幽閉 10
大きな音と共に、スタジオの扉が開いた。スタジオ内の空気が大きく動いたせいか、僕自身も立ちくらみのような揺れを感じた。「お待たせ、さあ帰ろうよ」言ってとスタジオに入って来たNさんを、僕は呆気に取られて見ていた。「どうしてこの時間が中断されてしまったんだろう」という微かな苛立ちと「どうしてこうも簡単にドアが開いたんだろう」という大きな疑問で、僕の心は少なからず混乱した。
そんな不安をよそに、Nさんは放送室に戻りコンソールの上の書類や筆記具をまとめてランドセルに入れ始めた。Sさんは原稿を机の上でとんとんと揃えて、席を立とうとしてた。僕だけが呆然として、2人を交互に眺めていた。ついさっきまであった出来事がまるで無かったことであったかのように、Sさんはいつもの雰囲気に戻っていた。
「M君、帰るよ」と急かすNさんの言葉に我に返った僕は、机に両手をついてゆっくりと立ち上がった。特別な何かをしたわけでは無いはずなのに、スタジオの空気がやけに重くどうやら目の焦点も合っていないように感じる。僕は両手を机についたまま頭を振り、それからそっと両手を机から離してみる。立つことに問題は無さそうだし、おそらくは歩くことにも問題は無いだろう。
歩けることが判ると僕は真っ先に、スタジオのドアのハンドルを確かめてみた。ハンドルはいまでは僕が開けようと回した方向と逆、つまり上側で止まっていた。試しにそのハンドルを下側に向けてみると、やや重い感触とともに水平の位置まで回って止まりそれ以上下へは動かなくなった。僕はハンドルを上側へ回して開け放たれていたスタジオの扉を閉め、その状態でハンドルを水平位置まで押し下げてドアが閉まっていることを確認した。そしてすぐハンドルを上側へ回して重い扉をそっと押すと、ドアは音も無くゆっくりと放送室へと開け放たれた。
「ドアが開いて良かったね」Sさんがそう言って僕の脇を通り過ぎた。
「ハンドルをこの方向へ回すと、ドアが開くんですね」僕は確かめるようにSさんに尋ねた。
「そうだよ、ちょっと変わった開け方よね」Sさんでは無くNさんが答える。「知らなかった?」
「知りませんでした、スタジオへ入ったことが無かったから」
「それに重いから開け閉めが大変なんだよね」Nさんがうんざりしたように言った。
「防音だから仕方無いけれどね」Sさんが弁護するように言った。「さあ、先生に怒られる前に帰りましょう」
僕はそれ以上、何も言うことが出来なかった。
翌年の卒業式当日、式のサポートで学校へ来ていた僕は卒業するSさんから告白された。僕は彼女から僕が着ていたコートの第2ボタンが欲しいと請われ、僕はちょっと苦労してボタンを引きちぎって彼女へ渡した。彼女はそのボタンを両手で受け取り、僕は恥ずかしさから頭を何度も掻いた。式が終わると僕は彼女と一緒に学校を後にして、(僕の家を通り過ぎて)彼女を自宅まで送った。彼女はボタンを両手に持ったまま、僕はコートの第2ボタンがあったところにかつてあったその存在を感じながら。
その年の夏も、彼女と一緒に地元の盆踊りへ行った。僕たちは2人で色違いのわたあめを時折分け合って食べながら、ベンチに座ってこれから上がるであろう花火を心待ちにしていた。彼女は浴衣姿で、相変わらず素敵な香りをまとっていた。僕は彼女に気付かれないようそっとその香りを胸に留め、ずっと聴きたかったことを聴いてみた。
「ねえ、ひょっとして君はあのスタジオの扉の開け方を知っていたの?」
彼女は僕の方を見て、僕の口の端に付いたわたあめのかけらを取って自分の口に含んでから言った。
「どうしてそんなことを聴くの?」
「知らなかったのは僕だけだったんじゃ無いかと思ったんだ。それってなんだか馬鹿みたいじゃないか」
「つまり私がそれを知っていたけれど、隠していたってこと?」
「そうじゃないよ」僕は慌てて否定した。「隠していたかどうかじゃなくて、ただ知らなかったのは僕だけだったのかが知りたいだけ」
「不安なのね」
「そうかも知れないし、ただ知りたいだけなのかも知れない」
「知らない方が良かった、ということも世の中にはあるらしいよ」
「そうだね、でも君が僕の立場だったら知りたいと思わないか?」
「そうね、そう思うかも知れない」
「だから教えて欲しいんだ」
「それって私にお願いしているの?」
「そうだよ、もちろん」
「そうね、いつか教えてあげる。でもいまはお祭りを楽しみましょう」
花火が上がる時間が、近付いていた。僕はため息をついて、彼女の横顔を眺め続けた。間も無く上がる色とりどりの花火が彼女の姿を照らす頃、僕の気持ちが花火にかき消されるのは時間の問題だと知りつつも。