煩悩のこと。
仏教語に「煩悩」という言葉があります。
この言葉を聞いたことのないひとは、たぶんいないでしょう。
身近なところで言えば、大晦日の除夜の鐘。
あれは108回撞かれます。
煩悩の数と言われていますね。
さてこの煩悩ですが、「仏教は煩悩をなくすための教えである」というイメージを持たれているのではないかと思います。
ぼくもそう思っていました。
実際そのように説かれている一面もあります。
また、「煩悩をなくしてしまったら、意欲もなくなってしまい、空虚な存在になってしまうのではないか」とも感じられるのではないでしょうか。
ぼくもそう思っていました。
しかし煩悩とは、仏教において、単になくしてしまうべきものではなくて、意味を転じられるべきものであると聞いています。
「煩悩があるからこそ、人間は生きていられるのではないか。煩悩は邪魔な存在ではない」と感じる方もいらっしゃるでしょう。
ぼくもそう思っていました。
実は、煩悩は人間という存在に具わっているものですが、宗教的目標を持たないひとにとっては、「身心を煩わし悩ませるもの」という意味を持っていません。
それでも知らず知らずのうちに自らを苦しめ、他を傷つけていることに変わりはありませんが。
ともあれ、今回の記事では、そんな煩悩のことについて、ぼくが聞いてきたことをどう受けとめているか、まとめてみたいと思います。
まずは煩悩の種類について。
ここでは、数多くある煩悩を「三毒」と呼ばれるものに代表させて紹介します。
次に煩悩が煩悩化するという話。
先にもすこし触れたように、煩悩は宗教的な目標を持たないひとにとっては、「煩悩」という意味を持ちません。
どのようにして煩悩が煩悩化するのか、その点に言及してみたいと思います。
最後に、煩悩の意味が転じられることについて。
煩悩は、なくしてしまうべきものではなく、智慧によってコントロール下に置かれるべきものなのです。
智慧のコントロール下に置かれた煩悩は、その様相を変えます。
このことに触れてみるつもりです。
煩悩の種類の話
まずは、煩悩の種類について書きましょう。
さまざまな分類法があります。
しかしここでは、ぼくがもっとも頻繁に触れている、「三毒」と呼ばれる分類法に従います。
三毒とは文字通り、身心を蝕む三つの毒という意味です。
煩悩はぼくたちの身心を蝕んでいるのですね。
三毒は「貪欲(とんよく)」・「瞋恚(しんに)」・「愚痴(ぐち)」の三つです。
順番に見ていきましょう。
貪欲は、むさぼりのこと。
凡夫(ぼんぶ)は世界が自分の思い通りになるべきだという誤った見解をもとに、自分にとって都合のいいものをどこまでも求めていくことです。
自分の望みが叶えば一時的に満足しますが、その満足は長続きしません。
もっと、もっと、とどこまでも際限なく、欲望の充足を求めていきます。
これがむさぼりのこころ、貪欲です。
瞋恚は、いかりのこと。
凡夫は世界が自分の思い通りになるべきだという誤った見解をもとに、自分にとって都合の悪いものをどこまでも排除しようとします。
自分にとって都合の悪い状況や都合の悪いひとがやってくると、腹を立て、排除しにかかります。
排除することに成功したとしても、また都合の悪いことが起きて、また腹を立て、どこまでも際限なく自分の都合のいいように世界の方をつくり変えようとします。
これがいかりのこころ、瞋恚です。
愚痴は、おろかさのこと。
「愚痴を言う」などと用いられる言葉の語源ですが、意味はちがいます。
凡夫が持っている、世界が自分の思い通りになるべきだという誤った見解のことです。
むさぼりやいかりのもととなる見解です。
世界は自分の思い通りにはなりません。
ぼくたちの思いとはまったく無関係に、世界は動いています。
それなのに思い通りになったりならなかったりしたときに一喜一憂して、あるときはむさぼり、またあるときは腹を立てているのが、凡夫のかなしいあり方であると、仏教では説かれます。
さて以上のように三毒を簡単に説明してみました。
愚痴を根本とし、そこから生起するのが貪欲と瞋恚であるという関係性がおわかりいただけたかと思います。
ちなみに、仏教の中心的な教えである「苦」も、愚痴と無関係ではありません。
自分の思い通りにならない世界を思い通りにしようとするのが愚痴を抱えた凡夫ですから、そこに「苦」が生まれると言われるのです。
このことはまた別の機会に書いてみるつもりですので、ここでは一旦措きます。
煩悩について見てきましたが、いかがでしょうか。
みなさまは煩悩に「煩わされ、悩まされて」いますでしょうか。
天岸淨圓先生からぼくがお聞きしたところでは、宗教的目標を持ったことのない方にとっては、煩悩が煩悩ではないと受けとめています。
煩悩が煩悩化するとはどういうことか。
すこし書いてみたいと思います。
煩悩が煩悩化する話
宗教的目標を持ったことのない方にとって、煩悩は煩悩ではないと聞いています。
「ワシの好きなもん追い求めてなにが悪いねん」、「腹立つことに腹立ててなにが悪いねん」という意識にとって、煩悩は「煩悩(身心を煩わせ、悩ませるもの)」という意味を持っていません。
もちろんそれでも、自他を傷つけ、苦しめていることには変わりはありませんが。
無自覚な分、余計にタチが悪いと言えるかもしれません。
それではいつ、煩悩は「煩悩」となるのでしょうか。
この話をするとき、天岸先生が触れてくださるものがあります。
「二河白道の譬え」です。
中国浄土教の大成者である善導大師(ぜんどうだいし)が用いてくださった譬えです。
すこし長いですが、譬えの部分だけ、以下に示します。
たとへば、人ありて西に向かひて百千の里を行かんと欲するがごとし。忽然として中路に二の河あるを見る。一にはこれ火の河、南にあり。二にはこれ水の河、北にあり。二河おのおの闊さ百歩、おのおの深くして底なし。南北辺なし。まさしく水火の中間に一の白道あり。闊さ四五寸ばかりなるべし。この道東の岸より西の岸に至るに、また長さ百歩、その水の波浪交はり過ぎて道を湿し、その火炎また来りて道を焼く。水火あひ交はりて、つねにして休息することなし。この人すでに空曠のはるかなる処に至るに、さらに人物なし。多く群賊・悪獣ありて、この人の単独なるを見て、競ひ来りて殺さんと欲す。この人死を怖れてただちに走りて西に向かふに、忽然としてこの大河を見て、すなはちみづから念言す。「この河は南北に辺畔を見ず。中間に一の白道を見るも、きはめてこれ狭小なり。二の岸あひ去ること近しといへども、なにによりてか行くべき。今日さだめて死すること疑はず。まさしく到り回らんと欲すれば、群賊・悪獣漸々に来り逼む。まさしく南北に避り走らんと欲すれば、悪獣・毒虫競ひ来りてわれに向かふ。まさしく西に向かひて道を尋ねて去かんと欲すれば、またおそらくはこの水火の二河に堕せん」と。時に当りて惶怖することまたいふべからず。すなはちみづから思念す。「われいま回らばまた死せん。住まらばまた死せん。去かばまた死せん。一種として死を勉れずは、われむしろこの道を尋ねて前に向かひて去かん。すでにこの道あり。かならず度るべし」と。この念をなす時、東の岸にたちまち人の勧むる声を聞く。「なんぢ、ただ決定してこの道を尋ねて行け、かならず死の難なからん。もし住まらば、すなはち死せん」と。また西の岸の上に人ありて喚ばひていはく、「なんぢ一心正念にしてただちに来れ。われよくなんぢを護らん。すべて水火の難に堕することを畏れざれ」と。この人すでにここに遣はし、かしこに喚ばふを聞きて、すなはちみづから身心を正当にして、決定して道を尋ねてただちに進みて、疑怯退心を生ぜず。あるいは行くこと一分二分するに、東の岸に群賊等喚ばひていはく、「なんぢ、回り来れ。この道嶮悪にして過ぐることを得ず。かならず死すること疑はず。われらすべて悪心をもつてあひ向かふことなし」と。この人喚ばふ声を聞くといへどもまた回顧せず。一心にただちに進みて道を念じて行けば、須臾にすなはち西の岸に到りて、永くもろもろの難を離る。善友あひ見えて慶楽すること已むことなし。
物語形式で語られる浄土教のあり方です。
だいたいこんな話です。
あるひとがいた。
そのひとが西に向かってはるかな旅に出ようとした。
すると、忽然として二つの河が現れた。
一つには火の河、二つには水の河。
それぞれ広大で、底知れない深さを持っている。
火の河と水の河の中間、向こう岸に向かって、一本の白道が伸びている。
わずかな幅しかない白道が。
白道には火の河、水の河から火や水が迫っている。
辺りにはひとがいない。
旅人がひとりで歩いているのを見て、多くの盗賊や猛獣が競うように迫ってきて、旅人を殺そうとする。
急いで西に向かうが、火の河と水の河が立ち塞がる。
旅人は思う。
この河は広大で、迂回することはできない。
中間に白道があるが、あまりに狭くて心許ない。
どのようにして向こう岸に渡ればよいのだろうか。
そう逡巡している間にも、盗賊や猛獣は迫ってきている。
そして旅人はまた思う。
引き返したとしても、死ぬだろう。
ここにとどまっていたとしても、死ぬだろう。
白道をゆこうとも、おちて死ぬだろう。
どうせ死ぬのなら、せめて前向きに死んでやろう。
道があるのだから、きっと渡ることができる。
そう決意したとき、こちらの岸から、「なんじ、ただこの道をゆけ。決して死ぬことはない。ここにいれば死んでしまう」という声が聞こえてきた。
また向こう岸にいるひとは、「なんじ、ただ一心にまっすぐこの道を渡ってこい。わたしが護っている。水の河や火の河におちる心配はいらない」と喚(よ)んでいる。
旅人はこれらの声をきいて、間違いなく渡ることができると思って、白道を歩み出した。
すこしゆくと、もといた岸から、盗賊や猛獣が「なんじ、引き返すべし。その白道は危険で、渡り切ることなどできない。われわれは決して悪意を持って言っているわけではない」と喚んでいる。
旅人は盗賊や猛獣の声をきくが、もはや逡巡しない。
ただ一心に白道を渡りきり、難を逃れることができた。
向こう岸から喚んでくれていたひととあいまみえて、大いによろこんだ。
こんな話です。
このすべてについて書こうと思うと、とんでもない分量になってしまいますので、今回の記事に関係するところだけ。
この譬えに出てくる火の河と水の河はそれぞれ、瞋恚と貪欲の煩悩をあらわしています。
どこまでも広く、底知れない深さを持っている煩悩です。
こちらの岸は迷いの世界、向こうの岸はさとりの世界です。
旅人は、ぼくのことです。
広げて言えば、迷いの生を生きている者たちです。
この譬えは「人ありて西に向かひて百千の里を行かんと欲するがごとし。忽然として中路に二の河あるを見る」と始まります。
意識していなければ「ふーん」と読み飛ばしてしまいそうな箇所です。
しかし天岸先生は、「人ありて」で一旦文を切れとおっしゃるのです。
誰もが宗教的目標を求めて生きているわけではない。
ここは宗教的な意識を持たないひとのことだと思え、とおっしゃるのです。
そんなひとが「西に向かう」というのがポイントです。
「西」という方角は、いまは宗教的目標と思ってください。
苦悩を超える道を求めて、阿弥陀仏の浄土という世界を求めようとしたと言うのです。
「百千の里なり」と言われるように、それははるかな旅路です。
しかし、なんの宗教的目標も持たなかったひとが、目標を定めて、一歩を踏み出した。
そのとき「忽然として中路に二の河あるを見る」と言われます。
「忽然と」と言われますが、元々水火の河はそこにあったのです。
あったのだけれども、それに気がつかなかった。
見てみぬふりをしていた。
しかし宗教的な目標を持ったときに、それが障害物として、はじめて意識されるようになった。
それが「忽然と」と表現されているのです。
そこで意識されるのは、貪欲と瞋恚という煩悩です。
道を求めたときにはじめて、煩悩が「煩悩」として、苦悩を超えていくにあたって克服されるべき課題として立ちあらわれるのだと聞いています。
煩悩は宗教的な目標を持ったときにはじめて、「煩悩」として、克服されるべき課題として意識される。
そんな話を書くために、かなりの文字数を費やしてしまいました。
最後に、煩悩を克服したとき、煩悩がどのように変化するのかという点について触れておきます。
最初にも書いたように、煩悩が克服されたとき、煩悩はなくなってしまうのではなく、意味を転じられるのです。
煩悩が転じられる話
「煩悩を断ち切る」と仏教では説かれます。
しかしこう聞いたとき、煩悩を断ち切ったひとは、なんだか無気力なひとになるように感じませんか。
しかしそれはちがうのです。
煩悩はたしかに欲望のエネルギー体です。
それを断ち切るというのですから、さとりとは虚無感のただよう、気力のないすがたのように感じるかもしれません。
でも、本当のところは、さとりとは、煩悩というエネルギーを完全に制御下に置くことを言います。
凡夫における煩悩とは、世界が自分の思い通りになるべき、という自分勝手な思いである「愚痴」にによって生まれる、と申し上げました。
しかしさとりを開き、自分勝手な思い、つまり我欲を完全に離れると、愚痴は智慧に転換します。
智慧によるコントロールの効いた貪欲は、一切の生きとし生けるものを安らかでしあわせな境地に導きたい、という「願い」に転換されます。
我欲にとらわれている煩悩としての貪欲と、我欲を完全に離れたさとりの境地からの願いは、異質なものではありません。
ただコントロール機能がちがっているだけなのです。
自分のことしか眼中にない、我欲にまみれたぼくの貪欲と、一切の生きものよ、安らかであれ、という仏さまの無私な願いは、同質のものです。
だから凡夫の抱える煩悩は、さとりを開いたならば、そのまま一切の生きとし生けるもののしあわせを実現しようという大慈悲に転換するわけです。
智慧が、底知れない無量の煩悩を無量の大慈悲へと転換させるのです。
両者は「欲」という点では同じもの。
しかしまったく正反対の性質を持っているわけです。
瞋恚、つまりいかりにしても同じことです。
凡夫のいかりは、わたくしの名誉を守るために、わたくしの持ち場を守るために、わたくしの望みに反するものを罰するために。
どこまでいっても「わたくし」から離れられません。
我執がそうさせているのです。
仏さまにもいかりがあります。
「怒るべきときに怒らんのは、ただの腰抜けだよ」
と梯實圓和上がおっしゃっているのを、音源データでお聞きしました。
ひとびとの真のしあわせを妨げ、安らぎを妨げ、我欲を助長するようなものに対して、仏さまはいかられます。
凡夫が自分の都合に合わないからと言っていかっているのとは、正反対のいかりです。
さてこのような事情がありますので、「煩悩を断ち切る」と説かれるとき、「煩悩(と我執の関係を)断ち切る」と読むのがよかろうと思うわけです。
煩悩はただひたすらに悪ではありますが、かといってなくしてしまうべきものではなく、きちんとしたコントロール機能の制御下に置かれるべきもの、と考えるべきでしょう。
仏教のおもしろく、ありがたいところです。
煩悩の意味は転じられて、仏徳となるのです。
言いたかったことはおおかた書けたように思います。
またまた長くなってしまいました。
今日はここまで。
釋圓眞 拝
南無阿弥陀仏