学を問う、役に立つかは二の次なり

と題して、これから持論を述べますのは、私、教師でも何でもないど素人の若僧でございます。
ですので、余り真剣には受け取ってもらわなんで欲しい。
これは、アマチュアの一私見に過ぎませんゆえ。

私は、今年の三月に大学を出、四月に就職をするも、違和感を覚え、超早期で離職した者です。
学生時代は文学を専門として居りました。
元々は、大学院に進もうと考えて居ったのです。
ただ、文学研究科に進むには、それなりに覚悟が必要でございます。
その先のことを考えると、状況はかなり酷である。
ただ、それは、就職することを考えればの話でございます。
文学は好きであるが、それを専門にして食っていけるのか。
私は、こう考えた時、弱ってしまったわけです。
かくして、民間企業に今年、就職を致しました。
ただ、やはり肌に合わなんだ。
文学に傾倒し過ぎた。というよりも、学問に傾倒し過ぎたんですな。
たかが学部生だろう。四年しか勉強していないのに、傾倒なんぞと言うんじゃない。
それを専門として、食っていけている人等、あるいは、
私よりもずっと上の、地位のある人等から、そう批判されるのも無理はない。
しかし、四年というのは、いや、高校時代から換算するのであれば、七年というのは可成長期間である。
この長期間、学問にどっぷり浸かって来た人間には、どうも普通を強いる社会が肌に合わない。
これは言い訳に過ぎないかもしれないですが、私も社会も、相互に不一致なわけでございます。

前置きはここまでにしましょう。
私は、大学時代は、先にも述べましたように、文学部に所属して居った。
別に就職のことは考えて居りませんでした。
就職のことを考えて居たのなら、経済や経営、法律を学んでいたはずです。
しかし、私は、大学で好きな学問を勉強したかった。
ゆえに、文学を専門的に勉強してきたわけです。
文学といっても、幅広である。
日本文学、英米文学、哲学、教育学、心理学、文化学、考古学などなど、
さまざまありましょう。
私は、その内の英米文学を専門としていましたが、学んでいく中で、
日本の文学の良さに気づかされ、明治、大正、昭和あたりの日本の近現代文学作品に、学生時代は没頭して居りました。
そんな私でしたが、本当に就職のことは、三年になるまで、考えて居りませんでした。
ただ、大学側がですな、三、四年次から、就職セミナーというものを始めるわけです。
であるから、周りの学生たちの意識は、一気に就職活動に切り替わっていくわけです。
私は、そこに違和感を抱いて居りました。
就活を理由にし、授業に参加しない、というよりも参加できない学生たちが出てくる。
おかしいじゃないか。
就職というものが、ある一定の時期から、大学での学びを邪魔してくるんです。
この言い方には語弊があるかもしれない。
学業に専念したいのに、専念できなくなる時期が一定期間あるわけです。
最近、就活の早期化などということが言われ出してきた。
年々、早期内定率が上がっていって、企業が早いうちから学生を確保しようとしているわけです。君たちは、もう労働者であると、早いうちから暗示をかけようとしてくるんです。
そこに違和感を覚えるわけでございます。
逆に早期で内定を獲得していない学生は、何にもしていない人というレッテルを貼られる。いや、違う。
そりゃ、遊んでいるだけの学生もいらっしゃるが、もう少し、ゆったり勉強をしたいという学生も居る。何せ、四年間ある。この四年は貴重です。
この四年で、一冊でも多くの本を読みたい、そう考えている人間だっているはずです。
なのに、企業が発破をかけてくるんです。
かくして、大学も、一般企業化しつつあるように思う。
私はそこに異議を唱えたいと思います。
大学は、あくまでも学問を究める場所である。その学問を、社会にどう役に立てるかを考える場所ではないと思うのです。
今の時代において、私のこのような考え方は古い。
大学で学んできたことをどう活かすかが、重要なのだ。
と批判されるかもしれません。
大学では、勉強をするよりも、他者とどれだけ連携を、コミュニケーションを取って来たかが重要なのだ。
そう仰るのも無理はない。
だが、違う。
大学のあるべき真の姿は、何にも邪魔されず、のびのびと勉強ができる場所である、私はこう考えています。就職のためというのは、二の次である。
私自身も、先述したように就職活動をした身ですが、違和感は払拭しきれませんでした。
それで、今に至るんですがね。でも、今の方が、金はないし、地位もないが、のびのびと本が読めることも事実なんです。
ただ、ずっとこの状態だと、世間体を考えた時、拙いというのも事実。
だが、世間体というものを考えてはいけない気がしてきました。
世間体を考えるか、自我を貫くか。この二択であると思います。
自分が好きなことを続けるには、自分を信じるしかないわけです。
食っていけるかどうかは、生きていく上で重要事項ではありますが、
それを考える余裕があるのなら、一冊でも多くの本を読みたい。
そして、一字でも多くの文章が書きたい。
私は、そう考えているわけです。

ただ、これまでに述べてきたことは、私という一人間の持論、私見に過ぎないわけで、今の時代、このような考え方は古いのだと思う。
大学で、何を学んできたかよりも、何をやってきたかを問われる時代になってきた。私は、なってしまったと言いたいが。
理系と文系というのも関係してくると思う。
理系の場合、大学、大学院で何をやってきたかと問われれば、こういう研究を長時間かけてやって来た、ゆえにこういう、御社に役に立つ知識やスキルがある、なんていう風に結びつけられると思う。だが、文系、特に文学部に属しているような人間がですな、学生時代は、芥川龍之介について研究してきたのだと言うても、果てして、それが、御社にどうお役に立つかは分かりません、という状態である。
いや、お役に立つとするならば、それはきっと、出版社であるとか、、、
お役に立てる場所が、あまり思いつかないのが現状。
何故かというに、企業様のお役に立つために、学問に尽力してきたわけではないのだから。
でまあ、こんな屁理屈を言う人間というのは、なかなか、社会には向かない。
しかし、少なからず、私以外にも違和感を覚えている人はいると思うんです、大学という最高学府の現在の立ち位置について。

私は、先にも述べましたが、教師でも何でもない、ただの人間にすぎません。大学というのも、少子社会である今の日本において、経営戦略上、いかに企業と連携を取っていくかが大事であるのも理解はできます。
が、学問というものが、学問としての意味をなさなくなってきているのも、やはり事実であると思う。

と、長々と書いてきましたが、
ま、大学での4年というのは、非常に貴重なものです。
学問を究めるという意味で貴重なものです。
自分のやっていることが、将来どう役に立つのかと、悶々としていらっしゃる学生さんに伝えたいのが、そんなことを考えるのは二の次でいい。
とりあえず、今は学問を楽しめということです。
それが本来の学生のあるべき姿であると、考えています。

それでは、また。



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