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男、人生を綴る

 ある夜、男は、部屋の片隅をじっと見つめながら、物思いに耽ってみようとした。が、物思いは耽ろうと思って、意識的にするものではない。男は、挫折した。そして、音楽に身をゆだねることにした。しかし、今の気分に合う音楽がなかなか見つからない。アップテンポな曲ではない。今の上がってもなく下がってもいない、何とも形容しがたい気分に合う音楽、そんな都合の良い音楽を探すことの方が大変で、またもや挫折しそうになっていた。男は、むしゃくしゃしてきた。進んでも進んでも、男の進んだ先に待つのは暗い暗い闇である。光の入る余地の無い深海のような真っ暗闇。そんな中に、およそ一年ほど身を置いている。男は、何者なのか。
 
 話は、一年前の4月に遡る。男は、その年、大学を出、無事内定を頂いていた企業に入社。金融マンとしての道を歩もうとしていた。そのときまでは、大学時代からの付き合いである恋人もいた。順風満帆といったところだった。が、自らその生活を手放した。その4月末、男は、早くも退職した。男は、自ら恋人にも別れを告げた。こんな自分、胸を張ってその人と付き合える身分ではないと思ったからである。企業には、自分のやりたいことのために辞めると伝えたが、実際は違う。男は、井の中の蛙だったのだ。幼すぎたのである。大学時代は、勉強に力を入れるといって、ろくすっぽ社会経験を積もうとしなかった。ずっと、自分の世界の中で生きて来たのである。そんな男にとって、突然の社会は、あまりにも広すぎた。男は、委縮してしまったのである。会社を辞めてから、再び男は井の中に戻ってきた。が、職から離れて、いや、恋人を手放して、やっと自分のしたことに強い後悔を覚え始めた。何の理由もなく会社を辞めたので、もう一度就職活動をしようとしても上手くは行かなかった。「前職を辞めた理由は?」その質問に対する答えに詰まった。「一か月?早すぎるよね、うちの会社も早く辞めちゃうんじゃない?」言い返せなかった。男は、自分のしたことが軽率であることを嫌でも自覚させられるのであった。就職活動をしているうちに、心も次第に疲弊していくように感じられた。気づいた時には、足を止めていた。その夏、男は、普通に生きるということを辞めた。酒とタバコに溺れた。もう何のために生きているのか、なぜ生きているのか、そんなことも考えなくなった。周りの人間たちが、自分よりも立派に生きていることを考えれば考えるほど、自堕落に陥った。昼か夜かの区別もつかなくなった。男の人生は、180度一変したのである。
 そんな堕落的な日常を送っていたある日のこと、男は、いつものように煙を吹かしながら、何の目的もなしにスマートフォンをいじっていた。それぐらいしか、男はすることがなかったので。相も変わらず面白くない内容ばかりが散見される。スクロールスクロール。結局、興味の湧く記事は何一つないなと思い、スマートフォンを閉じようと思った、その男の目に、ふと留まった記事がある。

        《あなたの人生、書いてみませんか?》

 小説投稿サイトの紹介記事であるらしかった。ジャンルは、私小説に限られていた。私小説?あまり聞き馴染みのないジャンルだな。男は、元々文学部出身であるので、本は読んできた方だった。今では、全く読みもしないが、ただ小説には疎くない方だと思っていた。ネットで検索してみると、そのまんまだった。自分の経験した生活を基にした小説のことを、私小説という。一昔前の小説家たちがそうであった。たとえば、上林暁や坂口安吾、太宰治などが挙げられる。ふむ。あれは全部私小説だったのか。男は、初めて自分のやるべきことを見つけたような気がした。私小説なら、書けるのではないか。自分の人生を文字に起こしたらいい話。やはり幼稚な考えではあったが、男は兎角やってみることにした。

 男は、家の者が寝静まった夜、独り物思いに耽ろうとしていた。文章というのは、書こうと思って書けるものではない。無意識の中で生まれ出てくるものだと、男はそう考えていたので、とりあえず物思いに耽ろうと考えたのである。が、物思いも、意識的にやろうと思って出来るものではない。やるべきことを見つけたと思った、あれは嘘だったのか。仕方なく、男は音楽を聴こうと思ったが、音楽もなかなか今の気分とは合致しない。文章を書くというのは、こんなにも難しいものなのか。自分の人生を振り返ってみることにした。男は、自分が何者であるのかを改めて考えてみることにした。が、いい答えが出てこない。男は、まだ何者でもない、何者にもなっていないことに気が付いた。目の前が、次第に暗くなっていくのが感じられた。またもや、自分は井の中に戻っていくのか。この閉塞感、自分にはもう耐えられなんだ。はやく外の世界で一人前になりたい、焦燥感。どうすればいいのか。男は、ひたすら言葉を探した。ひたすら考え続けた。そうか。自分は、何者でもない。何者になるかは、これからの自分が、そう、私小説を書いていく中で、見つけていくのではないか。私小説は、別に過去のことを書く必要はない。今、現に自分が思っていることを書けばいいのである。現在進行形で、書き進めていく中で、自分が何者であるかを模索し、その答えに行き着けばいい。男は、そのときには、もう井の外に出ていた。

 男は、探し続ける。そして綴る。自分の人生を。



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