ムキにならんでもええことにムキになってみる。
以前書いた記事がきっかけで、Abemaさんというメディアから取材の依頼があり、インタビュー映像を流していただきました。
スヤスヤ教について書いたこの記事です。
さまざまな面倒事を「宗教上の理由で」と言って断りたい、ということから立ち上げられた宗教、スヤスヤ教について、法然聖人と対比して考えてみました。
これがなぜかメディアの方の目にとまり、映像出演することになったというわけです。
YouTubeで無料公開されているようなので、貼っておきます。
https://youtu.be/s_H_o1muQBI?si=MXVPCx9Q6LM2zSE5
実際のインタビューは20分ほど撮っていただいたのですが、まとまらないぼくの話を取材のご担当の方が上手いことまとめてくださり、番組の趣旨に沿うように編集してくださったようです。
取材いただいたご担当の方にはたいへんご苦労をおかけしたことと思います。
さて放送をみたぼくの感想ですが、日本人の持つ宗教への解像度があまりにも低いことが露呈しており、またスヤスヤ教の悪質なところには触れられず、かなりうんざりしました。
番組スタッフの方を責めたいわけではありません。
取材を受けた段階で、「メディアですから、一方的にスヤスヤ教を断罪するようなかたちにはしたくない」とおっしゃっていました。
メディアの姿勢として当然だと思います。
メディアに露出するということは当然、炎上リスクもあるわけですから、ぼくもできるだけ過激なことは言わないように、穏当なことを話すように努めました。
過激派のぼくですが、そのへんの匙加減をがんばったわけです。
さて番組の内容です。
全体として、かなりスヤスヤ教に好意的なご意見が多かったようにお見受けしました。
「無宗教」を標榜し、いろんな宗教の行事だけお祭り感覚で参加するひとの多い平均的日本人のご意見はそんなものでしょう。
それを責めるつもりはありません。
ただオンラインで参加していた宗教学者、てめえはダメだ。
許さん。
北大の教授だかなんだか知らんが、てめえはスヤスヤ教の抱える問題点について指摘するのが役割やろうが。
空飛ぶスパゲッティ・モンスター教の専門家なら、聖句をもじられたことによる信徒の不快感は想像できるやろ。
その情報を言わんかい。
スヤスヤ教なんか節操なくいろんな宗教の聖句をもじりまくってるやんけ。
なに中立気取って冷笑しとんねん。
とまあ、こんなことを感じたわけです。
スヤスヤ教の立ち上げの際にもじられたのは、『旧約聖書』の「創世記」です。
ぼくはキリスト者でもユダヤ人でもないので特になんとも思いませんが、その宗教を本気で生きている当事者の方は不快に思われるだろうと想像しました。
その投稿がバズったあと、スヤスヤ教の開祖を名乗るアカウントは、次々にさまざまな宗教の言葉をもじって投稿しておられます。
そのなかには「南無阿弥陀仏」という六字をもじったものもありました。
なにやら「南無安眠陀仏」などというふざけたことを言っておられるようです。
これについては、心のせまいぼくは、かなりカチンときました。
その言葉はおもちゃにして遊ぶための言葉ではない、と。
番組でも放映していただいたように、既存の宗教界から大きな批判を集めた、集めている、という点において、法然聖人とスヤスヤ教は似ています。
ただチクリと釘を刺しておいたように、スヤスヤ教の開祖のお方には、批判されることへの覚悟、というのはどれだけあるのでしょうか。
スヤスヤ教の設立の背景には、ブラック企業ではたらき、過労死寸前までいってしまったお知り合いがいたとかなんとか、そういうハートウォーミングなストーリーがあるそうです。
それについて考え抜いて、スヤスヤ教の設立を決めた、とのこと。
実際、現代社会においてブラック労働というものは社会問題化しており、喫緊の課題と言ってよいでしょう。
その志はたいへんすばらしいものだとぼくも思います。
しかしはたして他宗教の聖句をもじる必要性はあったのでしょうか。
そこに蓋然性はまったくないように思えるのですが、いかがでしょう。
べつに既存の宗教に対するアンチテーゼでもなんでもない、ただ「面倒事を断りたい」というだけの宗教ならば、オリジナルの聖典をつくればよかったのに、既存の、よく知られた聖句をもじったのはなぜなのでしょうか。
そこにあったのは、「こういうもじり方をしたらウケるかな」、「これはバズるかな」という期待なのではないですか。
スヤスヤ教を立ち上げたアカウントを運営されているお方は、「怒られるかも」とご自分でおっしゃっているように、批判されることはわかっておられたようにもみえます。
しかしその割には、さんざん批判されているにもかかわらず、その批判に真っ向から応答することはなく、ただ自分に好意的な意見のみを紹介し、批判的な意見に触れようとはしません。
批判に対して真っ向から立ち向かわれた法然聖人と対照的な態度です。
ただスヤスヤ教を好意的に受けとめておられる方だけを相手にし、内輪のノリで次々にさまざまな宗教の言葉をもじって遊んでいるだけ。
ぼくの目にはそう映ります。
それは「批判を覚悟で」とは言いません。
ただただ宗教というものをナメており、冷笑しているだけです。
こんなにムキになる話ではないのだろうと思うのですが、あえてムキになって書いてみました。
あるいは、信仰を持つひとの、いまのぼくのような態度が、日本において宗教というものを気軽に語りにくくしている原因のひとつなのかもしれません。
いわゆるジョーク宗教で、本気で信じているひとなどはいないのだから、ムキになる必要もないのでしょう。
睡眠を大切にするという意識づけに寄与し、それによって生きやすくなった方もおられるでしょう。
しかし他宗教の聖句をもじって遊んでいるという点において、スヤスヤ教はもじられている宗教を真摯に生きているひとを踏み躙っています。
日本人は宗教的多様性に寛容である、というような言説がしばしばみられます。
しかし無理解であることと、寛容であることは異なります。
ぼくのみている限り、日本人の多くは宗教的に寛容なのではなく、理解がないだけです。
他者の信仰というものを知りもしないし、知ろうともしない。
信仰というものが信仰者にとってどれほど重大な意義を持っているのかがわからないし、わかろうともしない。
宗教に対して、語の本来の意味でナイーブすぎるのです。
つまり、宗教というものに対してきわめて無知で、鈍感です。
真の寛容性というものは、相手を知ること、相手の大切にしているものを尊重しつつ、批判するべきは批判し、対論によってよりよき関係性を見出していこうとする不断の努力によってようやく達成されるものなのではないか、などとと考えています。
ああそれから。
さきほどAbemaさんの番組のYouTubeのコメント欄をざっとみたのですが、浄土真宗の教えの受けとめ方についてたいへんええ加減なものが多くあり、どこが情報源なんやろか、などと感じたところです。
でもそういう誤解をしておられる方々に対して、すこしでもきちんとしたご法義をできるかぎり取り次がねばならんなあ、という決意を固めた次第です。
今日はここまで。
釋圓眞 拝
南無阿弥陀仏