが、思春期特有の照れがなく、それゆえに夜夢の行動は目立った。翔子への好意を隠そうともしない。こういう生徒はたまにいるが、夜夢の懐き具合は明らかに過剰だと翔子は感じていた。
山田夜夢との邂逅から1週間が経っていた。
10年前に自分が生み出したバーチャルボディが突然目の前に現れれば、誰だって驚き言葉を失くす。彼女らは創作物で、ネットにしか存在しないのだから……。翔子も、保健室に現れた山田夜夢の姿にただただ驚き、呆然としていた。これは夢なのでは?とも思った。
しかし現実であることがすぐに分かる。山田夜夢の方から話しかけてきたのだ。曰く彼女は転校生で、職員室での手続きが終わったから校内を見学していたということ。これから一番お世話になるであろう保健室を最後に回していたら放課後になってしまったのだということ。突然押しかけ、驚かせてしまったなら申し訳ない、と謝罪までしてくれた。
その態度に翔子ははっとさせられた。特異な見た目にばかり気を取られていて、当たり前のことがわかっていなかったのだ。
創作の存在が現実に現れるはずがない。気を取り直し挨拶する翔子。しかしすぐにまた、過去の自分に刺されることとなる。
養護教諭として生徒の人となりを知るべく、それとなく見た目のことについて尋ねたのだが……そこで山田夜夢のスイッチを押してしまった。
「可愛いですよね!これ、けっこー昔のバーチャル配信者のビジュアルをマネてるんです!知ってますか?『山田夜夢』っていうんですけど……」
その名前を聞いた瞬間、再び翔子の表情は固まってしまう。勘違いではなかった、この生徒の見た目は確実に山田夜夢を意識して形成されたものだったのだ。……しかも、話はここで終わらない。
「実はあたしの名前も山田夜夢っていうんです。同姓同名なんですよ!これってすごい運命ですよね!」
言いようのない感情が翔子を襲う。目の前にいるのが生徒でなければ吐いてしまっていただろう。それくらい翔子が受けた衝撃は大きかった。
その後、山田夜夢とどんな話をしたかは覚えていないが、夜夢の話を熱心に頷く良い先生に見えたのだろう。翌日から夜夢は毎日保健室に入り浸るようになった。「お邪魔しまーす……あ、ヤムっちまた来てるんだ」
翔子の回想を破ったのは、保健室の常連、恋多き少女、小林だった。クラスは違えど保健室で顔を合わせることが多く、夜夢とは名前で呼び合うほど仲良くなっていた。
「おはよーさきちゃん。あたしの教室はここだからねー」
「1組でしょ」
翔子の指摘にも動じず、夜夢は「たてまえじょーはそうですね」と笑う。小林もつられてはにかんでいた。ちなみに「夜夢」は登記上は翔子の分身と同じく「ナイトメア」と読むが、長いのでみんなには「やむ」と呼ぶように言っているらしい。そこも翔子の配信時代と同じで、居心地の悪さを感じていた。
夜夢と会ってから、翔子の胸の内には言いようのない不安感が燻っていた。
嫌な予感──とでも言えばいいのだろうか、落ち着かない。彼女がそばにいると、幽霊か死神にでも憑りつかれていると錯覚するほど気が落ち着かない。
最初の数日はそうでもなかった。
転校したての女子生徒。「過去の自分が生み出した姿」ということを除けば、ピンクメッシュの髪も、地雷系メイクも、ただ派手なだけだ。普通の学校なら生活指導の対象だけれど、この学校は校則が緩く、メイクも基本的に自由だった。
そもそも翔子はメイク容認派なので、夜夢の見た目に関しては気にしていない。普通の生徒と同じように接していた。知り合って間もないのに妙に距離感が近いのは気になったが、それも個性の範疇だった。
翔子が気になったのは、夜夢の就学態度だった。
彼女は学校のほとんどを保健室で過ごしていた。
様々な理由で教室に入れない生徒はいるし、それを否定したり揶揄したり、ましてや拒否することは出来ない。する気もない。しかし翔子は、山田夜夢は一般的な所謂「保健室登校」とは違う、何のハンデもない生徒だと確信していた。確かな証拠がある訳ではないが翔子の感覚がそう告げている。
彼女が1組だということも、翔子をそう思わせる要因になっていた。
「ちょうどよかったわ、数学でむずいとこあってさー。ヤムっち教えてよ」
「いいよー」体を起こしベッド上にスペースを作る夜夢。
彼女はすこぶる頭がいい。この学校では進学クラスである1組に、転校生として編入できる程度には。
もちろん勉強が出来る生徒が保健室登校なのはおかしいと言っているわけではないが、他人に勉強を教えられる地頭の良さと、コミュニケーション能力の高さを見ていれば、誰だって疑問に思うことだろう。
違和感はそれだけではない。
「……小林さん塾に行ってるんじゃなかったっけ?そこで聞けばいいじゃない」
翔子の問い掛けに、小林咲は気まずそうにそっぽを向いた。
「あー、うん。……ちょっと最近?行ってなくてー」
「彼氏と気まずいんだっけ?」
「ちょっと!」
慌てて夜夢の口を塞ぐ小林。「違うから!そういうんじゃないから!」と喚く小林を見ながら、翔子は素直に驚いていた。小林の恋愛進捗にではなく、夜夢の人間性に対して、だ。わずか一週間で恋愛相談されるほど仲良くなるのはなかなか難しい。しかも……、
「ごめんごーめん」
「もー、マジでやめてよね」
うっかり口を滑らせたにも関わらず、ふざける程度で済ませている。仲が良いというより、まるで夜夢の行動を全般的に許容しているように見えた。似たような感覚を翔子も感じていて、山田夜夢には不思議な魅力が備わっているのではと考えていた。それはなんとも形容しがたく、胡乱な概念だったが、山田夜夢には他人の興味を惹くような求心力のようなものがあるのだった。もしくは特別な人心掌握術かだが、15歳がそれほどの技術を習得している可能性は低く、やはり山田夜夢の天性のものだろうと思われた。
だからだろうか。夜夢は小林咲以外にも、保健室に訪れる生徒とよく話している。保健室内外を問わず。それは彼女らのやりとりを見れば一目瞭然だった。
「さきちゃん数学苦手って意外だねー」
「二年までは得意だったんだけど、今年から先生変わったじゃん?」
「いや知らんし」
「変わったの。で、今の先生って教えるの下手でさー、なんか頭に入ってこなくって、自分で復習しなくちゃいけないんだ」
「さきちゃん見た目に反してマジメよねー」
「あんたに言われたくねー」
和気藹々と会話する女子中学生たちを横目に、翔子は自分の業務を進める。そして10分も経った頃、小林咲は満足したように頷いて立ちあがった。
「やっぱヤムっち教えるの上手いわー。本当に助かった、ありがと。……じゃあ私帰るね」
「えーもうちょっとお喋りしていこうよー」
保健室はそういう場ではない、と翔子が口を挟むより先に小林が失笑する。
「したいけどショーコちゃんに怒られちゃうからさー。それに帰るって言っても図書室で勉強しなきゃだから、また今度ね」
「絶対ねー」ぶうたれる夜夢に、咲は手を振りながら保健室から出ていった。
足音が遠ざかるのを確認したかのように、夜夢はベッドに倒れ込む。
しばらくの間、なんとなく気まずい空気が漂う。
「……さきちゃん、先生に相談があって来たっぽいですねー」
「そうかもね」それは翔子も感じていたことだった。保健室入った時の反応を見れば、夜夢に用があったわけではないことはすぐに分かる。これから図書室で勉強しようという人間がわざわざ保健室に顔をだす理由は限られてくる。すなわち、養護教諭である翔子に用があったのだ。そしてそれは、おそらく恋愛がらみの相談である可能性が高い。
「あーしまったなー。あたし邪魔でしたよねー?」
意外なことに夜夢は心から申し訳なさそうだった。
「そうね」とは口が裂けても言えない翔子は、はぐらかすしかない。
「気にし過ぎちゃダメよ。タイミングが悪かっただけじゃない」
「そうなんですけどー、さきちゃん先生に相談するって言ってたから、確信犯っぽいじゃないですかー。邪魔したの」
ぽいもなにもそれは確信犯なのだが……夜夢の態度を見るに故意とも思えない。結構抜けている子なのだろうか。翔子は夜夢が他人の機微に敏感なのか鈍感なのかよく分からなくなってきていた。
「……そう思っているなら後で謝っておきなさいね」
「はーい」
それきり会話は終わったが、机に向かう翔子を相変わらず夜夢は眺めていた。流石に我慢できず、今度は翔子の方から話題を振る。
「どうかした?」
「え?んーん、ふふっ……いやいや、ちょっといろいろ考えちゃって」
「なにが?」
「えー秘密ですよー」
明らかに聞いて欲しがっている。翔子が塩対応していた意趣返しなのだろうが、もったいぶる様に正直翔子は苛立っていた。
「そ?じゃあいつか聞かせてね」
「えー嘘です嘘です!そんな怒んないでくださいよー」
夜夢の慌てように流石に大人げなかったか、と自省する翔子。……しかし、彼女が感情を逆撫でされるのには理由があった。何故なら、目の前の山田夜夢はかつて翔子が演じていた『山田夜夢』そっくりなのだから。
声のアクセントや、抑揚、間の取り方などの喋り方や、手や視線の動かし方などのちょっとした仕草まで、バーチャルモデルではあり得ない動きなのに、妙に本人らしく感じられる。……いや、2Dモデルから現実の人間になった分の存在感が、「『山田夜夢』本人より山田夜夢らしい人間」を実現していた。
それが翔子の感に障る。同族嫌悪と言ってもいい。夜夢の一挙手動や声を見聞きするだけで、過去の自分と話しているような気持ち悪さが腹の底から迫り上がってくるのだ。
それが翔子の自意識過剰だということは重々承知している。山田夜夢自身、配信者の山田夜夢が好きで真似しているのは明らかだし、翔子が『山田夜夢』の前世であることは知らないだろ。……知らないはずだ、翔子の容姿は『山田夜夢』とはかけ離れている。歳も違うし、ばれるわけがない。
──けれど、考えてしまう。この子は本当は翔子の正体に気づいていて、突然配信者を引退した当てつけで、こんな格好をしているのではないだろうか?だってそうでも考えないと、納得できない。『山田夜夢』なんておかしな名前の人間が実際に存在していて、同じ格好を装い、本人の前に現れるなんて、とても偶然で片づけられることではない。
絶対に裏がある。……翔子はだから、本能では山田夜夢を遠ざけたいと思いつつ、好奇心では常に山田夜夢を注視していた。
「本当に内緒ですよー?いわゆる"ともだちのはなし"なんですけどー。その子、どうやら彼女がいる男子を好きになっちゃったみたいで、すっごく苦しんでるんですよー。先生ならどういうアドバイスします?」
「………………」
勿体ぶった割に平凡な内容だった。
まあそれは良いとしても"ともだちのはなし"が本当に友達の話なのは珍しい。……いや、良くはないなと翔子は自戒する。小林咲のいない場所で本人の悩みを勝手に話すのは養護教諭という身分を抜きにしても、普通は感心しない。夜夢が「自分の悩み相談」の"てい"をとっているとしても、この話に乗ってはいけないだろう。
「そうねー、私なら……我慢してみようって言うかな」
しかし翔子は夜夢に答えた。
養護教諭に限らず、学校の先生は綺麗ごとだけで仕事をこなしているわけではない。自分の仕事を円滑に処理出来るのならば、ちょっとした嘘を言うし、企みもする。それが例え生徒であっても。翔子はそういう意味で「ちゃんとした大人」だった。
「へー、意外!翔子先生なら『だめでもいいから気持ちを伝えてみたら?それだけで心が楽になるよ』って言うと思ってた」
夜夢が興味深そうに翔子を見つめる。
「うん、それも一つの方法だけど……相手に恋人がいるなら告白することで余計なトラブルが生まれるかもしれないし、思いを伝えて楽になるより心に秘めたまま過ごす方が、心が鍛えられると思うのね。誰しも楽になる方法を選びがちだけど、恋愛って辛いことが大部分を占めてるし、痛みを感じることで心が成長するのも大事だって先生は思うな」
「ほー、なるほどなるほど。そうかなのかな?そうなのかも!」
「山田さんはどう思う?」
うんうん頷いていた夜夢は、翔子に訊かれて嬉しかったのか、胸を張り満面の笑みで答えた。
「その恋人を攻撃しますね」
聞き間違いかと思った。
「……そう、なんだ」衝撃を受け思考は纏まっていなかったが、間を空けてはまずいと反射的に口を動かしていた。
「結構過激なのね、山田さん」
そう言うと山田夜夢は笑みを深めた。最悪だ、きっと翔子のぎこちない笑みを見て笑っているのだろう。まんまと手玉に取られてしまったようだ。
翔子が動揺していることに気づいているはずなのに、それを追求してこないことが逆に不気味だった。
「過激……そうですかね?」小首を傾げる夜夢。自分が可愛いと自覚している仕草だ。
「悔しいじゃないですかー。好きな人が自分の方を向いてないなんて。あたしだったら耐えられないなー」
「でも攻撃するなんて、危ないことはダメよ。法律的にも倫理的にも」
「危ないことなんてしませんよ」
やだなー、と夜夢は笑うが、その目はまったく笑っていないことに翔子は気づいていた。翔子が怪訝な表情をしていることに気づいた夜夢はすっと真顔になる。
「……ただお話するだけです、あたしは」
「お話?」
「はい」
夜夢は立ち上がり、翔子に近づく。
小柄な夜夢は座っている翔子と大して目線が変わらない。
「相手に会って、言葉を交わして、考えてること感じていることを理解して、通じ合うんです。そうして、相手に分かってもらうんです」
「何を?」
「あたしをです。あたしのことを分かってもらえれば、たとえ恋敵だって身を引いてくれます」
暴論だ。どこにそんな根拠があるのだろう。どこからそんな自信が沸いてくるのだろう。夜夢が口にしているのは単なるわがままに過ぎない。……なのに、翔子は夜夢を否定することが出来なかった。彼女の瞳には、自信を超えた、確信めいた輝きがあったからだ。
山田夜夢は心の底から「自分はなんでもできる」と言っている。
「対話による相互理解……。それがあたし、山田夜夢の攻撃なんです」
しかしそれは予想していたことだった。
山田夜夢がそう言うことは、分かっていた。
何故なら、それは翔子が昔『山田夜夢』を通して主張したことだったから。
バーチャル配信者『山田夜夢』は、「傲慢」だった。
そうと決めて設定したわけではない。配信初期は落ち着いていたのだが、配信に慣れるうちに熱が入り、つい物騒な物言いになってしまったのだ。翔子の溢れでるパッションがそのまま『山田夜夢』の人格形成に繋がっていた。
山田夜夢はそれをよく観察し『山田夜夢』を演じきっていた。翔子は直感する。
目の前の山田夜夢は、翔子が『山田夜夢』だったことを知っている。
「……そんなこと本当にできるの?」
そう尋ねると夜夢は目を二、三度しばたたかせたあと「試してみます?」とはにかんだ。その細かい笑い方も『山田夜夢』そっくりで、翔子は内心まったく笑えなかった。
彼女は何故こんなことをしているのだろう?疑問が浮かんだが口にすることは躊躇われた。理由が思い当たらなかったからだ。想像が出来ないものほど怖いものはない。
翔子は、この過去の自分によく似た女の子を気味悪がりながらも、普通の生徒として接することしかできない。それが、この保健室の主としての、養護教諭としての宿命なのだ。
「ううん……遠慮しておくね。山田さんに勝てる気、ぜんぜんしないもの」
「謙虚ですねー、翔子先生。そういうところ大人っぽくって素敵です」
ほころぶように笑う夜夢。いったいどれだけ笑顔のバリエーションがあるのだろう、と翔子は無関心に思った。
「でもいつかお話しましょう。ふかーい話。私、先生としてみたいです」
海洋生物の知識を競うような無邪気さで、夜夢は翔子に話しかける。翔子はその声を聞くたびに心をやすりで削られていくような、強いストレスを感じていた。彼女と過ごす時間を一秒でも早く切り上げたいと思っていた。
だから、よく考えもせずに答えてしまう。
「……いつかね」
翔子がこの時の言葉を後悔するのは、文字通りもう少し後のことになる。
今はまだ気づかない。
「約束ですよ。ぜったい」
夜夢が今日一番の笑顔を浮かべたことにも、翔子は気づいていなかった。
「じゃあ翔子先生、そろそろ帰りますね」
あっけなく背中を向ける夜夢に翔子は「さようなら」と声をかけた。その声は自分でも驚くほど小さく、中学生と会話するだけで疲れている自分が情けなくなった。
大きなため息を吐き椅子にもたれかかる。
それも仕方のないことだ、と自分を慰める。山田夜夢は自分にとって悪魔のような存在なのだ。それとも疫病神か、どちらにしろ自分にとって不利益な存在なのは間違いない。『過去の自分』とは、往々にしてそういうものだ。
窓が暖色に染まっている、クラブ活動も終わろうという時刻だ。今日はもう切り上げて家でゆっくり休もう。そんなことを考えていた翔子だったが、教室の外の気配があることに気づく。
反射的に振り向くと、悪魔が扉の隙間からこちらを覗いていた。
「お客さんですよー、先生」翔子の応答も待たずに、夜夢が扉を開く。
そこにはもう一人生徒が立っていた。
神崎先生と山田さんには本当にお世話になりました。
あんなことになったとしても、それは変わらない事実で、私の気持ちも変わらないと思います。
………………なんですか?……はい、はい。
言わなくても分かることだと思っていたんですが、伝わっていませんでしたか?私は犯罪を容認しているわけではないです。……ですよね、よかった。
山田さんに特異な能力……というか、不思議な魅力があるのは間違いないと思います。でもそれって結局「かっこいい人や可愛い子の頼みごとは断りづらい」程度のことなんじゃないでしょうか?そういう経験ありませんか?少なくとも私は、実際に山田さんと喋っていてそう感じました。
決して催眠術や洗脳のような万能の技術ではない、ということです。もしそうだったらあんなことにはなりませんよね?一番長い時間山田さんと接していた神崎先生が無事だったのが、何よりの証拠です。
……まあ、うちの両親は、なんというか……お恥ずかしながら影響されやすいところがありましたから。はあ、そうですね。宗教とかにはまらないよう気をつけなきゃ……。
ああすみません。何の話でしたっけ?
…………両親を恨んだことは、沢山あります。だって小学生の時から勉強勉強って言われ続けてきたんですよ?憎らしくもなりますよ。そのくせお金はないから塾には行かせてもらえなかったですし。……ええ分かってます。なのに中学から私立に行かせてくれたのは、その分私に期待してくれたからなんですよね。
感謝と好意は必ずしも一致した感情ではない、ということなんでしょう。そう考えれば、私が山田さんに対して抱いてる感情も少しは理解しやすくなります。正直あの子苦手だったんですよ。ルックスというか雰囲気?でしょうか。喋り方も考え方も私とは肌が合わないですね。
それでも相談に乗ってもらったのは、当時の私がそれほど切羽詰まっていたということと、山田さんが優秀な成績だったということが大きいかったです。あの見た目で勉強できるって漫画やドラマの人間ですよ。創作の存在じゃないと卑怯です。
…………コンプレックス。いや、嫉妬ですか。それもありましたが私が感じていたのは「憧れ」に近い感情だったんだと思います。いやいやでもなんでも打ち込んできたものですからね、勉強って。それが出来る人は単純にすごいと思いますよ。
神崎先生も、とても頭がいい方だなと、相談していて思ってました。勉強できるとは違うベクトルで頭がいいですよね。センスがあるっていうのかな?勘が良いというか、私の言ってほしいことを言ってくれるんです。……ああ、それです、観察力。よく見てくれてたんですよね、私たち生徒のことを。ありがたいことです。大げさかもしれませんが、人生で尊敬する人ベスト3には入ると思いますね。
ああいや、1と2は敢えて空けてるんです。まだこの先人生長いですから、もっとすごい人に出会えるかもしれないじゃないですか。
…………確かに、そう言われると気になりますね。生徒のことをよく見ていたはずの神崎先生が、何故山田さんのことを見落としてしまったのか。……謎、ですね。
神崎先生をもってしても山田さんは規格外の人間だったのか、それとも山田さんの行為を敢えて見過ごしていたのか…………え?ああ、それも可能性として考えられますね。
山田さんの蛮行は神崎先生の指示によるものだった。それなら色んな意味で納得できます。
「その後、調子はどうかしら?……津村さん」
保健室の外で待っていたのは津村──先週相談を受けた、授業中に泣き出したという生徒だった。
悩みの内容もよく覚えている。最近勉強が苦痛に感じていて、学校でも家でも机に向かっていると不意に涙が出てくるのだそうだ。
原因はわかっていた。先週聞いた話によると、親の期待が強く一も二もなく勉強をさせようとしてくるらしい。人生における成功は人それぞれだが、「一般的な普通の成功」に関していえば、中高生時代における勉学の重要さが占める割合は非常に高い。まだ中学生なのに……と津村の親の思想を一蹴することはできなかった。翔子は児相でも警察でもない、中学校の教員なのだから。
幸い前回は、津村は悩みを相談しただけでかなり気分が良くなったと言っていた。今日も先週のように内心を吐露するだけで済めばよいが、と翔子は心の隅で感じていた嫌な予感を見て見ぬふりをした。
そういう予感は大抵あたる。
「…………」
津村は保健室に入ってきてからずっと顔を伏せたままで、翔子が話しかけても返事をしなかった。しかし翔子は急かすことなく、辛抱強く津村の反応を待った。
やがて、すっかり日が落ちた頃……突然津村が泣きだした。
翔子は慌てることなく津村の背中を撫でる。
「……すみません、せっ……せんせい。わたし……わた、ひっ……」
「大丈夫。落ち着いて……ゆっくりでいいから」
翔子の囁きに促されたように、津村は涙交じりに語り出した。
先週の相談で一時的に気持ちは楽になったが、この一週間でまた勉強が苦痛に感じ始めたこと。それどころか以前より勉強に対する拒否反応が強くなっていること。そのせいで親に叱られることが多くなったこと。勉強のことを考えるだけで気持ち悪くなり、昼休みに吐いてしまったこと。
勉強をする場である教室が嫌になり……さりとて家に帰れば親に詰められる。行き場を失った彼女は保健室に向かったが、何故か入ることができず、廊下で立ち竦んでいたらしい。それが夜夢に見つかり、無理やり中へ引っ張り込まれたのだ。ちなみに夜夢は既に下校しているが、実はまだ廊下にいて津村の話をきいているのではないか、と根拠もなく翔子は確信していた。
話を聞いただけで、津村の症状は翔子にどうこう出来るものではないということは明白だった。心療内科を勧めるべきだろうが……しかしそんなことを弱っている生徒に伝えられるはずもない。
「もうだめなんです。単語も年号も覚えられなくて、完璧に覚えたはずのも頭からすっぽり抜け落ちるみたいに忘れちゃって……。計算も上手く出来ないんです。方程式だけじゃなくて簡単な掛け算も時間が掛かっちゃって……自分がどんどん馬鹿になっているみたいで、怖いんです。私、なんだか小学生に逆戻りしているみたい」
逆戻りという言葉に、翔子の脳裏に一瞬夜夢の姿が浮かんだが、すぐに振り払う。津村が感じている恐怖は相当のものだと思われた。自分が培ってきた知識や経験が消失する──頭の中から記憶が抜け落ちる感覚というものは、想像するだけで恐ろしい。とても15歳の少女に耐えられるものではない。
細心の注意を払って言葉をかけなければならない。
「……津村さんは、勉強嫌い?」
「好きな人なんているんですか?」
「いるのよ、実はここに」
睨むような津村の視線を翔子は笑顔で受け止める。
「私ね、小さい頃から勉強が好きだったの。勉強というよりは……物事を知ったり、謎を解いたりする感覚が好きだったのね。分からないことが分かるって、素敵じゃない?」
それは本当だった。しかし根本的な動機は別のところにある。勉強することで、いつか母が自分を捨てた理由について理解することができるんじゃないか……幼い頃の翔子は純粋で淡い希望を抱いていたのだ。
歳を重ねることで論理的にも感情的にも納得のいく答えにたどり着いてはいたが、答え合わせが出来るわけでもなし、結局それは謎のまま翔子の胸に埋まったままだ。
「だから津村さんの感覚とは違うけど少しはわかるんだ。勉強しているのに逆に自分の中の知識や能力が減っていくような感覚。津村さんは私が感じた何倍も、いま苦しんでるのね」
翔子はプロの心療内科ではない。津村の苦痛の根本を取り除くことはできないだろう。だから、今は自分が出来ることを──相手に共感し苦痛を和らげることが、翔子の仕事だ。
津村は涙をにじませ、赤くなった鼻を啜った。
「そういうとき、神崎先生はどうしてたんですか?」
「さー、どうだったかなー?なんせもう何十年も昔のことだし」
わざとらしくおどけて見せると、配慮に気づいた津村も笑ってくれた。
「ふふ、まあ……私はそれでも続けてたなー。好きっていうのもそうだけど、勉強が必要なことだったから」
「ひつ、よう……?」
翔子はうなずく。
「津村さんはどうして勉強しているの?」疑問には答えず、逆に翔子は津村に問い掛ける。津村はしばらく黙って考えたあと、おずおずと唇を開いた。
「……親に言われているから、です」
「そうなの?大事よね。親の期待に応えるって……私は親がいないから、そういう気持ち羨ましい」
気まずそうに視線を泳がせる津村に、翔子は笑ってフォローする。
「だからこれは想像でしかないけど、親の期待に応えられないことってすごく辛いことなんじゃないかしら?」
「……っ!そ、れは……」言い淀んだあと、津村は静かに「そうかもしれません」とつぶやいた。
「そうなのね……」
翔子は津村の背中を撫でる。されるがままの津村の背中は、うさぎのように丸まっていた。また、しばらくの沈黙が流れる。次に口を開いたのは翔子からだった。
「さっきは返事を聞けなかったけど、気になるからもう一度訊くね?津村さんは、勉強するの好き?」
「……好きか嫌いかで言えば、たぶん好き、です」
「そうなんだ。でも、好きなことなのにやっていると辛くなるのよね」
「はい。おかしいですよね?……こんなの」
「いいえ、おかしくはないわ。好きなことなのに、やっていると辛くなるって、全然おかしくない」
「そうなんですか?」
津村の言葉にうなずきながら、翔子は昔のことを思い出していた。
『山田夜夢』として配信していたあの日々。有名になったことで自分の言葉が曲解されたり良いように利用されたりした、あの日々。翔子は好きなことをやっていた。言いたいことを喧伝した。けれどそれは、正しい形でみんなに伝わっていかなかった。あの時感じた屈辱と無力感は、一生忘れないだろう。その想いを、声に乗せる。
「人の心は、体とは少し違っていてね。好きなことをやっていても疲れたり傷を負ったりするの。津村さんは今、そんな状態なんじゃないかしら?」
「……だったらどうしたらいいんですか?やったら駄目なら、わたし、なにもできないじゃないですか」
「それでいいのよ」
「え?」津村がぽかんと口を開ける。
「それでいいの。何もしなくていい。勉強を、一回自分から離してみましょ?」
呆然とする津村。翔子が何を言っているのか理解できていないようだった。
「そ……それじゃあ何も解決しないです」
「そうかしら?大事なことよ、好きなものから一度距離を置いてみるのも。遠くからじゃないと見えないこと、分からないこともあるものだから」
考えるように視線を泳がせる津村に、翔子が「これは恋愛にも言えることだけど、距離を置きすぎると自然消滅するから気をつけてね」と冗談めかして付け加えると、口元だけで笑ってくれた。翔子も安心したように微笑む。
「……でも、親が許してくれません。多分」
「その時は私が親御さんを説得してあげる」
養護教諭にそんな権利はないが担任に話を通せば犯罪にはならないだろう。
翔子は自分が大胆なことを口にしていることに少し驚いていた。過去の幻影の影響かもしれない。
「ね?どうかしら、勉強から距離を置いてみたら?大丈夫よ、津村さん成績良いんだから、ちょっとの遅れぐらいすぐに追いつけるわ」
「そう……ですかね?」
「そうよー。それにやっぱり、津村さんが元気なのが一番だもの」
津村はまだ釈然としない様子だったが、翔子に促されしぶしぶとだがうなずいてくれた。
「もう遅いから送っていくわ」
翔子の言葉に津村は遠慮する素振りを見せなかった。外はすっかり暗くなっていたからだろう。
帰り支度を済ませ廊下を出ると、歩いてくる二つの影があった。それが誰なのかはすぐに分かる。
「あっ翔子先生、こんばんナイト〜★」
「……山田さん」翔子は思わずこめかみをおさえていた。
帰ったはずの夜夢がなんでこんな時間まで学校にいるのか。
翔子が追求する前に、隣にいた男が口を開いた。
「神崎先生、遅くまでお疲れ様です」
年齢に不釣り合いなほど丁寧に頭を下げたその男は、学校に勤めている川村という用務員だ。翔子も数えるほどしか面識がなかったが、翔子が配属される前から学校に勤めている、ある意味では先輩といえる。
「川村さんお疲れ様です。……もしかして山田さんがなにか?」
「いえいえ、なにかっていうほどのもんじゃないんですよ。用務員室で休んでいましたら、この子が『友達の用事が終わるまで匿って欲しい』ってやってきましてね。巡回の時間までお喋りしてたんです」
「……生徒がご迷惑をおかけして申し訳ありません」
翔子が頭を下げると川村は慌てて手をふった。
「迷惑だなんてそんな、うちは孫が遠くに住んでまして、あまり話せないんです。子供と長い時間話せて嬉しかったですよ。本当にお気になさらず」
では、と川村は巡回に戻っていった。
「またねー川村さん」
遠ざかる用務員の背中に手を振る夜夢を横目で睨むが、彼女は無邪気に小首を傾げるだけだった。
結局翔子は、津村と夜夢、二人共を送る羽目になった。
驚いたのは、夜夢と津村が他愛ない会話をする程度には親しいことだった。車内での会話を聞いていればそれが分かる。驚いたことはもう一つあって、夜夢は助手席には座りにこなかった。……まあ、津村が降りてからは当然のように助手席にきたのだけれど。
「やっぱりあたしがいた方がスムーズでしたよね?ね!」
津村家から出発した後の第一声がそれだった。悔しいがそれは事実だった。
クラブ活動もしていない女子中学生が遅くまで学校で何をしていたのか?本当に学校にいたのか?保護者としては心配だろう。それも職員に送られたとなれば、変に誤解するケースもある。
夜夢が同乗していたことにより「成績の良い転校生に勉強を教えてもらっていた」という捏造されたストーリーに説得力が増し、津村の親御さんにも信じてもらえたようだった。正直夜夢の見た目が不良判定されることも危惧していたが、それは翔子の杞憂だったようだ。
「そうね、それは感謝してる。……けどね、きみも中学生なんだから、こんな時間まで学校に残ってちゃだめでしょ?」
「里美ちゃんが心配でぇ……」
嘘だ、と思った。けれどそれを証明する証拠がないし、意味がない。翔子はそれ以上追求しないと決めた。ちなみに里美とは、津村の名前だ。
「……そう。その気持ちは大事だけど、自分のことも大事にしてね」
暗に用務員室に押しかけたことを注意するが、夜夢は気づいていないのか気づいていないふりなのか「はーい」と無関心な返事をした。
しばらく会話のない時間が続いた。夜夢は流れていく夜の街並みを眺めている。翔子は夜夢の存在に圧迫されつつ、運転に集中するようつとめた。何個めかの信号で、外を眺めながら夜夢が呟いた。
「……翔子先生は、里美ちゃんをどうするつもりなんですか?」
「どう……って?やることはやるつもりよ」すぐに返事ができたのは、訊かれるだろうと予想していたから。
翔子は横断歩道を渡る人々を眺める。会社帰りと思しき大人たちの中に、夜夢のような子供の姿も見える。
「津村さんが安心して登校できるように、悩みを聞いてあげるのが私の仕事だもの」
「でもそれ、根本的な解決になってないですよね?」
「それは……」養護教諭の仕事ではない、とは口が裂けても言えなかった。正論ではあるが、無責任だし不義理な言葉だと思ったからだ。
翔子が言葉に詰まっているうちに、信号は青に変わる。車はゆっくりと動きだす。
「できませんよねー、保健室の先生だったら。学校外で親の説得するなんてありえないですもん」
痛い所をつかれた。しかしそれ以上に驚いたのは、夜夢が津村の問題は親に原因がある、と認識していたことだ。
津村里美があそこまで追い詰められたのは、親が里美に勉強を強要していることにある。
それは間違いないが、詳細はもっと複雑で……里美は親が好きなのだ。
一般的な子供であれば追い詰められればたとえ親であろうと反抗する。それが発端となって子と親の間で認識の擦り合わせがなされ、互いの悪い点が露わになり、解決のきっかけになる。しかし里美は親を純粋に愛しているから期待に応えようとするし、期待に応えられないことに絶望する。好きな人に叱責されることに、大きなストレスを感じる。
好意と罪悪感の板挟み……いや、三方から重圧を感じている。
「でもそれが普通だと思います。先生みたいないい大人が正義の味方?みたいな?感情で動いちゃったら、この世は犯罪者だらけですよ」
「そうね、情けない話だけど……」
「なんで先生が謝るんですか?悪いのは世間の方ですよ!」
「それは」飛躍し過ぎだと諌めるより早く、夜夢が言葉を続ける。
「そうですよね?現行法は社会を運営するために必要なルールであって、必ずしも根源的な倫理観を維持するために存在するものじゃないです。……むしろ、何も知らない、出来ない、本当の弱者ほど被害を受けるようになってるんです。そんなの子供だって知ってますよ」
翔子は何も言い返すことができなかった。それどころか集中しなければ運転が困難なほど、動揺していた。
山田夜夢の言い様があまりにも『山田夜夢』で、まるで自分の魂が引き抜かれたように感じたからだ。
「……大袈裟よ、津村さんの件はそんなに大騒ぎするほどのことじゃないわ。親御さんと話せばちゃんとわかってくれる」
「でも『それ』が先生にはできないんですよね?担任の先生だって、翔子先生に頼まれたら美里ちゃんの家にいくでしょうけど、家庭の事情だからほっといて!で終わりですよ、きっと」
そこまで言うと、夜夢は唐突に口を閉じた。
翔子は珍しく……というより、初めて夜夢が不機嫌そうにしているのを見た。その様子ももちろん『山田夜夢』の仕草にそっくりだったが、何故だか新鮮な気持ちにさせられた。夜夢本来の感情が垣間見えたからかもしれない。よく考えれば、この妖しい魅力を持った少女と出会ってまだ一週間しか経ってないのだ。『山田夜夢』のことを除けばほとんど知らない。
沈黙は夜の街を抜け、夜夢が指定した建物の前まで続いた。繁華街の外れにある、数年前に完成したばかりの高層マンションだった。
「ありがとうございました、翔子先生」
囁くように呟いて夜夢が車を降りる。振り返ることなく、小さな背中が遠ざかっていく。
また明日と言えなかったなと遅まきながらに気づいた翔子は、気を取り直し前を見据えハンドルを握る。その時窓ガラスが叩かれた。驚いて振り返ると夜夢が立っていた。
「翔子先生」窓を開けてやると、開口一番夜夢は翔子の名前を呼んだ。夜闇のせいだろうか、その笑顔は年齢にそぐわない妖艶なものに見えた。
「ちょっと嘘つきました。里美ちゃんが心配だってのは本当だけど、一番の目的は先生とドライブすることだったんです。……それだけです。じゃあ、また明日」
気まずそうにぺろりと舌を出してから頭を下げると(その仕草も『山田夜夢』に似ていた)今度こそ夜夢は去っていった。
夜夢の姿が完全に建物に消えたのを確認してから、翔子は軽く息をつき、引っ掻くようにハンドルを撫でた。「……軽だけどね」
シフトレバーをDに入れ、車が緩やかに進みだす。
翌朝、爽やかな青空に比べて翔子の気持ちは曇っていた。津村の担任に何と説明しようか遅くまで考えていたせいだ。
ことは急を要する、しかし説明の仕方を間違えれば、余計な手間を増やしてしまうかもしれない。
養護教諭とは教師でもなく医者でもない、そしてどちらでもある、不思議な役職だ。その立場は学校によっても違うのだろうが、翔子の勤めている中学校に限っていえば強いとはいえない。
生徒に対するメンタルヘルスを充分に理解していない教師は多いし、保健室の先生は風邪と怪我の対応だけしていれば良いと考えている教師も少なくない。別の学校の出来事だが、翔子が生徒のメンタル面を心配した際、あからさまに鬱陶しそうな態度をとった教師もいた。
津村のことは、だから気をつけなければならない。導入を間違えて、担任から余計な反感を買ってしまうことは避けなければならないのだ。
翔子は職員の朝会が終わった直後、授業の準備を始める前に、津村の担任に声をかけた。
「田山先生、少しだけお時間よろしいでしょうか?先生の組の津村さんのことなんですが……」
教師の一日は時間との戦いだ。誰だって一秒たりとも無駄にしたくない。しかし、このタイミングを逃せば昼休みまで時間はないし、昼休みだって翔子も田山も暇があるとは言い難い。話しかけるには今しかないのだ。
不機嫌な対応をされたらどうしよう──翔子の胸の内に不安が広まるなか、田山が振り向いた。
「あー、神崎先生!昨日は本当にありがとうございました!」
その顔は上機嫌だった。
翔子は思わず眉を寄せる。
「……え、ええっと。なんのことでしょう?」
「津村のことですよ。先生が親御さんに話してくれたんでしょう?」
「……は?」
思わず間抜けな声が口から出ていた。田山は置いてきぼりの翔子から視線を外し、授業の準備をしながら話を続ける。
「朝会前に電話がありましたよ、津村の母親から。朝一に何かと身構えましたが、すごく感謝されました」
「感謝……ですか?」
「ええ、津村と山田……一組の山田夜夢が、昨日遅くまで残って勉強してたんですよね?それで神崎先生が家まで送ってくれたとか」
「そう、ですね……。確かにそうです」
そこまでは津村の親に話した内容と相違ない。問題はその後だ。
「そこで先生が親御さんを説得したそうじゃないですか。津村が勉強の進み具合で悩んでいること、親御さんの期待がプレッシャーになっていること。このままだと体を壊し受験はおろか進学すらできないおそれがある……と、いやー、話を聞いて驚きました。まさか神崎先生がそんな大胆な行動をとる方だったとは。……いや嫌味ではないんです。普段のイメージと違って熱血系だったもので、少々驚いてるんですよ」
くつくつと笑う田山は茶化しているわけではなく、本当に感心しているようだった。
「まあとにかく、神崎先生の話に親御さんは非常に感銘を受けたようです。娘のことについて考えを押し付け過ぎていたと、電話口で泣くほどですからね……。私も教師生活は長いですが、今日みたいな電話は初めてもらいました。いろんな意味で驚きましたね……おっと、すみません先生、時間が押してるのでお先に失礼します。先生ほど生徒のことを考えている養護教諭がいれば、私たちも安心して授業ができますよ。本当にありがとうございました」
最後の方は早口でまくし立てた田山は、呆然とする翔子を気にもかけず職員室を出ていった。
気づけばほとんどの教師が職員室からいなくなっていた。翔子もおぼつかない足取りで保健室へと向かう。
そこには、おそらく登校してから保健室へ直行したのであろう夜夢が待っていた。いつも通り、保健室登校の生徒がよく使う手前のベッドに腰掛けて、裸足をぱたぱたさせている。
「あ、先生。こんばんナイト〜★」
「……おはよう山田さん」
朝なのに夜の挨拶を使っているのは夜夢がおかしいからではない、『山田夜夢』の挨拶がそれしかなかったからだ。特にこだわりがあったわけではないが、翔子の配信は夜にしかしてなかった。自然と挨拶も「こんばんは」になる。
「先生って今日、お忙しいですかー?暇ならあたしとおしゃべりしましょーよー」
「山田さん、津村さんのお家に行った?昨日、あの後に」
夜夢の言葉を遮り問いかけると、夜夢は一瞬きょとんと呆けてから、にんまりと笑った。
「いきましたよー。美里ちゃんのお母さんとお話しました。……あ、大丈夫ですよ。ちゃんとタクシー使ったんで安全でした」
そういうことを言っているのではない、と叫びそうになるのを堪え、翔子は平静を装う。
「その配慮は大事だと思うけど、そもそも夜遅くに一人で出歩くのは感心しないわね。……ううん、話が逸れたわ。山田さん、津村さんのお家に行って何をしたの?」
「だから、お話しただけですよ」
「お話?」
「言ったじゃないですかぁ。それが私の攻撃だって」夜夢は大仰な動作でベッドから飛び降りる。
「里美ちゃんのお父さんとお母さんとお話ししたんです。まあ一方的に質問したんですけど。なんで里美ちゃんに勉強させようとするのかー、とか。最初はお二人も困惑気味でしたけど、まあ相手は子供ですから……根気よく聞いたら答えてくれましたよ」
なんでもないことのように、夜夢は語る。
「お二人は昔お勉強で苦労したのか、みょーに勉強を神聖視しているみたいでした。いや妄信っていうのかな?とにかく勉強だけやっておけば人生ぜんぶ上手くいく……って感じで、美里ちゃんを顧みることもせず勉強を強いていたんです」
人差し指を指示棒のように振るい、芝居がかった口調で夜夢は喋り続ける。まるで先生と生徒の立場が逆転したみたいだ、と翔子は思った。
「メンタルヘルスに対する理解がなかったんですね。勉強さえしていればいいと思っている人にありがちですけど、社会生活に必要な教養を持ち合わせてなかったんです。だから、あのままほうっておいたら美里ちゃんは完全に病んでました。翔子先生がどれだけ励ましてもそれは変わらなかったと思います。……だって、原因が家の中にいるんですもん」
だから津村の両親を脅迫したというのか?里美の心の健康のために、夜夢が言葉の暴力で両親を攻撃した、と?翔子の背中に悪寒が走る。
どんな言葉を並べたかは知らないが夜夢なら「やりそうだ」と思ったからだ。正確には『山田夜夢』のキャラクター像と一致していたから……。
「何を言ったの?いったいどんな言葉を……」
「別になにも特別なことは言ってませんよー?ほんとうに、ただお話ししただけです」
翔子と夜夢とでは、現状に対する認識に温度差があった。
「子供が言葉で大人をコントロールしている」という事実を翔子は重大な事件として受けとめていたが、夜夢はなんてことない本屋で万引きするようなスリルのための儀式と見ているようだった。
そんなことは許されるはずがない。たとえ今は上手くいっていたとしても、いずれは大きなしっぺ返しを食らうことになる。先生として、大人としてこの子供を止めなければならない。
「……あ、なーんか勘違いしてるみたいですけど、別に脅したり泣き落とししたわけじゃないですよ?」
しかし、責任意識に駆られた翔子の出鼻をくじくように、夜夢ははにかんだ。
「あー!その顔はマジで私が里美ちゃんの両親を恐喝したと思っていましたね?心外だなー、失礼しちゃう」
「……っ、でも、それじゃあどうやって津村さんの両親を説得したの?」
「それは……うーん、説明しづらいなー。あ、じゃあ秘密ってことにしておきましょう。おんなのこは謎がいっぱいなんです!……先生だってそうでしょ?」
そう言われ言葉に詰まった翔子を、夜夢は駄々っ子を慈しむような表情で見つめる。
「まあいいじゃないですか、先生の手柄になったんだから」
その言葉に翔子の時間が止まった。
ほんの数秒だが、本当にすべてが静止した。
「………………え?」
「なに驚いてるんですか?もっと喜んでくださいよー。生徒が先生のために一肌脱いだんですよ?」
意味を理解するのに数秒を要した。理解すると体の表面に電撃が走るような錯覚があった。翔子は困惑する。
「私の……ため?」
「そうですよー。あたし『保健室の神崎先生が説得してくれた』ってことにしといてくださいって、ちゃんと言いましたもん」
眩暈がした。歪む視界の中で、それでも夜夢は笑っている。生徒が自分のために他人を拐かしたと宣っている。……これは、悪夢なんじゃないだろうか?
翔子は現実逃避しそうになったが、ここですべてを投げ出してしまえば、目の前の女子がなにをするか分かったものではない。逃げ出すことは許されなかった。
しかし翔子にそんな責任があるのだろうか?ただの保健室の先生で、夜夢に何かした覚えもないのに。
「……なんでそんなことしたの?」
故に翔子は訊かずにはいられなかった。
「それも秘密です。恥ずかしいので!」
それでも夜夢は応えない。やはり彼女は、彼女自身の独特な空気感の中で生きているようだった。
「……でも少しだけなら、教えてあげてもいいかなー?」
勿体ぶりながら夜夢は翔子に顔を近づけてくる。小柄な彼女が精一杯背伸びをしているのだと考えると、翔子に少しだけ現実感が戻ってきた。しかしそれも、夜夢の言葉ですぐに遠ざかる。
「翔子先生、あたしはね……本物の『山田夜夢』になりたいんです」
「ありがとうございました、神崎先生」
「どういたしまして。今日はシャワーにしといてね」
「はーい」
膝を擦りむいた生徒が、包帯を巻いた脚を庇いながら保健室を出ていった。女子校といえど運動が好きな子は多い。クラブ活動時間になると、こういう生徒は増える。反対に、授業中に保健室にいるような生徒は早々に帰ってしまい、放課後特有の静けさが目立った。……もちろん例外はいるが。
「ショーコちゃん、お邪魔しまーす」
「翔子先生こんばんナイト~★」
小林咲と山田夜夢が保健室に用があるとは思えない陽気さで現れた。
「いらっしゃい……今日はどうしたの?」
「え、なに?ショーコちゃん塩くない?生理?」
「違うわよ。今日なんだか忙しくてね……怪我する人が多くて」
「あー、みんな気合入ってるよねー。じゃあまた明日にするよ」
あっさり引き返そうとする小林に翔子は違和感を覚えた。
「なに?相談事なら聞くわよ?」
「あー…………いい、いい、明日で、大した話じゃないから。ヤムっちにもちょくちょく聞いてもらってることだし」
小林が視線を向けると、夜夢が誇らしげに胸をはる。夜夢に相談しているということは例の恋愛話だろうか、と翔子はあたりをつけた。いや小林の反応を見るに、悩み相談ではなく惚気話の可能性もある。
「そう?別に明日じゃなくいつでも来ていいからね?」
「はーい。じゃあ翔子ちゃんさよならー」
「翔子先生また明日」
「気をつけて帰ってねー」
そう声をかけて二人の女子生徒の背中を見送る翔子。廊下から聞こえてくる「あっその前に用務員室寄ってっていい?用務員さんに本貸してるんだよねー」「ヤムっちってジジ専なの?」「そんなんじゃないわい!」賑やかな声が遠ざかるのを確認してから、翔子は救急箱の整理を始めた。
津村里美の一件から数週間が経過していた。
翔子は、夜夢が口にした「本物の『山田夜夢』になりたい」という言葉の意味を、あれからずっと考えていた。
本物の『山田夜夢』とは?架空の人物を持ち出して本物になるとは?
どういう意味なのだろうと疑問に思っていたが、夜夢の最近の行動を見ていると、なんとなくだが彼女のやりたいことがわかってきた。
夜夢は学校中の生徒の悩みを片っ端から聞いているようだった。ようだった……と断定できないのは、翔子が実際にその現場を目撃したのが数件しかないからだ。しかし、一匹いたらなんとやら、他の生徒から聞いてみると、翔子の目が届かぬところで夜夢が悩み相談を受けているのは確からしい。
そして夜夢の相談を終えた生徒はすべからく事態が好転していた。学業やクラブ活動、親友達などの人間関係においても大抵の悩みは解決しているらしい。
例えばさっき手当てした生徒もそうだ。
もともとソフトボールに興味はなく、親に言われてやっていただけで楽しくもなんともなかったそうだが、「友達」に相談したことで競技に対する姿勢が変わったのだという。今はソフトボールをすることが楽しくて仕方ないそうだ。その結果、怪我してしまうほどプレイが前のめりになってしまうのは注意が必要だが、それを差し引いても客観的に見ればよいことだといえる。
本人はその「友達」が誰かは教えてくれなかったが、十中八九夜夢のことだろうと翔子はにらんでいた。他にもそういう事例は耳に入っている。その中には職員もいるのだから、夜夢の能力には、まったく驚きというほかない。
そんなに多くの人間の悩みを聞いて、夜夢は何がしたいのか。
翔子は初め、悩みを聞いて他人の弱みを握ることが目的なのだと思っていたが、すぐにそれを否定した。悩みなのだから解決しては意味がない。夜夢の行動は悩みを「聞くこと」よりも「解決すること」に重みを置いているように思える。
では何がしたいのか──翔子の頭に暗いイメージが浮かんでくる。
夜夢は、学校という悩み多き人間が大勢いる場所で自分の話術や人心掌握術を実験しているのではないだろうか。もともと自分の才能や魅力に気づいていた夜夢が、実際の人間相手にどれだけ成果を出せるか試しているのだ。
翔子は勝手に納得する。それならしっくりくる。
夜夢は本物の『山田夜夢』になりたいと言っていた。言葉によって誰かを救う、確かにそれは翔子が望んだ『山田夜夢』の理想の姿だ。配信でそれを語ったことはなかったが、『山田夜夢』を心から愛していると自称する夜夢が、過去の配信から翔子の真意を汲み取っていたのなら……。そしてそれを自らの理想としていたのなら、今の夜夢の行動にも説明がつく。
夜夢は翔子が成し得なかった『山田夜夢』になろうとしている。
もし翔子の予想通りだったなら……素直に言えば嫉妬してしまう。過去の自分が出来なかったことを、同じ年齢で似た容姿の人物が成し遂げようというのだ。成熟した人間であろうと少しは思うところがある。
しかも、調べた限り夜夢はネットでの活動をしていないようだった。SNSのアカウントは出会った初日に登録させられたが、それは一般的な中高生女子の利用の範疇を出ず、動画サイトを経由しての配信活動はしていない。念の為『山田夜夢』で検索してみても、『山田夜夢』本人以外の活動記録は見当たらなかった。
ネットの強みは多くの人間に認知してもらえることで、皆が当たり前のように、情報の頒布方法として優先的に利用している。しかし個人に影響を与えるという点では、会って直接話すという方法に勝つことは出来ない。夜夢は後者によって多くの人間の悩みを解決している。ある意味では『山田夜夢』よりよほど有益な活動といえる。だから翔子は悔しいのかもしれない、成果を出している夜夢のことが。
救急箱を定位置に戻しながら考える。
翔子が望んだ理想の姿に──彼女ならなれるのだろうか?
……分からない。けれど、翔子が見る限り夜夢の活動は実を結んでいるように見える。少なくとも、現時点では。
やり方は多少強引にも思えるが、それをカバーできる能力が夜夢にはある。津村だってあの後、数日休んでから何事もなかったかのように通学しているし、勉強に対する距離感や親との関係も良好らしい。夜夢が何度か津村の家に遊び行ったと言っていたから、おそらくそのおかげだろう。
若い才能に嫉妬しつつも、翔子の夜夢に対する感情には、期待が多分に含まれていた。願わくば翔子が求めた理想の姿がこの目で見られますように──と。
しかし物事はそうそう都合よく進まない。それは翔子も身に染みて理解していたことだったが、目を逸らしたいことでもあったため無意識に忘れようとしていた。
人は皆、他人の言葉を自分に都合の良いように受け止める。翔子の目の前に現れたのは、そういう悲劇だった。
翌日、「明日相談する」と言っていた小林咲は、保健室に現れなかった。
生徒と先生
空を覆った黒い雲から浅い雨が降り、景色は灰がかって気を滅入らせる……そんな日だった。
翔子は小林咲の家に来ていた。
小林咲はこの数日理由のない欠席が続いており、心配になった担任が話を聞こうとしても本人は話したくないといい、親も言葉を濁していた。しかし咲が翔子なら話してもいいと言ったため、こうして一人で訪れたのだった。
個人の家にしては広い駐車場に車を停め、小走りで玄関に入った翔子を迎えたのは咲の母親だった。咲の自室に向かう前に居間に通され、温かいお茶が差し出される。咲と話す前に親にも話を聞いておきたかった翔子は、これ幸いと母親に質問をする。……が、母親は困ったように言葉を濁すばかりだった。娘に対し無関心なのだろうか、と翔子は訝しんだが、様子を見る限りそういう感じでもない。どうやら娘に配慮し、敢えて話さないようだった。
翔子の腹の底に重い物がたまっていく感覚があった。
気合を入れるようにお茶を飲み干した翔子は「娘さんと話させてください」と席から立ちあがった。
「咲さん、神崎です。入ってもいいかしら?」
「……ショーコちゃん?いいよ!はいってはいって」
返事はすぐに聞こえてきた。思ったより明るい声に、翔子はひとまず安堵する。
「失礼します」断りを入れてから部屋に入ると、部屋着姿の咲が待っていた。メイクをしてないぶん顔色が悪く見えたが、やつれているようなことはなく、立ち振る舞いもいつもの彼女と変わらない。
急を要するような事態ではない、と翔子は判断する。
「うわー、何日か会ってないだけなのにめっちゃ久しぶりな感じするー。ね?……あ、すわってすわって」
「そうね、小林さんがいないと保健室が静かで寂しかったわ」
「マジでー?えー、そういうこと言ってくれるのうれしいなー」
咲に促され翔子はベッドに腰掛ける。咲も翔子の隣に腰を下ろした。
「本当よ?何日も顔出さなくて心配したんだから」
「あー、それね。ごめんごめんちょっと体調崩してて」
気まずそうに目を逸らす咲。翔子は表情の翳りを見逃さなかった。やはり何かあったのだと確信する。しかし素直に話してくれるだろうか。ここは定石通り遠回しに聞いてみるのがいいだろう。そこまで考えて、翔子は気づく。
違う、逆だ。小林咲は喋りたがっている。身内以外の誰かに悩みを打ち明けたがっている。でなければ、わざわざ翔子を名指しで呼ぶわけがない。
翔子は咲をまっすぐ見つめ、いつもと違いストレートに質問した。
「小林さん、何があったの?」
小林咲の目が見開かれる。そこには真剣な表情をした翔子が写っていた。
翔子が消える。目を伏せた咲は、つま先を擦り合わせもじもじしている。怖気付いているのではなく、言葉を選んでいるのだということが、翔子にはわかった。
「あーうん……」やがて、覚悟を決めた咲の喉がなる。
「あかちゃんおろしたんだ」
翔子は目眩を起こしそうになった。軋むほど歯を食い縛らなければ、そのままベッドに倒れ込んでいただろう。
翔子は胆力でもって貧血にも似た虚脱感を跳ね除け、なんとか口を開く。
「そう、なのね」
「ショーコちゃん怖い顔してるー」
茶化す咲の声はいつも通りに聞こえた。
「……でもショーコちゃんが怒るのも無理ないよね。わたしバカなことしたもん」
「バカじゃないわ」
「バカなことなんかじゃない」翔子は強い口調で繰り返した。
咲の瞳に再び翔子の姿が映る。しばらくの間、二人共言葉を発さなかった。視線でのみ語り、外から聞こえる雨音以外に沈黙を邪魔する者はなかった。
数秒か、数分が経った頃、咲が「……ありがとう」と小さく呟いた。
それから小林咲はぽつぽつと語り始めた。
塾の講師の大学生に恋をしたこと。
想いを伝えたが振られてしまい、それでも諦められなかったこと。
肉体関係をもったこと。
子供ができたこと。
子供ができたことを大学生に伝えても、彼は振り向いてくれなかったこと。
どうすればいいか分からず、ずっと一人で悩んでいたこと。
……それらを聞いて、翔子は自責の念に駆られずにはいられなかった。
どうして気づいてあげられなかったのか。思えば一ヶ月前のあの時から、咲の様子はおかしかった。未成年での結婚なんて言い出した時点で、妊娠の可能性を怪しむべきだったのに、翔子の勝手に妄信的な恋心だと決めつけた。あの時にはもう、咲のお腹の中には命が宿っていたのだ。
それを話せずにいた先の不安はどれほどのものだったろう?相談しようとしてくれていたのに、翔子は咲の声に気づけず、傷を増やしてしまった。養護教諭として失格だ。
……しかし、ふさぎ込むんでいる暇はない。隣には傷付いた生徒がいるのだ。それを放っておけば、翔子は本当に無能になってしまう。自分を責めるのは誰もいない時に一人でやればいいのだ。今は生徒のことだけを考えよう。
そう自分に言い聞かせた翔子は、動揺が声に現れないよう努めて冷静に喋った。
「よく決断したね。偉いわ」
「ううん、わたしはぜんぜん偉くないよ。病院にいく直前まで迷ってたもん」
「迷って当然よ、難しいことだもの。……やっぱりお母さんに説得されて?」
「それもあるけど……、先生ならいいかな。実はね、ヤムっちに相談しておろすことにしたんだ」
さっきとは違う種類の悪寒が、翔子の背中を這い上ってきた。
「……山田さんが?」
「うん。いろいろ言われたよー、叱られたりもした。ヤムっちって普段ふにゃふにゃしてるけど、怒るときはちゃんと怒るんだね」
「……どんなこと、言われたの?」
「えー秘密だよー。……まー、言える範囲でならわたしの体が心配だーとか、赤ちゃんが無事に生まれてくるかはわからないーとか、あと……そうだ、ここで人生決めちゃっていいの?とか……」
咲の声はだんだん弱々しくなっていた。当時の状況を思い出しているのかもしれない。もしくは自分の感情を。
「きついこと言われたけど、そういうほうが友達って感じでいいよね。間違いを間違いだって指摘してくるほうがさ……」
間違い、という言葉が翔子は妙に引っかかった。確かに15歳にして妊娠することは間違いなのだろう。産むとしたらなおさら。大抵の人間が反対するだろうし、おそらく翔子も反対したかもしれない。15歳で出産するより、中絶した方が咲の人生は明るいはずだ。……けれど、だ。
「咲さんは産みたかったの?赤ちゃん」
咲の意思はどうだったのか、それにより話は大きく変わってくる。
「……え?」
翔子の言葉に、咲は大きく目を見開いている。責められるのが当たり前で、そんな質問をされるとは思っていなかったみたいに。
「そんなの……わかんないよ。だってこの歳で子供なんか産めないし、赤ちゃんの育て方とかわかんないし」
「うん」
「自分の体が壊れちゃうかもしれないって言われたし、学校とかもいけないかもって……」
「うん」
「それから……それから……」
「うん」
咲の言葉はどんどんと小さくなっていき、ぽつぽつ呟くような声になった。それは外から聞こえてくる雨音にも似ていた。
咲の頬に一筋の涙が走ったのを、翔子は見た。
「わたし、産みたかったのかなあ?」
翔子は咲の手を握る。
「それはこれから考えていきましょう。一緒に」
咲はそれ以上泣くことなく、静かに正面を見据えていた。
咲の部屋を出た後、翔子はもう一度母親と話をした。細かい状況を把握し、学校に報告する必要があったためだ。
小林咲と関係を持った男性──例の大学生は、既に塾を辞めている。これは咲の話にもあったが、中学生を孕ませたと知って怖くなり、電話で辞めることを伝えたらしい。しかし事態を知った咲の父親が警察に通報し、間もなく逮捕となった。学校に報せが来なかったのは咲に配慮してのことだという。
本来であれば学校にも文句を言いたかったらしい父親は、仕事で不在している。中学生の娘が孕んだのだ。教育環境について親が怒るのはもっともだし、翔子はそれを甘んじて受けるつもりだったが、同時にほっとしていた。
咲にはちゃんとした親がいるのだ。娘の心情に配慮できて、かつ声を上げることの出来る真っ当な親が。翔子はそれを少し羨ましく思った。
家から出る時、雨はやんでいた。
車に乗る前になんとなく家を見上げると、窓からこちらを見降ろしている咲と目があった。悪戯がばれた時のように笑う小林咲に笑い返し、翔子は車に乗り込んだ。
そうして誰も見ていない空間で、翔子はドアを殴りつけた。
「翔子先生、こんばんナイト~★」
その日珍しく夜夢は授業に出ていて、保健室に来たのは放課後になってからだった。彼女の来訪を待っていた翔子にとっては長い一日だった。
「山田さん」真っすぐベッドに向かう夜夢に声をかける。
「はい?」夜夢は不思議そうに振り返った。
「小林さんに何を言ったの?」
まずはそれを確かめなくてはならない。翔子の胸の内では、すぐにでも夜夢を怒鳴りつけたい衝動が沸き立っていたが、それは教師が……大人がすることではない。あくまで双方の意見を聞いて判断しなければ、翔子がいる意味がないのだ。
小林咲の言葉を疑うわけではなかったが、翔子は夜夢の口から否定の言葉が出てくることを祈った。しかしその祈りは呆気なく裏切られる。
「咲ちゃんですか?……あー、もしかしてアレですかね。赤ちゃんは産まない方がいいよってゆったやつ」
夜夢の返事を聞いた途端に視界の全てが凍り付いたように色を失った。
人間、一定値以上に感情が高ぶると逆に冷静になることがある。今の翔子の状態がそれで、荒れ狂う感情の奔流に反し思考は正常に働いていた。
「そう、そんなこと言ったのね。理由を聞いていいかしら?山田さんなりにちゃんとした根拠があるんでしょう?」
「そりゃーもちろんありますよ」
翔子の問い掛けに失笑した夜夢は、いつも通りベッドに腰かけ言葉を続ける。
「咲ちゃんがいいお母さんになれるわけないじゃないですかー。真面目ですけど破滅願望のある子なんで、ぜったい育児も上手くできませんよ。産んだって赤ちゃんが不幸になるだけです。それなら産まない方がいいでしょう?それに15歳の妊娠出産なんてリスクしかないじゃないですし、赤ちゃんだけならともかく、咲ちゃんまで危ない目にあうのは違いますよね?……まあ後はシングルマザーがどれだけ生きづらいかーとか、パパのことはどう説明するのー?とか、いろいろ話しましたけど、おおむねそんな感じですね」
得意げに講釈する夜夢を、翔子は無感情に眺めていた。むしろ夜夢の言葉に動揺していない自分に気づき、驚いたくらいだ。
「……そう、それで、小林さんは納得してた?」
「なっとく?」夜夢は小首をかしげてから「そういうんじゃないです」と頭を横にふった。
翔子は訝しむように眉をひそめた。
「そういうんじゃない?」
「はい、咲ちゃんの納得とか関係ないです。あきらかに間違ったことですもん、中学生が出産するなんて。文字通り子供が子供を育てるってことですよ?破綻するのは目に見えてるじゃないですか。それに納得を求める必要はありません。……というか、咲ちゃんも反対はしてなかったですし、そもそも納得してなかったら中絶なんてしませんよね?」
「じゃあ本人に確認はしてないのね?」
「する必要がないんですって、だって中学生ですよ?」ああ、そうか──翔子は理解する。
「……山田さんは結局、そういう人なのね」
「そういう人?」今度は夜夢が眉をひそめた。
「そういう人って、どういうことですか?」
翔子はすぐには返事をせず、どうすれば夜夢を──目の前の無邪気な悪意を効率的に揺さぶれるかを考えた。夜夢には自分の言葉で人を傷つけたことを理解させねばならない。たとえそれで夜夢が傷ついたとしても、構わない。先生として痛みを教えるのも役目だと、翔子は納得していた。
その言葉にはすぐに行き着いた。簡単なことだ、夜夢が絶対的に信じているものを否定すればいい。
「あなたは『山田夜夢』じゃないってこと」
夜夢の瞳が大きく見開かれる。
だって『山田夜夢』は私だから、とは翔子は言わなかった。翔子が伝えたかったのはそういうことじゃないから。
「……なんですかそれ。あたしは山田夜夢ですよ。それがあたしの名前で、あたしそのものです」
「名前はそうね。……でも山田さん、山田夜夢さん。あなたがなりたいのは昔いた配信者の『山田夜夢』よね?この前言っていた通り、あなたは自分の存在ごと『山田夜夢』になりたいんだわ」
「……そうです。あたしは『山田夜夢』になりたい。可愛くてかっこよくて、不幸な子供たちがいなくなるように社会を変えるって……大きな目標を持ってる、そんな存在になりたいんです」
夜夢はあさっさり認めた。しかし剣呑な空気は緩まず、むしろ煙が立ち上るように夜夢の周りにゆらめいているようだった。
「でもそれが何か問題ですか?架空の存在になりたいって、そんなに非難されるようなことでしょうか?」
「そういうことじゃないの。……私ね、気になったから『山田夜夢』の動画を何度も見たわ、全部ね。多分山田さんより見てるんじゃないかしら?それで気づいたことがあるの」
翔子はそう前置きしてから、夜夢の反応をうかがう。夜夢は困惑するような、けれど嬉しそうな複雑な表情をしていた。
「『山田夜夢』はね、確かに合理主義的なところはあったし、それに関しては過激なことを言ったりもしていた。でもね、彼女の根本にあるのは誰かを救いたいっていう善意なのよ」
「あたしもそうですよ。咲ちゃんを救いたかったんです」
「救えてないわ」
翔子が素早く反論すると、気圧されたのか夜夢は言葉につまる。
「小林さんは泣いてた。言葉じゃこれでいいって言っていても、頭でどれだけ納得しようとしても、彼女の気持ちは決まっていたの。小林さんは産みたかったのよ。15歳でも、シングルマザーになろうとも」
「それは詭弁です。先生の勝手な決めつけですよ。だって、咲ちゃんは言ってませんよね?"産みたかった"って。だったら言葉にしていないことを、先生が都合の良いように汲み取ってるだけですよ。妄想でしかないです」
「……そうね、言ってないわ。本人もどっちが正しかったのか、まだ迷っているみたいだった」
「ほらー」
「でもね」勝ち誇らんばかりに微笑む夜夢を、翔子は静かに見据える。
「それこそ、それは私たち外野が決めることじゃないわ。確かに私の言ったことは、私の妄想かもしれない。小林さんは、少なくとも現時点では"産みたかった"とは言っていない。……でも、彼女は"おろしたかった"とも言っていないの。ねえ?そうなんじゃないかしら山田さん。小林さんは一言でもあなたに"おろしたい"と言ったの?」
夜夢は言葉に詰まる。
翔子にはその反応だけで充分だった。
「山田さん。あなたは確かに『山田夜夢』に似ている。見た目もそうだし、喋り方もそっくりで人を引き付ける話術も持っているわ。おまけに同性同名だし、運命的な何かを感じてしまうのは仕方のないことだと思う。……でもね、あなたがやっているのは『山田夜夢』が望んでいることとは違うの。彼女は自分の考えを広めることで共感してくれる人を増やし、知識を伝え"その人が弱者にならない"よう願っていた。社会が良くなるのは、その結果に過ぎないわ。……でもあなたは自分の能力を効率よく使って人を操ることしか考えていない。そして、無暗に傷つけている。しかもそれを社会にとっていいことだと都合よく解釈し、その人の気持ちを蔑ろにしている」
思い返せば津村の時もそうだった。津村の両親は確かに子供に厳しく当たっていたが、津村里美本人に無理強いさせられているという認識はなかった。彼女は親の希望に答えようと必死で、その結果心を病んだのだ。夜夢がした『説得』により親は娘に介入しなくなったが、それは目に見える『期待』がなくなったともいえる。期待に応える必要がなくなった津村里美は、その後どうしているだろうか?考えが及ばなかったことに翔子は歯がみする。
他にも似たような生徒が居るかもしれない。気づかぬうちに被害をこうむった生徒が……。
翔子は夜夢の目を見つめ、諭すように叱るようにゆっくりと言葉をつづる。
「もう一度言うわ。山田さん、あなたは『山田夜夢』にはなれない。どれだけ真似をしようとしても、それはあなたが貴方の内側で作った贋物の『山田夜夢』よ」
そこまで言い切ると、翔子は大きく息を吸った。喋ることに夢中で息を忘れるなんて、『山田夜夢』の初配信の時以来だった。
肩で息をしたいくらいに苦しかったが、しかしここで夜夢に弱い面を見せてはいけない気がして、翔子は平気なふりをした。当の夜夢は涼しい顔をしている。
いや、涼しいを通り越して寒気すら感じるほどに、夜夢の顔は白かった。どんな感情も読み取れない脳面のように冷たい表情だった。
翔子は山田夜夢が初めて見せる表情を──もちろん『山田夜夢』にはない表情を目にし、思わず喉の奥から小さな悲鳴が漏れでてしまう。
翔子の悲鳴に夜夢は反応しなかった。
それどころか、あらゆる事象を拒絶するように、夜夢は翔子を直視し続けている。
「どうして?」その唇が動いた。最小限の動作で。
「どうしてそんなこというの?わたしは『やまだやむ』なのに……」
まるで幼児のような、舌足らずな喋り方だった。
困惑する翔子を置き去りにして夜夢は喋り続ける。
「わたしは……『やまだやむ』はみんなをすくうひとなのに……どうして」
腹話術の人形のように口をひらく夜夢に、翔子は気づくものがあった。彼女はまっすぐ翔子を見ているようで、焦点があっていない。視線は翔子に向いていたが虚空を眺めているような目だった。
「どうしてわたしがまちがっているみたいにいうの」
「山田さん……?」
「……どうして」
呼びかけにも応じず喋り続ける夜夢を流石に心配に思った翔子は、肩を揺さぶろうと手を伸ばす。
その時だった──
「先生!」
声に振り返ると、体操着姿の生徒が扉に手をかけ立っていた。
女子は翔子の知らない顔だったが相当慌てている様子で、息の隙間に必死で意思を伝えようとしてきた。
「ソフト部の……子がっ……はぁ、はぁ……。うっ……た、倒れましたぁっ!」
翔子が保健室に戻った時、既に夜夢の姿はなかった。
まあ流石に帰ったかと翔子はどこか安堵したように息をはく。
倒れた生徒を介抱し救急車で病院まで随伴した後、家族に引き渡すまで翔子は生徒に付き添っていたのだ。気づけば外は暗く、校内には深い闇が潜り込んでいる。
むしろずっと保健室で待っていられた方が困っただろう。そんなことを思いながら、翔子は帰り支度をはじめる。
倒れた生徒は最近頻繁に保健室を利用していたソフトボール部の女子だった。
倒れたといっても眩暈や疲労などではなく、遠くに飛んだボールを無理に取ろうとして姿勢を崩し、頭を打ちつけて意識を失ったらしい。
それは周りも慌てるだろう。翔子が駆けつけた時には意識は戻っていたし問題なく会話もできたが、打ちどころを考え、既に呼ばれていた救急車を利用し病院で診てもらうことになった。
MRIを終えた後の女子の様子を翔子は思い出す。
彼女は終始申し訳なさそうにしていた。少ししか言葉を交わせなかったが、自分のせいで多くの人間を心配させたこと、自分が傷つくことに無頓着過ぎたことなどを翔子に話してくれた。ソフトボールに打ち込むことに夢中になりすぎて周りが見えていなかった、とも。
それだけわかっていれば大丈夫だと翔子は思っていたし、実際に口に出し慰めた。女子の母親が泣きながら病院に駆け込んできた時は、自分の言葉すら不要だったなとすら思った。
世の中いろんな親がいるものだ。25年間生き、養護教諭になったお陰で様々な親を見てきた翔子は、つくづくそう思う。思い知らされる。
世の中に「型にはまった親子などいない」ということ。
そして「翔子の親は人間ではなく畜生だった」ということ。
性善説を信じたい人の気持ちはよくわかるが……実際にいるのだ、悪人は。
どうしようもないクズが、自分のことを悪とも思っていない悪が。……でも、だからといってそれを肯定したくない自分がいるのも事実だった。
それは親だけではなく子供にも当てはまる。
翔子は夜夢の顔を思い浮かべる。記憶の大半が色々な笑顔で埋まっていたが、今日見た「無表情」があまりにも衝撃的で、目をつぶると詳細に想像できた。夜夢がやっていること、やったことは法律上は何の刑罰にもあたらないが、倫理観のみでいえば「悪」である。言葉で人を操る、などという行為は。
しかし夜夢はまだ中学生だ。未熟な子供だ。善悪の区別はつくかもしれないが、それ以前に好奇心で行動している可能性が高い。それにあの言葉──
「わたしは『やまだやむ』なのに……」
あの言葉が翔子はどうにも引っかかった。
夜夢にはまだ翔子に見せていない一面があるに違いない。それを知ってからでなくては、十分な指導は……話し合いは出来ないと思っていた。
その為にも、明日は夜夢ともう一度向き合わなければならない。
帰り支度を終えた翔子は意気軒高に保健室を出る……が、扉を開けたところで体が動かなくなった。
校内は暗い。保健室の明かりを消してしまったら闇の中に放り込まれるのだと想像すると、闇を恐れる人間の本能が外に出ることを躊躇わせた。
その時、廊下の奥から光が向かって来ることに気づいた。
「神崎先生、遅くまでお疲れ様です」
用務員の川村だった。巡回の時間なのだろう、懐中電灯であたりを照らしている。事情を話すと川村は「正門までお送りしますよ」と言ってくれた。翔子は最初戸惑ったが、行為を無碍にするのも失礼な気がして提案にのった。
「お仕事中なのにすみません」
「とんでもないですよ、先生方の安全を守るのも、私らのしごとのうちですから」
はっはっはと快活に笑う用務員だったが、すぐに笑みは引っこみ不可解そうに眉をよせる。
「そういえば夜夢ちゃんに聞きましたよ。神崎先生と喧嘩したってね」
老人が「夜夢ちゃん」と呼ぶこと(おそらく夜夢がそう呼ぶよう強要したのだろうが)に妙な面白さを感じつつ、翔子の頭には疑念がうずまいていた。夜夢のあの表情を見た翔子からすれば、今日のやり取りが他人に喋れるほど軽い出来事だったとは思えなかったからだ。
「ええ、そうなんです。お恥ずかしい話ですが。……山田さんは他に何かいってましたか?」
「ああー、どうでしたかね……。ああそうだ、神崎先生が他の生徒ばっかりかまって自分を見てくれない、とも言ってましたね。女性同士でもあるんですかね、ヤキモチって」
さっきよりも豪快に笑う用務員に対し、翔子は思わずこめかみをおさえていた。
「かさねがさね申し訳ありません。その様子だと、山田さんは長い時間入り浸っていたのでは?」
「いや、いや、本当に気にせんでください。私もね、孫と話す時間が増えて本当に嬉しいんですよ」
用務員がイチ生徒を「孫」と呼んでいることに翔子は違和感を覚えたが、指摘するのも野暮な気がして放っておくことにした。
老人とはいえ暗闇の中で男性と歩いていることに、無意識に警戒心が働いていたのかもしれない。空気を壊すようなことを言いたくなかったのだ。
しかし結論から言うと、その違和感は正しかった。
それに気づくのは翔子が無事に車まで送られ、何事もなく家に帰りシャワーを浴びて就寝したあと……新しい日が昇ったさらに一週間後のことになる。
一週間夜夢は保健室に姿を見せなかった。
それどころか登校すらしなかった。
神崎先生と夜夢ちゃん……山田さんは、突き詰めてしまえば先生と生徒の関係でしかなかったんだと、私は思います。
決して心の距離が遠いわけではありむせん。むしろ身内や友人に対して良好でなくてはならない人間関係を考えなくていい分、距離は近かったんだと思います。
私ですか?神崎先生とは適切な距離感をとっていたと自負しています。むしろ、交流は極端に少なかったでしょう。普通の用務員は仕事以外で先生と話すこともないですからね。山田さんは……いや、すみません。
適切な距離で接していた、とはとてもいえません。不甲斐ないことです。
断っておきますが、私に小児性愛的な趣味嗜好があるという事実はありません。私が山田さんに抱いていた感情は、誤解なく申し上げます、孫に対する祖父のそれと同様のものです。
……はい、あの学校には5年勤めました。5年、そんなに長い間よくしてもらったのに、恩を仇で返す形になってしまいまことに申し訳なく思っています。自分がしたことでどれほど学校が被害を受けたか……想像してもしきれません。本当になんと言ってよいのか……私にはただただ、頭を下げることしかできません。
自分の犯した過ちに気づいてからよく考えるんですよ。自分はいつからおかしくなったのか……。
何かのきっかけがあったわけではありません。最初は不思議に思ったものです。女子校ですから、用務員室に入り浸る生徒は珍しい……いや皆無と言ってよいでしょう。しかも積極的に話しかけてくる。嬉しいもんですよ、子供から話しかけられるのは。
今思えば最初からそういうつもりだったんでしょうね。私を利用したかったわけです。……ええ、それを知っても私は後悔していません。私の犯した罪を罪と認め、甘んじて受け止めました。
言い訳してるわけじゃないんです。ただ、彼女の役に立ちたかったんですね。その気持ちは今も否定できません。
……そうですね、実在の孫より山田さんは大切な存在でした。少なくとも当時は、ですが。本当に、いつの間に彼女の存在が大きくなっていたのか……私には見当もつかないんですよ。気づけば私は彼女になんでもしてあげたいと思っていた。不思議ですよねえ。あれがメンタリズムというやつなんでしょうか。
山田さんは実際にそういう知識があったのですか?
……ええ?なるほど。では、彼女の生まれ持った能力ということになるんですね。それはそれで恐ろしいことです。自分でコントロールできないということでしょう?単なる暴力と武術の違いですよ。自分にさえ制御できない力は、他人を不幸にします。しかし訓練された技術なら、他人を助けることができる。私のような人間が良い例でしょう。いえ決して被害者づらするわけではないですが。
……ああはい、あの夜のことですね。……あの、その前に一つお聞きしてもよろしいでしょうか?
結局、神崎先生は山田さんを撃ったんですか?
その朝、職員室では緊急の職員会議が開かれた。
有名な進学校が授業を潰してまで何を話すのか、と翔子は訝しんだが、その内容は火急を要するものだった。
用務員さんが警察官に襲いかかったらしい。
らしい……とは、容疑者が否認しているから断言できないだけで、状況的には明らかで交番の監視カメラにはっきりと映っていたそうだ。
それだけならまだよかったが、問題はその後で、容疑者は警察官から拳銃を奪い、しばらくの時間逃走したというのだ。もちろん拳銃は見つかっていない。
容疑者──用務員は拳銃の居所について黙秘を貫いている。
最悪だった。
学校の職員が警察官に襲い掛かったというだけでも保護者や世間から非難される事柄なのに、所在不明の拳銃を生み出し地域を不安にさせるなんて、学校は相当のダメージを負うことだろう。
しかし翔子は別のことが気になっていた。
生徒達のこと──ではない。いや確かにそれも気になっていたし、心配だった。学校で日頃から近くいた人間が犯罪をおかしたのだ、ショックを受けるのは当然だろうし、不安がる子供も出てくるだろう。しかも銃はただ奪われたわけではなく「所在不明」なのだ。もし今回の事件が用務員単独で起こしたものでなく、仲間がいたり指示を出している者がいた場合、生徒に危険が及ぶ可能性もゼロではない。
そう、翔子が考えていたのはまさにそれだった。
翔子は拳銃の行方を知っていた。
保健室には誰もいなかった。
もしかしたら夜夢が来ているかもしれないと覚悟していただけに、無人であることを確認して翔子は肩を落とした。
拳銃は夜夢が持っている。
翔子はそう確信していた。
根拠はない。強いて言うなら、夜夢の人となりと、その彼女が用務員室に入り浸っていたことが、今回の警察官襲撃と結びついたのだ。夜夢が用務員に洗脳めいた説得をし警察官から銃を奪わせた。翔子はそう睨んでいる。
用務員は拳銃を隠したり紛失したのではなく、逃走中に夜夢へ渡したのであれば、未だ見つかっていないことにも説明がつく。
しかし疑問が浮かぶ。夜夢は拳銃なんか手に入れて何がしたいのだろう?
翔子の知る限り、夜夢は確かに残酷な嗜好の持ち主ではあるが、決して暴力を好むような人間ではない。見込み違いといわれればそれまでだが、咲の話をした時に少なからずショックを受けていたようだし、人を傷つけることに快感を覚えるタイプではないのは確かだ。それとも、それも見落としているものの中に含まれているのだろうか?翔子の中で悩み事が増えていく。
ただでさえ今日は事件への対応で激務が確定しているのに、拳銃を持っているかもしれない夜夢のことまで考えなくていけないのは流石に頭が痛くなる。警察に報告した方がいいのだろうが、翔子の考えは論理的根拠が薄いことも自覚している。警察が納得して夜夢を探してくれるよう上手く説明しなくてはならない。
さてどうしようか、と翔子が机に向かおうとした時、メモが置いてあることに気づいた。それ自体は翔子がいつも使っているもので、なんの変哲もないシールタイプのメモ用紙だったが、翔子が目を引きつけられたのはメモの上に乗っている小石のような物体だった。小粒のグミのような形状だが、金属製なのか妙に存在感のある物体だった。
それが拳銃の弾であると理解するのに数秒要した。
翔子はわずかに躊躇したあと、弾を手に取り観察する。映画なんかでよく見る拳銃の弾だ。見た目の小ささに反し重量感があり、これなら人を殺せるであろうという潜在的な説得力がある。
メモには文章はおろか意味の成立する単語すら書いていなかった。そこに書いてあったのは「1/6」という数字と記号だけだ。一瞬だけ日付のことかと勘違いしたが、夜夢が拳銃を持っていることを確信していた翔子はメモの意味を正しく理解していた。
翔子が戦慄するのを待っていたかのように、突然スピーカーが呻き声をあげた。校内放送用に全室に取り付けられたものだ。
次いで、同じく校内放送用のモニターが点灯する。
黒く光る画面を注視していると画面が切り替わり、一人の少女が映し出された。
"あれ?これついてる?見えてる?もしもーし、聞こえてますかー?……あ、ついてるっぽいね"
ピンクメッシュの入った黒髪を二つ結びにし、目元の濃いメイクと悪魔の羽の鞄を背負ったその少女は、翔子もよく知る人物──山田夜夢だった。
放送室らしき部屋にいる、ということは、この放送は全校に流れているのだろう。
"こんばんナイト~★、山田夜夢でーす"
"……うわめっちゃ緊張するー。変な感じだね"
言葉とは裏腹に夜夢の声は柔らかく、いつも通りに喋っている。いつも通り、不思議な魅力を発する笑顔を浮かべている。
"えー、生徒のみなさん、先生のみなさん、突然ですが、今日は皆さんとゲームがしたくて放送室から呼びかけています"
夜夢の思考に先回りした翔子の脳が警鐘を鳴らす。
山田さん、それ以上言ってはいけない。
"ルールは単純、逃げてください。鬼ごっこです。鬼はもちろんこの私、山田夜夢がつとめます"
画面の中の夜夢が背中の鞄から拳銃を取りだした。その瞬間、校内の空気が硬直したように翔子には感じられた。息を呑む翔子の耳にクラスのざわめきや悲鳴が聞こえてくるようだった。
"あたしは学校の中で皆さんを探します。皆さんは逃げてください。学校の外に逃げてもいいですし、学校の中に隠れていてもいいです。期限は……そうですね"
そこで夜夢は拳銃を一瞥し、弾数を確認するような仕草をとった。
"弾を撃ち尽くしたらにしましょうか。それまでに誰か一人でも人が死んだら、私の勝ちです。反対に誰も死なずに銃弾を撃ち尽くしたら皆さんの勝ちです。それなら簡単ですよね?"
夜夢は可愛らしく小首を傾げてから、銃口をカメラに……モニターを見ているすべての人間に向ける。
"もう一度いいます、逃げてください。もしあたしに捕まったら……"
そしてゆっくりと引き金をひいた。
"こうなります"
画面がブラックアウトすると同時に、遠くから炸裂音が響いた。夜夢が発砲したのは明らかだった。
間を置いて、学校中から悲鳴や人々が慌ただしく動き回る音が聞こえてくる。混沌と化した校内で、しかし翔子は驚くほど冷静だった。
翔子は掌の中にある銃弾を見降ろす。それは夜夢から翔子へのメッセージ、ゲームを終わらせるための最後の一発、夜夢から翔子への招待状。
夜夢は翔子に「会いにこい」と言っている。
1時間後、事態はひとまず落ち着いていた。
夜夢の発砲放送の当初は災害でも起きたように皆が混乱し、我先にと校舎外へ逃げようとする生徒たちのおかげで怪我人が出たりもしたが、夜夢に見つかり発砲された者は生徒・職員を含めて確認されなかった。少なくとも職員が把握出来た範囲では……。
大人である職員ならともかく、中学生が適切な行動をとれるとは限らない。
周囲の騒ぎにパニックを起こし、体が動かず教室で息を潜めている生徒もいるだろう。校舎から無事に出られた生徒も、職員の指示が聞こえなかったり無視して帰ったパターンがある。結果的に、学校側が安否確認出来た生徒は9割程度だった。
夜夢もその中にいる。
校舎外に出てきたのではない。校舎外に逃走した者から、校舎内にいるところを目撃されたのだ。夜夢は放送での宣言通りゲームを行っている。今のところ、一人で。
校舎外へ避難し点呼を受けた生徒は、駆けつけた警察の指示に従い帰宅を命じられ、職員は全員聴取を受けている。翔子もその中にいた。夜夢のパーソナルについて詳しく聞かれたが、最低限のことだけを話し、バーチャル配信者の『山田夜夢』に憧れていることや、用務員を唆し拳銃を入手したことなどは伏せた。もちろん銃弾のことも。
マスコミのヘリが辺りを飛んでいる。緊迫した表情の警察官、疲れ切った顔の教師陣、恐怖より好奇心に支配され帰らない生徒たち、近隣の野次馬。人生で一度あるかどうかもわからない非日常。異様な雰囲気に包まれ、騒然とする学校の周囲とは反対に、校舎は沈黙を貫いていた。
あの灰白い箱の中で夜夢はなにを思っているのだろうか。
翔子は無意識に胸ポケットにしまった銃弾を握りしめていた。
布越しでも手に感じる固さ、重さ、存在感は、銃弾だけのものではない。翔子が掴んでいるのは、夜夢に対する責任だった。
大人としての責任、教育者としての責任、夜夢を叱った責任、夜夢を理解できなかった責任……そして、『山田夜夢』を生み出した責任。
様々の責任が、翔子の中で暴れている。
このまま待っていれば事態は収束するだろう。学校は包囲されている。いくら夜夢が拳銃を持っていても、完全武装した大勢の警察相手では無力に等しい。夜夢はあっけなく捕まり、異常な子供としてメディアに取り上げられ散々分析されて……そこで終わる。
流石に実名は公表されないだろうが人の口に戸は立てられない。学校を巻き込んでいるのだ。生徒や近隣住民の口から、間もなく夜夢の名前は全国果ては全世界に知れ渡るだろう。情報が氾濫する現代ではこんなニュース数日で忘れ去られてしまうが……しかし一度広まった悪評は消えることはない。
夜夢はこれから一生「拳銃で人を脅かし学校を占拠した」という事実を背負って過ごさなければならない。他人に後ろ指をさされ、進学も就職も絶望的、ただ生きているだけの人生を送ることになる。犯罪をおかすということはそういうことなのだ。
彼女はそれでいいのだろうか?翔子は校舎を睨むように見据える。
それでいいのだ、一般的には。
罪を犯した者には相応の罰が与えられる。罪を犯した夜夢(子供)に待っているのは、暗い人生を歩く義務。何もおかしくはない。
それに、銃を手にした子供が学校を占拠している……なんて、養護教諭一人がどうこう出来る問題ではない。
では何故、翔子はまだ銃弾を持っているのだろうか。
翔子は自問する。
こんなものさっさと警察に渡してしまえばいい。持っていても余計な誤解を生むだけだし、下手すれば翔子が容疑者になる可能性もある。持っていて損をすることはあっても得になることはなにもない。
そもそも何故夜夢は翔子に銃弾を預けたのだろうか。夜夢が説明したゲームでは、銃弾を打ち尽くしたら夜夢の負けだと言っていた。ならば銃弾は夜夢にとってライフポイントのようなもので、他人に渡す道理がない。……いや、逆なのかもしれない。「打ち尽くすこと」がゲームの終わりならば、翔子がこれを持っていると「打ち尽くすこと」ができない。夜夢が手持ちの弾を消費しても、翔子の手許に弾が存在する限りゲームはずっと続くことになる。
……それが狙いなのかもしれない。つまりこれはゲームなどではなく、夜夢の思惑に気づいた翔子を校舎に引き戻す為の、大掛かりな舞台装置なのだ。夜夢と翔子が一対一で邂逅することが、彼女の望みなのだ。
「でもいつかお話しましょう。ふかーい話。あたし、先生としてみたいです」
いつだったか、夜夢が言っていたことを翔子は思いだす。
「約束ですよ。ぜったい」
翔子は夜夢とちゃんと話したことがあっただろうか。
冷静に思い返してみれば夜夢を警戒し、観察し、分析するばかりで、想いを通わせようとしたことはなかったと思う。あの見た目のせいだ。夜夢が『山田夜夢』の姿をしているせいで、向き合うことを避けていた。誰だって嫌なものだ、過去の自分と向き合う、なんてことは。
それも言い訳だなと翔子は自戒する。
翔子は生徒から逃げた。それだけの話だ。
大人は、逃げた分責任を果たさなければならない。それが翔子にとっては今だというだけの話だ。
翔子は大きなため息を吐き、覚悟を決めるように白衣を着なおした。
「すみません」
翔子は近くにいた警官に話しかける。
警官は最初威圧的な表情で振り返ったが、相手が女性だとわかるとすぐに表情をやわらげた。
「どうかしましたか?」
「学校に勤める養護教諭の神崎というものです。山田さん……校舎に立てこもっている生徒のことでお話ししたいことがありまして。少々お時間いただけませんか?」
「わかりました、お聞きしましょう」
「……いえ、プライベートな内容ですので、いくら犯罪をおかした人間といっても子供の権利は守ってあげたいんです。できればここではなく、あちらでお話させていただけませんか?」
翔子は視線でグラウンドの外れに建てられたテントを示した。おそらくあれが対策本部なのだろう。
警官は一瞬鋭い目つきになり「少々お待ちください」と手で制してから、無線で話しはじめた。交信はすぐに終わり警官が翔子に向きなおる。
「大丈夫だそうです。どうぞこちらに」
促され翔子は警官の後ろを歩く。
「ありがとうございます。……すみません、うちの生徒が大変なことをしてしまったのにわがままを聞いていただいて」
「いえいえ、私たちもなるべく穏便に解決したいので生徒さんの情報が増えるのは助かります。説得に使えるかもしれない」
翔子に振り向きにこやかな笑顔を向ける警察官。──その頭が再び前を向く瞬間を、翔子は見逃さなかった。
校舎に向かって走りだす。グラウンドを最短距離で、まっすぐに。
まさかこの状況で校舎に向かう人間がいるとは思っていなかったのだろう、翔子の背中に警官の怒号が追いついたのは、あと半分で玄関にたどり着くというところだった。
全力疾走なんて何年振りだろう、頭の片隅にそんな思いが浮かんだその時、まばゆい光が翔子の目を掠めた。思わずそちらを見ると──太陽を反射する窓ガラス……その向こうに人影があった。
山夜夢だ。
三階の教室にいる──と理解した瞬間、視界が回った。
体が重力と地面に翻弄され思考はぐるぐると掻き乱され、そこに痛みと衝撃が加わる。
グラウンドと歩道面の境で転んだのだ、と分かったのは、起きあがろうと手をついてからだった。
しかし深く考える前に体は動いていた。ここで警官に追いつかれるわけにはいかない。痺れる足を動かして再び走りだす……が、翔子はバランスの悪さが気になった。
見るとヒールが片方脱げている。
迷うことなく翔子はもう片方のヒールを脱ぎ捨て、校舎に駆け込んだ。
正門に入り肩で息をしていた翔子は、辺りが異様に静かなことが気になった。
振り返る。警官は追ってきていない、正門から離れたところで何やら叫んでいる。きっと「戻りなさい」とか「危ないぞ」と言っているのだろうが、翔子はそれを無視し歩きはじめる。
廊下の冷たさが足裏に心地よかった。落ち着いてきたからか、だんだんと体の熱が……痛みが気になりだした。アスファルトで転んだせいで派手に足を擦りむいてる。傷は深くなさそうだが破れたストッキングは痛々しい。見ると白衣にも血がついていて、一見すると重症者のようだ。
保健室に寄って着替えようか……浮かんだ思考を翔子は振り払う。そんな時間はない。翔子が勝手に校舎へ入ったことで警察は状況が危険な方向にむかっていると判断するかもしれない。犯人──夜夢を説得するフェイズを省略し機動隊が突入すれば、翔子の出番などなく夜夢は捕らえられてしまうだろう。
今この時にも突入の判断が下されているかもしれないのだ。翔子は夜夢と対話する時間を一秒でも削られたくなかった。
それに──転ぶ直前の景色を思い出す。窓越しに目が合った夜夢は笑っていた。久しぶりに見る彼女の笑顔だった──翔子自身が一刻も早く夜夢に会いたかった。
夜夢のいる場所はわかっていた。
転ぶ直前にそこに立っているのを確認したし、その前から保健室で話したいならこれほど大仰な段取りは必要ないはずだと、翔子はいくつかあたりをつけていた……。
三年一組、すなわち夜夢が所属する教室。
翔子はその扉を躊躇することなく開く。
あ、翔子先生!こんばんナイト~★
予想していたはずの台詞は、しかし聞こえてこなかった。
けれど夜夢はちゃんとそこにいた。
窓側の一番奥の席に座り、頬杖を突きながら外を眺めている。その様子があまりにも普段の彼女──『山田夜夢』──とかけ離れていたものだから、翔子は声をかけることを躊躇ってしまう。
「……この席って、漫画とかドラマだと主人公が座るような席じゃないですか?」夜夢は翔子を見ずに口を開いた。
「特別感のある場所ですよね。教室の隅っこって、プライベートが保証されているみたいで。クラスメートから見られることがなくて、先生からの視線も届きにくい。……でも実際はちょっと違ってて、ここって見たくないものを追いやる為の席なんですよ。臭い物には蓋、みたいな、知覚したくないものを遠ざけるために用意されてる場所なんです。私が転校してきた時もそうでした」
淡々と語る夜夢の声は、悪戯っぽく妙な魅力のある『山田夜夢』や、一週間前に保健室で知った感情の抜け落ちた虚ろなものとも違い、等身大のすれた少女のような生々しいそれだった。
夜夢が振り向くと、椅子がわずかにきしんだ。
「この席、もともと空席だったんですよ。おかしいですよね、みんなここに座りたがりそうなものなのに空いてるって……。でも聞いたら、ここって初めからそういう席だったらしいんです。つまり転校生の為に空けてたんですね。合理的ですよね。確かにクラスの真ん中をわざわざ空席にする必要、ないですもん」
薄暗い教室に陽の光とヘリの音が流れこんでくる。
翔子が応えずにいると、夜夢は薄く微笑んだ。
「転校初日のことです。私は元気よく『山田夜夢』として挨拶しました。クラスメイトからも先生からも受けはよかったです。こんな見た目ですから、初対面で興味を持たれることは悪いことではないですよね。いい気分で自分の席に向かいました。みんなと仲良くなれそうだなーとか、根拠なく思ったりもして。……でも、この席に座った時、感じちゃたんですよね」
「……なにを?」
「自分が異物だってことをです」
教室の温度が一気に下がったように翔子には感じられた。
「一番後ろの、一番端の席。見えるのはクラスメイトの背中と授業に集中する隣の席の人と、個人ではなく生徒という群体を見渡す先生……それと外の景色。誰にも見られなくて気が楽だなんて言う人もいますが、本質は同じです。孤独や孤立を感じる場所なんですよ、ここは」
夜夢が言いたいこと、伝えたい気持ちが翔子にはまだ分かっていなかった。しかし反応しなければいけない気がして、反射的に口を開いていた。
「それが保健室に来た理由?」
「いいえ」夜夢がかぶりを振る。
「この話で大事なことは一つです。その人を決定づけるのはキャラクターや本質ではなく、その人がいる場所だってことです」
そう言って夜夢は席を立った。机の間を抜け、教室の前の方に来たかと思うと、教壇の前で止まった。そして黒板をバックに朗らかに宣言する。
「さあ翔子先生、座ってください。そしてお話しましょう。先生もその為に来たんでしょう?」
嫌とは言えない雰囲気だった。もちろん翔子は誰かに言われてここに来たのではない、夜夢との対話は翔子自身も望んだことだ。が、夜夢が銃を所持しているという事実が今更になって翔子の不安を煽ってくる。
有り得ないことだとは分かっているが、夜夢の心情が読めないぶんいきなり撃たれる可能性が拭いきれない。
「いいわ。そう、私はあなたと話す為に来たんですもの」
「警官から逃げて転んでまで、ですよね」
「……そうね。でも、いえだからこそ……山田さん、拳銃を渡してくれないかしら?」
翔子の言葉に夜夢の眉がぴくりと跳ねた。
「正直に言うわ、私はその銃が怖い。あなたではなく、その銃が。……そんな凶器をぶらさげている人と、対等に話なんてできない」
「うーん、気持ちは分かるんですけどね……。これって、この場所を成立させるための重要なアイテムなんですよ。これがなかったら先生とここにいることも出来ませんでしたし」
夜夢は拳銃を弄びながら、視線を窓の外にやり「こんなふうに注目されることもなかったでしょう?」と翔子に尋ねてきた。
「だから手離すわけにはいかないんです。これがなくなったら、魔法がとけちゃう」
「注目って、あなたの目的は私と話すことでしょう?だったらこんなことする必要ないじゃない。どこでだって……それこそ保健室でだって話せたでしょう。なんでこんな、騒ぎになるようなことを」
「それが必要だったんです。先生、私さっき言いましたよね?その人を決定づけるのその人がいる場所だって。先生には、私とここで話をしてほしたかったんです。保健室ではなく、この教室で」
今度は翔子の眉が歪んだ。夜夢の言葉の意図がまったくつかめなかったからだ。分からないことが多すぎて何を言えばいいのか分からない。夜夢のペースに乗せられている気さえしていた。
言葉を発さない翔子に何を思ったのか夜夢は大きなため息を吐いた。諦めの情が感じられる、わざとらしい仕草で。
「仕方ないですねー、じゃあこうしましょう」
言い終わらないうちに夜夢は拳銃のグリップを両手で包むように持ち、銃口を翔子に向けた。その瞬間翔子の思考は吹き飛び、体の中身がすべて漂白してしまったかのように無となった。その感覚は翔子に時間という概念を認識させるには充分な衝撃だった。
その時、翔子の時間は完全に止まったのだ。
衝撃と共に、翔子に確定的な未来が、濃厚な死の予感が襲い掛かる。
しかし銃弾は翔子に飛んでこなかった。
夜夢は銃口を黒板に向け、躊躇なく引き金を引いた。
空間が爆ぜる音と、幕を破るような衝撃波が同時に翔子の身体を響かせる。
それも一度ではない。
呆気にとられながら翔子は視線を夜夢が撃った方向……黒板に向ける。そこには四つの小さく歪な穴が空いていた。夜夢は四回も黒板を撃ったのだ。
四つの銃弾が放たれた。無傷の弾の一つは、翔子の胸ポケットにある。つまり──
「残り一発です。流石にこれ以上は譲歩できませんよ?」
煙の匂い、窓の外から聞こえる騒ぎ声、銃を構えたまま微笑む女の子。
そして足の痛みと発砲による衝撃で、翔子の思考はこんがらがった糸のようにぐちゃぐちゃになっていた。
普通の人間であれば反射的に逃げ出していただろう。
しかし翔子はそうならなかった。大人としての……先生としての誇りと責任、夜夢から逃げないと決めた意思、そしてそれら大義名分の裏にあるほんの少しの好奇心が、翔子をその場に留まらせた。
翔子はゆっくり頷き、席につく。
それを見た夜夢は満足そうに頷き、銃口にキスするように息を吹きかけてから翔子に向き直った。
そうして二人は話しはじめた。
「どうぞ、質問していいですよ」
翔子を促すように夜夢は腕を広げた。おそらく狙ってのことだろうが、夜夢は教師のような振る舞いで教壇に立っている。翔子は視界にちらつく拳銃をなるべく気にしないように努め、思考を回す。
聞きたいことは山ほどある……が、
「山田さん、あなたの目的はなに?」
最初に浮かんできたのはそれだった。
「質問が漠然とし過ぎてませんか?何に対する目的なのか分からなくて答えられません」
夜夢は簡単には答えてくれないようだ。しかしふざけているようには見えない。誤魔化しているのではなく言葉通りの意味なのだろう、と翔子は思った。
「そうね、ちょっと抽象的過ぎたかも。もっと具体的なことから聞きましょう。……山田さん、その拳銃はどうやって手に入れたの?」
「多分先生の想像通りだと思いますよ。用務員さんからもらったんです」
予想していたことであり、状況的に間違いないことだったとはいえ、翔子は驚きを隠せなかった。
「…………もらったって、どうやって?警察を襲ってまで手に入れた銃を、どうしてあなたに渡すの?」
「どうやって」おうむ返しに夜夢がつぶやく。
「んー、それはちょっと答えられないですね。あっいじわるしているわけじゃなくて、上手く説明できないんです。前にも言ったじゃないですか……あ、言えなかったんだったかな?どっちでもいいんですけど、正直、私自身わかってないんですよね。ちゃんと会話をして、相互理解が得られれば、みんな私に共感してくれる……って、それだけのことなんです。ぜんぜん何も特別なことはしていません」
「じゃあ用務員さんはあなたと話しただけで警察官を襲ったっていうの?弱みを握って脅迫したわけでも、精神的に追い詰めたわけでもなく?」
「ないですないです。美里ちゃんのご両親の時もそうでしたけど、法律を破るようなことはしてませんし、やってません。……ていうか先生、もしかして私が用務員さんに"警察官から銃を奪ってきて"なんて頼んだと思ってます?」
「……違うの?」翔子が訝しむと夜夢は吹きだした。
「言ってませんよーそんなこと。私はただ"身を守る武器がほしい"って言っただけです。ほら、私も年頃の女の子ですから夜道とか怖いんですよ。なのにあの人、まさか警官から銃を奪ってくるなんて……いやー、年齢を重ねると恐怖心とか薄まるんですかねー」
嘘だ、と翔子は胸の内でつぶやいた。
夜夢が用務員に対してお願いした内容が、ではない。夜夢が用務員に対し「身を守る武器がほしい」と言ったのは、おそらく事実だ。しかしその心情は嘘だと翔子は確信している。夜夢は学校を占拠するつもりで、あの老人に銃をねだったのだ。
しかしそれが犯罪になるのだろうか?ならないだろう。夜夢がしらばっくれてしまえば犯罪を立証することはできない。用務員が夜夢に唆されたと言えば話は別だが、内容を聞く限り夜夢の発言に問題はないように思えた。そもそも用務員は夜夢のことを警察に話さないだろう、と翔子は予想していた。たとえ話したとしても、警察は信じないだろう、「中学生の女の子が武器を欲しがっていたから警官から銃を奪った」などと。
しかし倫理的には問題がある。自分の目的を果たすために他人の人生を消費した、夜夢の行動には。
だってそれは、翔子の嫌う、弱者を蔑ろにする行為だから。
そこまで考え──翔子は気付いたものがあった。
「………そうか、そうなのね」
翔子の独り言のような呟きに、夜夢は耳を傾けている。
「山田さん、私はあなたの能力がずっと不可解だった。あなたは確かに女性的にも人間的にも特殊な魅力を持っているわ。でも決して常軌を逸するような話術や人心掌握能力を持っているわけではない。そんなものがあるなら、あなたと会話した人はみんなあなたの言いなりになっていなくてはおかしいもの。そんな超能力があったらこんな舞台を用意する必要もなかったろうし……そもそも私がこうやって話すこともなかったでしょう」
机から見上げる夜夢の姿が、翔子の瞳には悪魔めいて映った。
「あなたの言う"相互理解"は脅迫や洗脳じゃない。けれど限りなくそれらに近いものだった。何故そう思ってしまったのか……考えてみれば簡単なことだったわ。私はずっと貴方を見ていた。山田夜夢に注目するばかりで、その周りの人間を見ていなかった。だからあなたを、どこか超然的な存在なんだと錯覚してしまった」
ノイローゼになるほど勉強を強いられていた津村里美とその両親、塾講師との間に子供が出来た小林咲、これまでの生活にいきがいを見だせなかった生徒たち、定年を迎え孤独に暮らす用務員……翔子は夜夢が相互理解を得たと嘯く人たちの顔を思い浮かべる。
「あなたは心を病んだ人間を見定めるのが上手いのよ山田さん。一目で弱っていると分かる人間だけじゃなく、表面上は元気に見えても精神がぼろぼろになっている人間までも見極めることができる。あなたは彼らの弱さにつけ入り、理解するふりをして自分に都合の良い思想を刷り込んだんだわ」
翔子は一週間前に夜夢に放った言葉を思いだす。
「あなたは人を操ることに愉悦を覚えている」と──感情的になっていたこともあり少し言い過ぎたかなと反省していたが、今はもうすっかりそんな気持ちも消え失せていた。教壇に立つ悪魔のコスプレをした少女は、弱者を弄ぶ本物の悪なのだ。
「山田さん、あなたがやっていることは正義でも何でもない……ただの自己満足よ」
そう言って、翔子は自分よりも背の低い少女を毅然とした表情で見つめる。夜夢の反応が気になった。
図星を突かれ激昂して銃を振り回さないだろうか、それとも狼狽して頭を抱えうずくまるか、或いは先週のようにただ虚無になるか、翔子はさまざまなパターンを想定するが……しかし夜夢が見せたのはそのどれでもなかった。
「ええそうですよ?」
あっけなく、夜夢は翔子の言葉を受け入れた。「この人はいったい何を当たり前のことを言ってるんだろう」とでも言うように、若干の困惑を織り交ぜて。
「……え」翔子の口から思わず声がこぼれでる。
「だってそれが『山田夜夢』ですもん。自己満で何が悪いんですか?」
「ちが」それは違うと言う前に、夜夢の手のひらが翔子を制するように差し出された。
「いや、わかりますよ。ていうか先週も言われましたから覚えてますよ。"『山田夜夢』はそんなことしない、そんなキャラじゃない"ですよね?先生が言いたいのって」
冷静に淡々と喋る夜夢とは反対に、翔子は自分が狼狽していることに気づいた。心臓がエンジンのように鳴っている。夜夢がこれから言うであろう言葉を無意識に恐れているように。
「それは理解できます。でも、本当にそうでしょうか?」
「……どういうこと?」
「『山田夜夢』は先生の言った通りの思想を持っていたんでしょうか?彼女は自分の考えを広めることで共感してくれる人を増やし、知識を伝え"その人が弱者にならない"よう願っていた。その結果、弱者はいなくなり、社会が良くなるのはその副次効果にすぎない……本当にそうでしょうか?」
それはそうだ、『山田夜夢』である自分が言ったのだから間違いない。翔子は心の中で即答する。
「私はそうは思いません」
しかし夜夢はそれを否定した。
何を根拠に彼女はそんなことを言うのか、翔子の中で困惑が渦巻いていく。
「『山田夜夢』は確かに社会を良くしようって本気で考えてるけれど、それと同じくらい人間が……正確には弱者が嫌いなんです。自分で物事を決められない人間を激しく嫌悪し、弱い者で溢れる世界をひたすら憎んでいる。だから社会を良くしようと考えた、自分勝手で傍若無人な悪魔なんです。夜夢ちゃんの配信を見て私はそう感じました」
あまりにも身勝手な解釈。
翔子はオリジナルゆえに夜夢が信じる『山田夜夢』像に唖然とし、言葉をなくしてしまう。しかし本当に衝撃を受けたのは「まあつまりですね、私が何を言いたいのかというと……」この先に続く言葉だった。夜夢は教壇に肘を立て、組んだ手の上にあごを乗せ翔子を見下ろす。
「『山田夜夢』の中の人をやってたからって、あなたが『山田夜夢』を定義していいわけじゃない……ってことなんですよ。何様ですか?」
肌が凍りつきそうなほど、夜夢の声は冷えついていた。
翔子は乾いた喉から声を絞りだす。
「……やっぱり知ってたのね」
「当たり前じゃないですか。まさか偶然だと思ってたんですか?奇跡的な確率ですよ、昔やってたバーチャル配信者の格好をした生徒が、中の人が勤めている学校に入学してくる……なんて」
くつくつと笑う夜夢だったが、すぐに笑気は消え失せ、冷たい眼差しを翔子に向ける。
「まあ、私がこの学校に入学したこと自体は偶然でしたよ。でも私が『山田夜夢』の姿になった原因は……神崎先生、あなたにあります」
「私に?」
「あなたが『山田夜夢』を放棄したことが、です。10年前にあなたは突然『山田夜夢』としての活動を停止した。そして今、それを隠して生活している。学校の先生なんていう真面目で潔白な仕事をしている。……まるで『山田夜夢』として活動していたことが人生の汚点だったみたいに」
「隠してなんて……ないわ。だって言えないじゃない?あなたに"実は私が『山田夜夢』の中の人なの"なんて、夢を壊すかもしれなかったし」
「わー翔子先生やさしー♪……とか、言うと思います?翔子先生、あなたの言い分は確かに筋道が通った説得力のあるものですが、『山田夜夢』だったことを隠したかったことへの否定にはなっていません。あなたは『山田夜夢』だったことを恥じている。だから私に『山田夜夢』だったことを明かさなかった」
「それは違うわ、私は──「じゃあなんで一週間前、私の『山田夜夢』を否定したんですか?」
翔子の用意していた反論は、夜夢の言葉に完全に呑まれてしまう。それほど夜夢の言葉には威圧感があった。
15歳の少女から発せられるものとは思えぬほど凄まじい迫力だった。
「私の夢を壊したくなかった……と言うなら、なんで私の思い描く理想の『山田夜夢』を否定したんですか?それだったら翔子先生が正体を明かすことと変わりません、私の『山田夜夢』を否定してるんですから。矛盾してますよ、先生の言ってることとやってることは」
刃物のような言葉が夜夢の可愛らしい唇を抜けて飛んでくる。
「結局先生も自分の都合で……大人の都合で子供の行動をコントロールしたかっただけなんですよ」
翔子はされるがままに心を切り刻まれていった。
反論などできるはずもない。
夜夢の言っていることは正しかったからだ。
夜夢のこれまでの行動は、確かに人として間違っている。面白半分で他人の思考思想を操作しようなんて許されるべきでない、忌避されて然るべき行為だ。
……しかし、それでも翔子は、夜夢を否定するべきではなかった。
大人として養護教諭として、彼女が抱える問題にしっかりと向き合い、受け止めるべきだった。翔子だってわかっているのだ、夜夢の行為を否定したのは彼女のやっていることが残酷で非道徳的だったから……だけではないことに。
翔子は、夜夢が言葉で人を操っていることが気持ち悪かった。同族嫌悪だ。翔子のやっている──人の話を聞き良い方向に導くという仕事も、夜夢のやっていること何も違わない。どちらも言葉で人の思考をコントロールする行為だ。
翔子は夜夢を通じて自分の行為を見せられているようで、それがたまらなく気持ち悪かったのだ。それを否定したくて、養護教諭としての仕事──指導と称して夜夢の思考を矯正しようとした。その引き合いに『山田夜夢』を出したに過ぎない。
「私も『山田夜夢』も先生の人形じゃありません。大人だからって、生みの親だからって、言うことを聞く道理はないんです」
翔子の敗北だ。これを勝負と言うならばの話だが……。翔子は夜夢の心を動かせる言葉を持ち合わせていなかった。これまで夜夢が犯した罪を反省させることも、これから夜夢が犯すであろう罪を止めることもできない。
……しかし、だからこそ翔子は夜夢に聞かねばならないことがあった。先生と生徒の関係ではなく、偶像と信者の関係でもない、一人の人間である神崎翔子が一人の山田夜夢に対して、尋ねなければならない疑問があった。
「山田さん、何故あなたはそこまで『山田夜夢』にこだわるの?」
それは夜夢を一目見てからずっと気になっていたことだった。実際に夜夢に尋ね答えを聞いてはいたものの、好きだからという理由でここまで偏執した思想を抱けるものか翔子は疑問だったのだ。夜夢を矯正することができないと察した翔子の頭に、まず浮かんできたのがそれだった。
夜夢は『山田夜夢』に対し別の情念を抱えているのではないか?
説得に使う材料のためではなく、これほどまでの大舞台を演出した理由が、翔子は純粋に気になった。
翔子が疑問をぶつけても、夜夢は表情を崩さない。先ほどから不機嫌そうに曲がったまゆがわずかに動いた気がしたが、それでも翔子は夜夢の感情に変化を見いだせなかった。
やがて長い時間が経ち、夜夢が何か諦めるように大袈裟なため息を吐いた。
「そんなの決まってますよ、大切な人だからです。私にとって『山田夜夢』は、世界の誰よりも大切な人なんです」
意味が分からなかった。10年前に少ししか活動していない配信者に、それほど執着するわけがない。少なくとも翔子はそんな感覚を持ち合わせていなかった。
「世界の誰よりも大切って……何故?あなたにとって『山田夜夢』は家族や友達よりも大切な存在だってこと?」
「家族はいません……保護者はいますけど。ママは5歳の時に死にましたし、父親は……顔も知りません」
翔子の頭の裏側で、ちりりと電流が走った気がした。
夜夢が口にした「5歳」という数字が、脳を刺激してる……。
それは重大な何かを思い出すときの、情報の奔流の予兆だった。
「先生、まだ気づきませんか?『山田夜夢』は私を助けてくれたんですよ」
瞬間、翔子は夜夢が言っていたことを思い出す。
『先生、初恋っていつでした?』
『あたしはねー、5歳のときでした!』
それと同時に、脳から引きずり出された断片的な情報が、自動的に整理されていく。
10年前のあの事件、
5歳の娘を残し自殺した母親、
部屋の真ん中で吊るされた母親の死体と暮らしていた少女、
それを取り上げ有名になった『山田夜夢』、
15歳の山田夜夢、
──翔子の頭の中でパズルのピースが瞬時にはまっていく。出来上がった絵柄を見て、翔子の脊髄に電流が走った。
「あの事件の、女の子……」
「はい、はじめまして。山田夜夢です」
夜夢がにっこりと微笑んだ。心の底から気持ちよさそうなその笑顔が、翔子には誰のものなのかわからなかった。
その時になってようやく、翔子は山田夜夢と対峙した。
山田 夜夢
今となってはもう、顔も声も思い出せない。
優しかったのか厳しかったのか、良い人だったのか悪い人だったのかなんてことはもっとわからない。夜夢にとって母親とは、そういう存在だった。
そもそも彼女が母親だったのかも怪しいと夜夢は思っていた。生まれてから5歳になるまで彼女と暮らしていたが、外に出させてもらったことはなく、彼女以外の人間と会うこともほとんどなかったから、比較する対象があまりにも少なかった。
夜夢の世界は、彼女と自分と部屋の中でほとんど成立していた。
きっかけはわからない。ぼんやりとしか覚えていないが、彼女が酷く狼狽していたことを記憶している。……いや記録している。情報として「そういうことがあった」と覚えてはいるが、実感はない。
夜夢の目の前で、彼女は天井からぶら下がった。
それを見ても夜夢は何かを思ったり感じたりすることはなかった。ということは、夜夢は彼女に対し特別な愛着を抱いていなかったことになる。逆説的に考えればの話だが。
部屋の真ん中に新しい家具ができた、程度のことでしかなかったのだろう。夜夢は、彼女が吊るされている部屋でテレビを見たり絵本を読んだりして過ごした。
他愛ない情報を摂取して、お腹が空けば彼女が買い溜めていたお菓子を食べる。外の世界を知らない夜夢にとって、それは安寧の日々だった。しかし何日か過ごすうちに、家具に変化がおとずれる。
体の色が変わっていた。変な匂いもする。
夜夢は初めて、彼女が邪魔だと思った。
彼女をどうにかしようと押したり引っぱったりした。しかし子供の力では彼女はびくともしない。
そんな時だった、警察が部屋に押し入ってきたのは。
保護された夜夢は戸惑った。
初めて会う人間と話し、新しい知識が急激に増えていく。それは同時に、知らない知識が増えることでもあった。わからない、この状況は何なのだろう?自分はどうなるのだろう?疑問ばかりが増えていく。
5歳の女の子は今の状況を認識するのが精一杯で、それに対し意見を言ったりましてや反抗するなど出来るはずもなかった。そうして夜夢は、親族だという人間のもとに引き取られることになる。
そこでの生活は快適だった。親族を名乗る男女も気を遣ったのだろう、夜夢に過度にスキンシップすることはせず、物欲を満たそうと遠回しに愛してくれた。
優しい大人に囲まれた末にたどり着いた、何不自由のない生活。……しかし夜夢にはわからないことがあった。
置かれている状況についてではない、自分についてだ。
山田夜夢という存在がなんなのか、夜夢にはわからなかった。
それは5歳の女の子が考えるようなことでないのは確かだったが、しかし、夜夢は考えなければいけなかった。
母親と定義される彼女は死んでしまった。自分がどこから来たのか、どうして生まれたのか、何故生きているのか……そういった「自分を定義するもの」が、夜夢には必要だった。
その行為を試してみたのは、単なる思いつきだった。誰でも一度はやってみたことがある、検索サイトで自分の名前を検索してみる、なんてことは。
買い与えられたタブレット端末で、夜夢は自分の名前を調べてみる。
『やまだ ないとめあ』
漢字ではなかったから正しい結果が出るか心配だったが、驚くことに多数の結果がヒットした。
食い入るようにその内容を読む。もちろん5歳の夜夢にそれほどの判読力はない、せいぜいが絵本が読める程度だ。しかし、検索結果の多くには動画が添付されていた。
それを開いたことが、夜夢にとっての運命だった。
『山田夜夢』というバーチャル配信者との出会いは、夜夢に衝撃を与えた。
自分と同じ名前のアニメの女の子が、堂々と社会に意見を言い、批判し、多くの人から評価を受けている。内容の多くは夜夢には難しかったが、それでも『山田夜夢』の配信には夜夢を惹きつける魅力があった。眩しかった。安直な言い方をするならば『山田夜夢』は夜夢にとって希望の光だった。
しかも『山田夜夢』は夜夢が保護された事件についても話していて、それが夜夢はたまらなく嬉しかった。『山田夜夢』は自分のことを認識してくれているのだ。自分でもよくわからない夜夢のことを。
『山田夜夢』は語る。
曰く、この事件の一番の被害者は自殺した母親ではなく子供であるということ。そして加害者も母親ではなく、この家族をとり巻く社会であること。つまり、夜夢はこの社会の不完全さが生み出した犠牲者であり、法律も世間の風潮もひっくるめた社会こそが、悪なのだということ。
天啓だった。そうだったのか、と夜夢は心の歪な部分がぴたりとはまる感覚をえた。
自分は社会が生み出した犠牲者だった。
悲壮な響きのする言葉が、何故か夜夢にはしっくりきた。自分という存在が、ようやく世界に根を張った気がした。誰かに認識されるということがこれほど心地よいものだとは、夜夢は知らなかった。
それを教えてくれた『山田夜夢』に深い憧憬の念が生まれた。
こんな風に生きよう。……いや、彼女になりたい。『山田夜夢』に。
山田夜夢の人生は、だから『山田夜夢』なしでは成立しないのだった。
「だから、私にとって『山田夜夢』は必要なんです」
教壇で高らかに、夜夢は宣う。
恍惚としたその表情とは裏腹に、翔子の顔は暗かった。己の迂闊さを呪っていた。
気づこうと思えば気づけたはずだ。10年前の事件、首を吊った母親は実名が公表されていた。確かに同じ「山田」だったが……いやそんなありふれた名字で夜夢と結びつけることは難しい。翔子は思考を回す。10年前も前の事件を記憶から引っ張り出すことだって、山田夜夢がここまで言わなければ至らなかった。10年前の事件の被害者が会いに来るなんて、バーチャル配信者の格好をした少女が中の人の前に現れるくらい、有り得ないことだ。
……しかしこれで合点がいった。つまり夜夢は翔子を恨んでいるのだ。
希望となった存在が縋る間もなく姿を消したことに、激しい怒りを抱いているのだ。
「やっぱり知らなかったんですね」
「……普通は気づかないと思うわ」
「ですかね」夜夢が肩で笑う。
その仕草だけ見れば、教師ごっこをしている子供のようで微笑ましい。しかし夜夢は違う。明確に翔子に損害を与えようとしている。精神的なものか、尊厳、社会的地位に関わるものか……それとも、もっと単純な生命に直接影響をあたえるものか。分からないが、翔子は夜夢から「翔子を何かしらの方法で傷つけよう」という意思を感じていた。でなければ拳銃を手に入れてまで、こんな舞台を用意した意味がない。
「それで……、だから私を殺すの?『山田夜夢』を捨てた私を」
翔子は自分でも驚くほど冷静に、その質問を口にしていた。夜夢の心境の端が捕捉できたからかもしれない、腹が決まったのだ。
夜夢の冷めた視線が翔子に刺さる「いいえ」反対に声は温かく聞こえた。
「……いいえ、私はあなたを撃ちません。あなたを殺しません」
まるで自らに言い聞かせるように、夜夢はそれを口にした。
内心で安堵する翔子だったが、夜夢の言葉は続く。
「私の目的を聞きましたよね?先生。教えてあげます、私の目的は──」
そこで夜夢は銃口を翔子に向けてきた。翔子は思わず身を強張らせるが、夜夢は空いた手で手招きしている。ここに立てと指図しているのだ。
訝しみながらも翔子は席を立ち、教壇に向かう。反対に夜夢は教壇を回り込み、前に。
教壇を挟んで二人は円を描いた。
翔子も保健の授業で教壇に立ったことはある。いつもは教室の全景を見渡せるが――今、目の前には夜夢が立っていた。人を見下すような、挑戦的にも見える表情で、翔子と向かい合っている。
そして夜夢は何の前触れもなく引き金をひいた。
カチン、と間抜けな金属音が響いた。しかしそれだけだ。銃弾は発射されず、銃口の先にいた翔子は無傷で立っている。
夜夢が引き金を引いたのだと理解するのに一拍要するくらい、それは呆気ない現象だった。
「は?」困惑のあまり翔子の口から間抜けな声がもれた。
夜夢は愉快そうに体を震わせている。
「ふ……ふふっ、ふふはははは、ぁはははははははっ」
翔子を置き去りにして、夜夢は声を上げて笑う。翔子はその様子を見て、これだけ笑っている姿は初めて見たかもしれない、などと場違いなことを考えていた。
「ふふふっ……ごめんなさい先生、笑い過ぎましたね」
ふー、と深呼吸をしてから夜夢は拳銃をいじくる。どうやったのか、拳銃の弾倉部分が本体から外れた。それを見て翔子は驚愕する。
「この拳銃、弾が五発しか入らないんですよ」
弾倉には銃弾五発分の穴があり、その四つが薬莢で埋まっている。残り一つはただの洞だった。そこにあるべき銃弾が今どこにあるのかは、翔子が一番知っている。
保健室に置かれていたメモを思い出す。あれには確かに「1/6」と書かれていた。その上に弾が置いてあったのだ、であれば拳銃には残り五発の弾が入っていると考えるのが自然だろう。
翔子の脳裏に、先ほどの夜夢の蛮行──黒板を四回も撃ったシーンがよぎる。あの時点で、この銃の弾倉は空っぽだったのだ。翔子は担がれていたのだとようやく気づいた。
「……本当に、あなたは何がしたいの?」
翔子は苛立ちながら睨むが、夜夢は素知らぬ顔で首を傾げる。
「ああ、言葉の途中でしたね。……私の目的は」
言いながら、夜夢は拳銃を教壇の上に置いた。
「あなたに殺されることです、神崎先生。10年前『山田夜夢』を殺したみたいに、私を殺してください」
一瞬──夜夢が何をしているのか、言っている意味が、翔子には理解できなかった。しかし反射的に拳銃を掴み取っていた。
「あは、やる気まんまんですね先生」
夜夢の言葉に、翔子は答えない。これでこの事件は終わりだ。この拳銃がなければ夜夢はただの女子中学生にすぎない。この拳銃を持って校舎を出れば、あとは警察がなんとかしてくれる。
「その拳銃を持って逃げてもいいですけど、それをしたら私は死にますよ?」
しかし夜夢が思考に先回りをする。走り出そうとした翔子の足が、杭を刺されたように動かなくなる。
「なっ……なにを言ってるの、殺してとか、死ぬとか……そんなこと」
できるわけがない、とは続かなかった。夜夢の表情に気づいたからだ。
「できます。私は死ねますよ?……だってあなたが『山田夜夢』を、私を否定するんですもん。そんなの、生きる意味がないじゃないですか」
あの顔だ。夜夢が先週見せた、感情の抜け落ちた虚な表情。翔子は慄く。心情の読み取れない顔が、どうしてこんなに恐ろしいのだろう。まるで深い闇の中に、さまざまな黒のグラデーションが見られるように、夜夢からは異質な圧迫感が放たれている。
今の夜夢ならば自殺することも出来るかもしれない。
翔子は直感的に夜夢の覚悟を理解させられる。
それに、
「……それに逃げたらどうなるか、先生ならわかりますよね?そのためにこの場を用意したんです」
夜夢は外に目を向ける。その先には警官や報道陣や野次馬の群れがあり、学校を取り囲んでいる。空にはヘリの気配がある。流石に教室の中までは見られていないだろうが、事件の顛末はリアルタイムで観測されているだろう。
逃げられない。
この場を去ることは出来ても、周りの人間が、社会の空気が、翔子を追ってくる。その上夜夢が自殺なんかすれば、非難の目が翔子に向くことは明らかだ。警察の制止を振り切ってここにいるのだ、まったくの被害者と主張するのは無理がある。
校舎に入った時点で、翔子の運命はほぼ決まっていた。
でも、だからといって夜夢を撃つ理由があるだろうか?生徒を撃ち殺したほうが、逃げるより一層苦しい生活が待っているのではないか?
「……そこにあるんですね」
夜夢の声に翔子ははっと我にかえる。自分が無意識に胸ポケットを掴んでいたことに気づいた。ポケットに入っている、銃弾を……。
「先生に残された道は二つです。生徒を撃ち殺して地獄を歩くか、生徒を見殺しにして地獄を歩くか……でも、そんな選択辛すぎますよね?だからもう一つ、先生が選べる道を教えてあげます」
夜夢が指を立てながら説明していく。
「それは私が生き残る道です。誰にも咎められることなく、この場が丸く収まる素敵な選択です。……でも先生にはとても辛い選択になるでしょう」
夜夢が言葉を続ける前に、翔子にはその選択がわかっていた。理解してしまった。翔子の内情を見透かすように、夜夢がいやらしく微笑む。
「死んでください、先生。その弾を自分の頭に撃ち込んでください」
悪魔は囁く。夜夢の威圧感はどんどん増していき、翔子を呑み込もうとする。
「そうすれば私は生きていられます。本物の『山田夜夢』がいなくなれば私が山田夜夢であることに矛盾が生まれませんから」
「馬鹿なこと言わないで。そんな責任、私には……」
翔子は当然反論する……が、それを遮るように夜夢が身を乗り出してきた。
夜夢の瞳が妖しい光を宿している。そこには翔子の姿がはっきりと映っていた。何かに恐怖し怯えたような自分の表情に、翔子はようやく自分の感情を自覚する。
「いいえ、先生は責任をとるべきです。『山田夜夢』を生み出した責任を。それとも逃げるんですか?首を吊った私のママみたいに」
至近距離で聞こえる夜夢の言葉が、翔子の頭で反響する。それは死神の囁きだ。生者に目隠しをして、死へと誘う誘蛾灯。
今の翔子は正常な判断ができていない、夜夢の雰囲気に完全に呑まれてしまっている。……そう分かってはいても、胸の奥から押し寄せる感情が翔子の体を蝕んでいく。人はそれ罪悪感と呼ぶ。
そして誠実な人間ほど、罪悪感で死ぬことができる。
私のせいなのか?
違うそんなはずはない、私は悪くない。
そう思っても、次の瞬間には翔子の心に夜夢の声が覆い被さってくる。時には甘く、時には痛みを伴って、翔子の思考を削り落としてくる。
「お願いです先生、私のために死んでください。生みの親としての責任をとってください」
呼吸がつらい。脳が痺れ蕩けているようだ。自分がここまで苦しんでいる理由が、翔子にはわからなかった。
何故、体がこんなに寒いのか。
何故、体がこんなに震えるのか。
そして何故、翔子は銃弾をつまみ弾倉に押し込んでいるのか。
翔子は銃弾の入った拳銃を握りしめる。目の前には悪魔のような女の子が野原の草花のように咲いている。
いっそ、本当に彼女を撃ち殺してしまえば、この苦しみから解放されるのではないか──邪な考えがよぎる。
いいやダメだ。麻痺した脳で、それでも翔子は自分を否定する。
私は他人を傷つけるのではなく、守りたいのだ。翔子は自分を肯定する。
ではどうすればいい?どうすれば夜夢を傷つけず、夜夢を救うことが出来るのか……。
その方法を翔子は知っている。あとは文字通り、引き金を引くだけ。
「選んでください翔子先生。……私が死ぬか、あなたが死ぬか。山田夜夢が死ぬか『山田夜夢』が死ぬかを」
夜夢の言葉が最後の一押しとなった。
翔子は銃口を夜夢に向ける。彼女は笑みを崩さない。
翔子は銃口を自分の顎に向ける。夜夢は笑みを崩さない。
ぱちりと翔子の頭の中で何かがはじける。
視界は白く染まり、波紋のように衝撃が広がっていく。その先に、翔子は幼い女の子の姿を見た気がした。
翔子は『山田夜夢』に照準を合わせ、引き金をひいた。
短いエピローグ
結局、神崎翔子と『山田夜夢』ってどういう関係だったのかな?
配信者のガワと中身?
忘れたい黒歴史と現実の堅実的な自分?
過去と現在?
他人からはなんとでも解釈できるんですよね、良いようにも悪いようにも。
でも大半の人は、先生と生徒って答えるんだろうなー。あっ正確には"怪しい関係の先生と生徒"ね。ニュースとかでもそういうふうにいってるんじゃないですか?
……え、あたしですか?あたしは……うーん難しいなー。確かに翔子先生のことは好きだけど、それは『山田夜夢』の本物だったってフィルターが働いてたからで、一人の人間である神崎翔子をどう思っていたかっていうと……あれ?けっこー好きだな?
こまったこまった。あはは、恥ずかしいですねー。
いやなにそっちも照れてんですか!やめてくださいよほんとにもう……。
……なんですか急に。ありませんよ、そんなもの。だって『山田夜夢』はこの世にはいないんですから、あたしに生きる理由とか、あるわけないじゃないですか。
結局、みんなあたしみたいなもんなんです。死んでないだけ。
死なないだけで、ただ生きてる。なーんも考えずに。それが日常で、人生なんです。……だからじゃないですかね、『山田夜夢』みたいな存在に惹かれるのって。自分がないから、自分がある人に憧れる。自分は何も出来ないから、何者かの皮をかぶりたくなる。
……まあつまり、羨ましかったんですよね。生きる理由とか目標とかを持ってる人のことが。
……罪悪感は、たぶんあります。でも優先事項……っていうのかな、物事の優劣があって、何者かになる為なら誰が犠牲になったって構わないと思ってます。思ってました。
学校の子もその親御さんも、咲ちゃんも……翔子先生も、まあそういうことです。それ以上は話したくないです。
ふふ、いやそりゃ怒りたくもなりますよ。というか呆れましたね、絶望もんです。あたしは、『山田夜夢』は配信者を引退して新興宗教でも立ち上げて世界を変革するために頑張ってるって、本気で思ってましたもん。まさか学校の先生やってるなんて……肩透かしですよねえ。がっかりです。
……ねえ、そこのところあなたはどう思いますか?
「翔子先生」
アクリル板の穴をすり抜けてきた夜夢の言葉に、翔子はしばらくの間答えられないでいた。
しかし馬鹿正直に答えてやる必要もないと考え直す。
「……私のことはいつ知ったの?私が、『山田夜夢』だったってことは」
「学校説明会の時です。職員紹介の時に、翔子先生も少し話をしていましたよね?」
質問を無視されても夜夢が機嫌を損ねた様子はなかった。
「確かに話したけど、それだけでわかるものなの?」
「わかりますよ。すぐにわかりました。何千回何万回も聞いた声ですもん、本物を聞けばわかります。……思えばあの時だったのかもしれません。決断したのは。あたしはずっと『山田夜夢』になりたかったけど、本物に怒られるんじゃないかってずっと心配だったんです。でも、ステージの上にいる翔子先生を見て驚きました。イメージしてた『山田夜夢』とぜんぜん違うんですもん。真面目で、綺麗で、ちゃんとした大人ーって感じで。あなたがそんなんだから、あたしが"ちゃんとした『山田夜夢』"になろうって決めたんです。そういう意味ではありがとうですね。……まあそれもダメになっちゃいましたけど」
舌を出し笑う夜夢を翔子は無感情に眺めていた。ダメになった――『山田夜夢』になれなかったと嘯いているにも関わらず、夜夢の喋り方や仕草からは『山田夜夢』のそれが抜けきっていなかった。長い間演じてきていたキャラクターはそうそう簡単には変えられないということだろう、もしくは今の夜夢が素なのかもしれない。
けれど以前ほどの不快感はない。
彼女は『山田夜夢』ではないと知っているから。『山田夜夢』はもうどこにもいないのだと、翔子は確信しているから。
「……ありがとう山田さん」
翔子がそう言うと夜夢は困惑する。言っている意味が分からない、というような表情だった。
「なにがですか?」
「『山田夜夢』を好きになってくれて」
あからさまに不機嫌な顔をする夜夢。
「私が目指した『山田夜夢』と、あなたが望んだ『山田夜夢』は違うわ。そしてそれがきっかけであなたが人々に迷惑をかけたことも変わらない。……それでも、あなたが『山田夜夢』を好きになってくれたことは、彼女を生み出した人間として純粋に嬉しい」
素直な気持ちを口にした、すっきりした表情の翔子とは反対に、夜夢はばつが悪そうにそっぽを向いている。
しばらくの間、狭い室内で時計の音だけが事務的に鳴っていた。
「理由、聞かせてください」ぽつりと夜夢がつぶやく。
「理由?」翔子は眉をひそめる。
「なんで『山田夜夢』は引退したんですか?」
「ああ……」
そういえば話していなかったな、と翔子は夜夢の様子を伺いつつ考える。別に大層な理由でもないし話してしまっても支障はなかったが、これまで夜夢にやり込まれたことを思い出し、もったいぶることにした。
「秘密」
「は?言う流れですよね?」
「いいじゃない、女の子には秘密があるものなのよ」
「アラサーじゃないですか」
「黙れ」
和気藹々と喋っていると、時間になったのか法務官が退室を促してきた。翔子は立ち上がり、今一度夜夢を眺める。
メイクをしていないにも関わらず、夜夢の顔にはどこか色っぽい大人の魅力が備わっていた……ということが分かるぐらいには、顔色がいい。
「元気そうでよかった。また来るわね、山田さん」
「いいですけど……先生が聞きたいことはもうだいたい喋ったと思いますよ?これ以上話しても時間の無駄じゃないですか?」
「"これまでのこと"はね。だから次は"これから"のことを話しましょう。約束したでしょ、話そうって。ふかーい話」
翔子が真面目な顔でそう言うと、夜夢は呆気にとられたように目をぱちぱちさせた。そして少女らしく無邪気に笑った。
面会室から出ようとする翔子の背中に「最後に一ついいですか」夜夢の言葉が追ってくる。翔子は立ち止まり続きを待った。
「……なんであの時、死んでくれなかったんですか?」
翔子はしばらく考えたあと「そんなの簡単よ」振り返ってこう言った。
「他人のために死ぬなんて馬鹿らしいじゃない」
1/6
教室に風が吹いた。
きらきらと瞬く破片が翔子の視界から遠ざかっていく。
遠くで誰かが悲鳴をあげている。それに混じって「……なんで」夜夢のつぶやきが聞こえた。
「なんで撃たなかったんですか?」
その顔は憎々しげに歪んでいる。おもちゃを取り上げられた子供のように、爆発的な怒りに満ちている。
「ちゃんと撃ったじゃない」
翔子は答える。自分の声が震えている……どころか全身が慄いていることに気づいた翔子は、その原因である拳銃をなんとか手放した。役目を終えたそれは抗議するように固い音を立てた。
「そっちじゃないです」
夜夢は窓に視線を向ける。その先にあるのは大きな穴の開いた窓ガラス。
四方に透明な欠片がへばりついたそれは、空へ抜ける扉のように見えた。
銃弾一発で思ったより派手に割れてしまった、下に人がいたらどうしよう、と翔子は場違いなことを考える。
「大丈夫よ、給料から天引きされないわ、あれって法律違反だから」
「……なに言ってるんですか?」
心底困惑してる様子の夜夢が声を荒げる。
「あたしが死ぬって言ってるんですよ?なんで窓なんか撃っちゃうんですか」
「……死ねばいいじゃない」
「は?」
翔子はわざと大きなため息を吐いてから夜夢に向きなおる。
「殺してくれなかったら、私が死ななかったら、あなたは死ぬんでしょ?じゃあ死ねばいいじゃない。ほら、ちょうどそこの窓から飛び降りればいいわ。……三階ぐらいじゃ死ねるかわからないけど」
「なに言って……」
「あなたこそなに言ってるのよ」夜夢の言葉を翔子は遮る。
「死ぬ死ぬって言いながら、自分で死ぬ気なんてないくせに」
翔子がそう言うと夜夢の表情が固まった。
その反応を見て翔子は確信する。
場の雰囲気と夜夢の気迫に呑まれてしまったが、よく考えたら夜夢に死ぬなんて選択ができるわけないのだ。
「……あの頃、私が『山田夜夢』として、あなたのお母さんが自殺した事件をリサーチしていた時のことで、思い出したことがあったの。確かあれは、ニュースかなにかで強引なマスコミが幼いあなたに質問してる映像だったわ。"お母さんのことをどう思いますか?"とか、そんな内容だったかしら。当時は小さな女の子になんてマスコミの非道さばかりが取り沙汰されていたけど……ねえ、あなたその質問になんて答えたか覚えてる?」
「…………」
夜夢は答えない。
「あなたはこう言ったの。ひとこと"くさい"って。……多くの人は、子供ゆえの純粋な感想として考えたようだけど、私は違う。何か違和感があった。だって当初の情報では、あなたは母親の死体にしがみついていたと聞いていたから。子供といえど、死体になった母親にすがりつくほどの愛情があったのなら"くさい"なんて言葉は出てこないはずでしょう?」
夜夢は答えない。悔しそうに唇をかみしめている。
「私は考えた。山田夜夢さん、あなたは母親のことが嫌いだったんじゃない?だからあんな言葉がでた」
翔子と似ている、と思った。
ただ明確に母親を憎悪している翔子とは違い、夜夢のそれは無関心に属する嫌悪に近いものだ。
「嫌いな母親と同じ自殺という選択を、あなたが選ぶとは思えない。あんな死体になるのは嫌だと、あなたは思っているはず。だからあなたは死なない。いえ、死ねない。……違うかしら?」
翔子の問い掛けに、夜夢は長いこと答えなかった。
教室にあるのは、風の流れる音と、相変わらず聞こえてくる遠くの喧騒だけだ。
そしてついに夜夢は答えなかった。
「……じゃあ、どうすればいいんですか」
夜夢のつぶやきの意味を、翔子先回りで理解する。
「どう生きればいいか、ってこと?」
頷く夜夢。翔子は天を仰ぐ。
「さあねえ……」
「さあって、なにかあるでしょう。先生なんですから」
「ないない、そんなの。先生ってそんな万能な存在じゃないんだから。そもそも人の生き方を"こうこうこうしなさい"って教えるなんて、誰にも出来ないし、しちゃいけないことなのよ。自分で決めなきゃ意味がないことなんだから」
翔子の言葉に、夜夢は子供のようにぶうたれる。
「それでも"生きなさい"って言うんですよね?無責任ですよ、そんなの」
夜夢の言葉に一瞬―—翔子の脳裏に母の残像がよぎった。
「そうかもね……」
結局今の自分は昔望んだ姿ではないのかもしれない、誰かを救うような存在にはなれなかったのかもしれない。しかし、無責任であっても背を向けることはせず、向かい合うことはできる。
目の前の少女から逃げずに。
「でもその前に、あなたが自分の人生に責任を持ちなさい。他人に責任を求めるのは、その後のことよ」
翔子は教壇を横に押しのけ、夜夢に近づく。
そこにいたのは魔性の魅力を放つ『山田夜夢』ではなく、等身大の感情をぶつけてくるただの可愛らしい女の子だった。
「……意味が分かりません」
「あとでわかるわ、生きていけばね」
翔子は夜夢の手を掴む。あまりの細さに驚いたが、引いてみると夜夢は存外すんなりその場から動いた。そしてそのまま、二人は教室を出ていった。
先ほどまでの騒ぎが嘘のように、その教室は静かだった。
メリーメリー・ドロップアウト(終)