教師資格について。
ぼくは浄土真宗本願寺派の僧侶です。
本願寺派には、「教師」という資格があります。
教師といっても、どこかの学校で先生になるための資格ではありません。
じつはよくわかっていないのですが、基本的には、お寺の住職になるために必要な資格だと思っています。
浄土真宗本願寺派において、「僧侶」を名乗るためには、「得度式」を受ける必要があります。
ほかに、生涯を親鸞聖人の門流の仏弟子として生きることを誓う儀式である「帰敬式」というものもあります。
こちらは主にご門徒さんが受ける儀式です。
ぼくは行信教校という学校に入ってから2年後(だったと思います)、得度式を受け、正式に僧侶となりました。
じつは得度したときも、いろんな葛藤がありました。
浄土真宗において、僧侶は特別な存在ではありません。
僧侶だからといって特別に法力があったり、特別なお浄土に生まれていくことができたり、生活のなかで特別に守らなければならない決まりごとがあったり、などということはありません。
ご門徒さんと同じく浄土真宗という教えを聞かせていただき、同じようによろこばせていただく、御同朋、御同行のひとりに過ぎません。
ただ魚屋さんが魚について詳しいのと同じように、浄土真宗の専門家として、ご門徒さんから疑問を投げかけられたときに答えられる存在。
あるいはその場で答えられなくても調べて答えられるような環境に身を置く存在だと思っています。
生涯をお念仏の道場として生きる、という点においては、ご門徒さんとなにも変わらない存在なのです。
この記事でも書いたように、ぼくはお寺の出身ではありません。
そんなぼくは、べつに得度して「僧侶」となる必要などなく、帰敬式を受けてひとりの浄土真宗の門徒として生きるのも選択肢のひとつだなあ、とどこかで思っていたのです。
しかし行信教校の先生方のあり方にあこがれを持ち、お仕事をして対価を得るのではなく、ただただひとびとの善意によって生かされるという生き方への敬慕の念が強くあり、得度を受けてお坊さんになることにしました。
得度についてはけっこうすんなり決めることができたのです。
さて問題の「教師」です。
ぼくはいまだ教師資格を持っていません。
教師資格を取得していない最大の理由は、ぼくが面倒くさがりなことでしょうか。
住職としてどこかのお寺をお預かりする予定もないし、いますぐに必要になる資格でもない、などと考えて、ズルズルと先延ばしにしてきたのです。
心のどこかで「取っといた方がええかなあ」などと考えていたにもかかわらず、です。
浄土真宗本願寺派において、教師資格は僧侶としてのさまざまな資格の基礎となる資格です。
学僧としての位をあらわす「学階」を取得するにも、教師資格が必要。
布教伝道の専門家であることをあらわす「布教使」を取得するにも、教師資格が必要。
勤行の専門家であることをあらわす「(特別)法務員資格」を取得するにも、教師資格が必要。
そんな基礎の資格が、教師資格なのです。
細々とした制度上の説明は省きますが、教師資格を取得するためには、講習会を受講し、試験に合格せねばなりません。
ただし、行信教校を含む認定校を卒業した者は、期限つきで講習会と試験が免除となります。
じつはこの期限が、ぼくの場合、今年度までだったのです。
そして今年度の教師資格の募集は、終了してしまいました。
ぼくは申し込んでいません。
つまりぼくは、教師資格を取得しようとした場合、講習会を受講し、試験を受けなければならない身分となってしまったのです。
面倒くさがって早めに申し込まなかったから、余計に面倒くさい手続きを踏む必要が出てきたのです。
アホですね。
しかし自己弁護をさせてください。
ただ面倒くさいというだけが、ぼくが教師資格を受けてこなかった理由ではありません。
その資格はぼくに本当に必要なのか、ぼくはその資格に本当にふさわしいのか、という引っかかりを感じていたのも事実です。
教師資格を取得する際に参加する「教師教習」では、「教師は僧侶の範となる者である」と繰り返し注意されると聞いています。
「僧侶の範」、非常に厳しい言葉ですね。
僧侶の模範ということでしょう。
これを聞いてぼくは、「模範的な僧侶かあ、ぼくはちょっと……」と尻込みしてしまうのです。
ぼくは頻繁にいらんことを言ってしまうタイプで、失言、放言、暴言なんでもござれの口業の悪のデパートみたいな人間です。
一日の大半は自分の利益を最大化するようなことしか考えていません。
そんなぼくが、「僧侶の範」になれるとはとても思えないなあ、などと感じてしまうのです。
多くのひとは、そんなことに躓かないのかもしれません。
しかし得度のときもそうでしたが、ひとが躓かないところで躓いて考え込んでしまうのが、ぼくという人間なのです。
自分で言うのもなんですが、真面目すぎるのかもしれません。
ただ最近は、後輩のみなさんから「はよ教師取ってくださいよ」などと言われることが増えてきました。
行信教校でも大学院でも、です。
たしかにこれからの生き方や日暮らしを考えたときに、教師資格は取得しておいて損はありません。
宗学院という学校にも籍を置いているのですが、そこでは卒業までに学僧の位である「学階」を取得することが義務づけられています。
つまりその前提である教師資格は取得せねばなりません。
ほな重い腰を上げて教師取るかあ、「僧侶の範」とかいう問題は棚上げするかあ、などとようやく決意を固めたところです。
このあいだ大学院のゼミコンパがありました。
そこでまたもや教師資格の話題が出ました。
はじめて、「僧侶の範」問題が気にかかっていることを、ひとに話してみました。
相手は後輩の方々だったのですが、その方々は口々に思うところを述べてくださいました。
そのなかで特に印象に残った言葉がありました。
「僧侶の範かどうかなんて、自分で決めることじゃないんじゃないですか?」
たしかにそのとおりです。
ぼくが僧侶の範としてふさわしいかどうかなんて、自分で決められるはずがありません。
ただそのように意識して行動すること、それが大切なことなのだろうと思い知らされた次第です。
そう思ってあらためて浄土真宗本願寺派における「教師」の規定を読んでみました。
そこには次のようにあります。
教師は、僧侶の本分をつくし、一般僧侶の範となり得る者に授与する。
なるほど。
「一般僧侶の範となる者」ではなく、「なり得る者」というのがきっと肝なのでしょうね。
僧侶としてのあるべきすがたを自分なりに設定して、それを目指して生きよ。
それを範としてくれるひとがもしもいてくださるのならば、それはたいへん恵まれたことである。
できるかぎり、可能なかぎり、力を尽くして努力せよ。
そんなことを思います。
そんなわけで、体調がこのまま安定してくれたら、来年度にでも教師資格を取りに行く決意を固めた、というお話でした。
おわり。
釋圓眞 拝
南無阿弥陀仏