【幽閉】 01
僕の住む家の近くには小学校が無く、入学してからずっと自宅から私営バスで20分ほどかかる小学校へ通っていた。1人でバスに乗ることすら初めての体験で不安もあったけれど、幸い同じ団地から通う同学年の友達がいたため実際はそれほど淋しい思いもせずどちらかというと割と楽しく通うことが出来た。
それから3年が経ち僕が3年生になった時、近所に新しい小学校が完成し僕たちはいままで通っていた小学校からその真新しい小学校へと”転校”した。廊下も壁も天井も窓もぴかぴかで、独特の香りが校舎中に溢れていた。机や椅子はガタつかず傷も無く、真新しいランドセルも加わってそこは文字通り新しい世界だった。変わり映えしないのは、新しいクラスメイトに混じって3年間遠く離れた小学校へ一緒に通ったかつての級友たちだった。
通学時間が自宅から徒歩3分といままでより格段に短くなり、僕はそれまで以上に増えた時間を勉学では無くそれ以外に使った。授業が終わると走って自宅へ戻り、縁側へランドセルを放り投げた次の瞬間友達と遊ぶためにまた走り出した。夏は汗びっしょりに、冬は手に霜焼けをこさえるまで遊んだ。勉強した記憶は、ほとんど思い出せない。
5年生になると、学校の決まりで委員会に所属することになった。数ある委員会の中で唯一惹かれたのが放送委員会で、僕は立候補して無事に放送委員会の委員となることが出来た。委員には僕の他に数名の同級生と同じく数名の上級生(6年生)が所属していて、それぞれが校内放送などの実務に従事した。
初めて目にする放送室が僕にはとても新鮮に映り、僕はそれまで友達と遊んで過ごしていた時間をそれらの放送用機材に触れることに置き換えた。室内は木材で出来た壁で覆われていて木の香りが鼻を優しく刺激し、床には柔らかなベージュのカーペットが敷き詰められていた。ガラス窓の向こうには小さなスタジオがあり、マイクが備え付けられたマイクスタンドが置いてあった。
給食を食べる時間になると、僕たちは交代で放送室に行き音楽を流したり簡素な連絡事項を知らせたりした。音楽は放送室に用意されたクラッシック音楽のカセットテープを曜日に応じて選んで流し、連絡事項は先生から渡されたメモ紙の内容を音楽の合間にマイクを使って伝えた。自分の声がいくつものスピーカーから聞こえることにちょっとした緊張と興奮を感じたけれど、慣れてしまうとまるでテレビのニュース番組で喋るアナウンサーのような気分になった。
僕は放送用機材の基本的な操作方法や役割を覚え、音楽の音量をより適切に(食事の邪魔にならないよう)調整したり音楽からマイクへ切り替える時にフェードイン、フェードアウトという技法を使ったりクラッシック以外の音楽(主に流行りのポップス)が入ったカセットテープを先生から借りて流したりと色々な工夫を凝らした。他の委員と話し合って役割分担をより明確にして、何人かの委員と文章を滑らかに読む練習もした。
そんなふうに放送委員会の仕事に多くの時間を割いているうちに、他の委員の人たちとも仲良くなっていった。どちらかというと上級生の方が多い委員だったけれど、僕は上下関係が厳しい環境に身を置いていたこともあって上級生への接し方をある程度心得ていたので、上級生からの評判は少なくとも悪くはなかった。一部の上級生からはよく面倒を見てもらってもいたし、トラブルらしいトラブルも僕の知る限り皆無だった。