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言語化のすゝめ

この界隈にいる人はもう触れてもいそうなのだけれど、ずっと書こうと思っていた「言語化」について簡単に書こうと思う


安藤あかりの言語化歴について

まずお前誰なん?ってなる前に言語化に関わるちょっとした歴を。

・現在24歳、大学院生、森林の研究をしている
・高校3年の時に周りがみんな塾に行く中、塾・予備校に行かず大学受験する際に、学んだことをすぐ忘れたり同じミスを繰り返していることに気づいて、繰り返さないために一日学んだことノートを付け始めたことから言語化生活が開始、つまり6年目
・進路に迷い、休学を検討し始めたころからさらに加速し、1年間の計画を全て自分でたてた休学は言語化があったから乗り切れたと思っている
・6年間の間に改良がなされ、現在はよく買えるA4ノートでは1か月もたないレベルの速度で消費してしまうため、自分でコピー用紙を購入し、自作ノートを作っている
・社長にノートの書き方を見て「ロジカルシンキングの基礎ができている」と言われたり、学生団体の仲間がノートを付け始めたりしている
・「自分のため」の言語化をやり続けてきたが、「人に伝える」ことを主軸にした言語化もしようと、休学中からnoteを開始


1年半の間に書き溜めたノート達


全部A4もしくはB5サイズ

その他、地域や自然に関わる価値観や生き方を長期にわたって残していくことをメインに団体創業したり、学生団体つくったり、地域おこしに取り組んでいたりするのでそのあたりは過去のnoteを読んでください。。。

言語化のすごさに気づいた

上にだらだらと書いたように、言語化歴6年目で、それに助けられてきた人生なのだけれど、このすごさに気づいたきっかけをお話ししようと思う。

■ある同世代の起業家や自分の人生を生きる人たちパネルディスカッションイベントに登壇した際、
「これから、進んでいく際に壁にぶつかることはあると思うけど、そうなったときにどうやって進んでいくエネルギーを得てその壁を越えていきますか?」
みたいなお題に対して
結構迷いなく、
「感情や状況の言語化をする」
が出てきた。

さらに、そこにいた先輩起業家の方がそこに強く共感してくれて、同い年の登壇者たちも言語化やってみよう、という話が広がった。
この経験から、自分って言語化に助けられてきたし今後も確実にそれが自分の救いになると思っているから自分を信じて突き進める、っておもえること、意外と、他に色々自分で迷いながら挑戦してきた人たちでさえ、言語化というものに出会わないとやらずに過ごしてくることもあり、それって「知らない」ゆえのもったいないことだなって思ったこと。

つまり、
①これまでの自分をつくる重要要素であることを自覚した
②他の人が意外と「知らない」が原因でやっていないことを知った

■尊敬する経営者から、書いているノートや話し方をみて、「思考のロジカルさ、まとめる力、情報を区別する力」について褒められた
わかる人にはわかるらしい。
だが、これを聞いたときに、明らかにこれは私がノートを書くことを続けてきて、頭の中だけで考える時でさえ、大きなキャンバスに情報を具体例、抽象的なこと、論点、論点解決のための解決策の手段の一つ・・・・
と、分けていくように頭の中を整理していることにきづいた

つまり、
③思考法を紙という見える形に落としてるのが言語化だけど、言語化することで思考方法もどんどん磨かれてた、ということにきづいた

これらが本当に直近2か月以内にあった出来事

ずっと自分と世界を見る、深い世界に一人でもぐりこんでいたのに、
最近人間の世界に出るようになってきて
深い世界で温めていた意味わからない思考を人にも公開してみたりとかそういうことをしてみている故に気づけてきたのだと思う

こんなわけで、私は言語化というもののすごさを信じているので、そのすゝめということで書いていく

メリットをまとめる

まずは、言語化することのメリットを箇条書きにしてみる

自分の頭の中に情報をとどめないで、一回外に置いていくことができる。ものがたくさん必要なんだけど、小さい部屋の中に置いといたらごっちゃごちゃになって必要なものとりだせないから、一回別の部屋に一個一個取り出しておくイメージ。そしたらものが減った部屋の中でなんでもできる気分になるでしょ?

・見える形にすることで、情報なのか、感情なのか、ただのメモなのか、そういうのを整理して関係性というラベルを付けられる。
言葉によって世界は区切られている、言葉で区切る前の世界で人間はものを違うものだと認識することができない、という「世界の言葉による分節化」の概念と同様に、頭に流れ込む情報を分節化し、意味づけをすることにその後を使い方を認識して、最大の活用ができるようになる
たぶん、自転車というものを知らずに自転車をもらってもただものが増えただけだと思うんだけど、「漕いだら歩くよりずっと楽に早く進める乗り物」って認識の自転車をもらったら、移動に使って身の回りが豊かになると思う。もっと複雑でなんにでも使えるけど普通にしてたらよくわからない「自転車」というものに「乗り物かな」っていうラベルを仮にでもつけてみることのイメージ

・思考を視覚的な関係性があるものに落とすことができる
上と近いのだけれど、意外と思考ってわかっているようでわかっていないことも多いものなのだ。というのもそれぞれの関係性とか、この概念の中のこの事例である、とか、この概念とこの概念の被ったところにこの考え方があるとか。って、複雑になるとそんなことわかってるようでわかってなかったりしない??それらをただの文章ではなくて、関係性を持たせた一枚の図面に落とすことができることによって、自分の思考があらわになる。

・できる機能としては👆こんな感じ
たったこれだけ??
って感じなんやけど、これらがあることによってできることは無限大。そう、∞。

私が感じてたりやっていることでいうと、
・とにかく頭の中が混乱している情報量が多い時にとりあえず思ったことや、得た情報、人に言われたことで気になっていることをとりあえず書いておく作戦。
これで、大事な情報だったり、気になることを失わないままに、今やらねばならないことに時間を使える。

・モノを言語化して世界の分節のどこかにぶち込むことができるから、今目の前にあるものをいつか使える、の可能性を高めておくことができる。一個の事象から得られることを増やす。例えば、先輩に、「育ちがいいんだね」って言われたとする。もやもやしてたりそのまま放置しててもこれは何にもならないけれど、「どういうこと?どういう意図?」こんなことを考えてみる。
実家は貧乏だけど、周りには自然があって、地域の人とも関わる機会があったな、そこで周りの人を見てみると意外とそういうことって珍しいし、あれ、私は意外と人のことを見る力は他のひとよりつよいかもしれない。
小さいころから地域の人とか多世代の人となんだかんだつながりがあってコミュニケーションをとっていたことがそれに関係してくるのか…
ってなると地域の価値はそういうところにもあるかもしれないぞ…

だけど、他の人よりも親にもらったもの(=子供のころの環境)によって今うまくいっている部分も結構大きいのかもしれないな。ってことは、それに頼ってたら他の人がそれらを自力で身に着けたとき、その身に着けるスキルまで得て追いついてきた人たちにはどうしてもかなわないだろう、こうやって元から持たせてもらえたものを自分で認識しながら、事実として処理していこう。
みたいな、ある時に一つ気になることを言われてからの言語化と思考がこんな感じ。
最初に「あの一言にちょっともやっとした」これを残しておくだけで、「どうして?」「どこが重要なの?」こんなことや人生への関与を見ることができる。本当は「嬉しい」だけで終わっていたかもしれない情報から、これだけ多くの今後の人生へのヒントを得ることができた。
こんな感じ。どうせこれらは全部仮説なのでどこかで間違ったり余裕でするんだけど、これらを積み重ねると重ねないでは明らかに1年後が違うってことが想像できると思う(してほしい笑)。

・自分の思考のクセだったり、そもそもどう考えているかを、ものすごく客観的に見ることができる。
自分の思考の仕方とか、普通かんがえることなくない??けど、文字化したり、紙に落としてみたりすると、それら、もともと自分だったものを、ちょっと関係ない第三者的視点から見ることになる。これってすごいことだと思ってて、第一者➡第三者に変えることができる手段ってなかなかないよ。自分を人工衛星とか、ドローンから見ることでもなければ自分を見ることなんてできないし、そうやったとしても中身はみえない。
そこで、中身まで見ることができるのはものすごく面白いことである。

・感情をコントロールできるようになる
人間なので、落ち込むこと、他に気をとられて、やりたいのに手がつかないこと、舞い上がっていること、すごくワクワクしてること、ドーパミンドバドバのこと、悩むこと、一歩も足を進められないこと。。。。
いろんなことがあると思う。
これらがあった上でも、それでも、10年後の自分、明日の自分や、周りの人たちには笑っていてほしい、少なくとも私はそう思う。
そのために、自分がどんな状況であってもやることはやりたいときもあるし、もはや、その感情に飲まれているときが重要なこともあるかもしれない。
そんなのを、ちょっとだけコントロールできるだけでずっと楽になるのではないだろうか。
ノートにその時の感情を書くだけで、一個上に書いたように客観的な視点で見ることができて、客観的視点で判断できるからコントロールがしやすいと思う。
イメージでいうと、自分の感情がこうなんじゃなくて、隣の席に座っている同級生の子がめっちゃ悲しんでたり、落ち込んで悩んでたりするのを見てるイメージに変わる。そしたら全然落ち着いて考えられない?
問題はどこなの?何が嫌なの?そしたら、一回寝てみるだけで変わるかもよ~
それってそんなに大きな問題?今一番大事なのって何??

こんな感じで、いろいろ次に進もうとするでしょう。
私はよくどんなにやばい状況のことが起こっても「なるほど」みたいな立ち位置でいるのでよく「感情がない」って言われてたけど、これがすごく影響している気がする。感情のボラティリティがえぐいほど下がる。

ざっくりこんな感じであろうか。

言語化を続ける工夫

かといってノートに毎日何かしら書くとか普通にむずくないでしょうか。。。
って、私も始めたとき思ってました。実際最初はよく3日坊主を繰り返していたので。
これが続けられて6年もやっている理由として、
◆単純に、始めたときの必要性が非常に大きかった
◆毎日やらないと気持ち悪い工夫をしてた

一個目。始めたのは、高校3年、大学受験。なぜか、獣医学部に行きたかった。途中でただの資格にひかれていただけだったということに気づきさっさとやめるのだけど。獣医学部でお金がないから国公立だとめちゃくちゃ偏差値高かった。現在地との差分やばし。現役で、超田舎で、3年になって初めて全国模試での立ち位置を把握する、みたいな感じだとそりゃそう。しかも周りのみんなは予備校に行っていたけどお金がないから自分で勉強していくこと以外の選択肢がなかった。
まあ、つまり自分が頑張らないとどーにもならないという状況。自分の選択が自分の将来を決めるし、基本的にそれ以外の何かに言い訳することが出来ないのでやるしかないからやった。

2個目。それでも3日坊主を繰り返していたので、自分に合わせて、やりたくなってしまうような工夫をすることにした。
それが、ノートではなくて、スケジュール帳の一日の書く欄が大きいものを適用すること、だった。何よりむかしから安藤あかりは、実はちょっと完璧主義なところがあり、やると決めたらやっていないところがあるのが気持ち悪くてやってしまうタイプである。
そんなのを自分で利用して、書かない日があると空欄ができてしまうようにした。どうしても空白ができてしまうのが嫌すぎて、あんどうは毎日ノートを書くようになった。

こんな感じ。

言語化のすゝめ

長くなりました。
割とそんなに設計して書いているわけではないのでまた言語化については書いていきたいのだけれど、毎回、「言語化する」ってことは人生や人格すらもコントロールできるようになる可能性をはらんでいると思っている。

ということで、気になったら、毎日の日記とか感情メモとかでいいのでやってみることを全力でお勧めしたい。全力で。
情報を集める人も良くいる、この文章を読む人もある程度いるでしょう(このくそ長い文章読んでくれただけで普通にすごいけど)それでも一回やってみる人はすごく少ないし、続ける人はさらに少ない。

よく言われるはなしであるが、本当にそうだからよく言われるのだ。
必要だなって思ったらでいいから、やってみてほしい。




今日はこんな感じでしょうか。


ではでは。

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