よろこび。
先日、行信教校の学生たちで忘年会をやりました。
いつものように、バカな話やくだらない話をしつつも、いつのまにかご法義の話になっていたりする、不思議でありがたい飲み会でした。
さてそんな飲み会でのこと。
ある後輩のお方が「親鸞聖人にとってのよろこびはなんだったのか」という疑問をお持ちのようでした。
宗教において「よろこび」は非常に重要性が高いものであると考えています。
仏教とて例外ではありません。
仏教というと、どうしても「一切皆苦」といったネガティブな言葉が思い出されるかもしれませんが、実は仏教は「よろこび」を非常に大切にしてきた宗教です。
愛憎を超えて、「よろこび」の地平を切り開くのが仏教だと言ってもいいかもしれません。
浄土真宗もそうです。
今日は、親鸞聖人にとっての「よろこび」とはなんだったのか、つらつらと書きつけておきたいと思います。
親鸞聖人というお方は厳密に漢字を使い分けられました。
「よろこび」についても、「歓喜」と「慶喜」で、それぞれ意味が異なるのだとおっしゃります。
まずは「歓喜」について、次のように述べられています。
「歓喜」といふは、「歓」は身をよろこばしむるなり、「喜」はこころによろこばしむるなり、うべきことをえてんずと、かねてさきよりよろこぶこころなり。
ここで、「歓喜」とは「うべきことをえてんずと、かねてさきよりよろこぶこころ」と言われます。
「えてんず」とは、聞きなれない言葉遣いですが、「んず」は「むず」のこと、「むず」は未来のことについて推量する意味を持ちます。
つまり、「得べきことを得ることができると、あらかじめ先立ってよろこぶこころ」が「歓喜」であるとおっしゃるのです。
ここで言われる「得べきこと」とは、浄土に往生し、仏さまになることです。
すなわち、最期の息が切れると即座に往生即成仏することが決定していることのよろこびが「歓喜」という言葉で表現される、というわけです。
次に「慶喜」について見てみましょう。
「慶」はうべきことをえてのちによろこぶこころなり
この信心をうるを慶喜といふなり。慶喜するひとは諸仏とひとしきひととなづく。慶はよろこぶといふ、信心をえてのちによろこぶなり、喜はこころのうちによろこぶこころたえずしてつねなるをいふ、うべきことをえてのちに、身にもこころにもよろこぶこころなり。
細々とした解説をしていると日が暮れてしまいますので、ひとまず措くとして、いま注目したいのは、「うべきことをえてのちに」と言われている箇所です。
これはそのまま、「得べきことを得たあとに」というという意味です。
ここで、「得べきこと」というのは、信心のことです。
いま現に、ここで、信という状況が身の上に実現しているとよろこぶことを「慶喜」と呼ぶというわけです。
以上のように、親鸞聖人は「よろこび」について「歓喜」と「慶喜」を使い分けられています。
未来の往生即成仏をいま、ここでよろこぶことを「歓喜」、信心という状況がすでに実現して現在しているとよろこぶことを「慶喜」と呼んでおられるわけです。
ところで、親鸞聖人というお方はたいへん多くの著作をのこされたお方です。
そのなかで、ご自身の言葉で「よろこび」を語る際には、ほとんどの場合「慶」の字を用いられます。
これは先ほどもみたように、すでに実現していることの「よろこび」を表現する字です。
浄土信仰というと、一般的には未来待望論、現実逃避論のように受けとめられがちです。
いまの現実が耐えがたいから、死後の世界に期待する。
あるいは、死んで滅びるのがこわいから、すこしでもマシな世界を待望する。
しかしすくなくとも親鸞聖人にとって、浄土真宗という教えは違ったようです。
浄土の教説を聞き、浄土のありさまを知らされて浄土を志して生きる者となり、穢土の穢土性をどこまでも自覚せしめられ、わが身を振り返ってどこまでも慚愧しつつ、いま、ここで、すでに出遇うべきものに出遇うことができたことをよろこび、おぼつかない足取りでも、みずからの足で現在の大地を踏みしめて立ち上がろうとする人間を育てるのが、浄土真宗という教えではなかったか、と味わっているところです。
話が横道に逸れそうです。
無理やり本筋に戻しましょう。
親鸞聖人の「よろこび」の中心は現在の「よろこび」にあった、と申し上げました。
ではその「よろこび」の内容は何だったのでしょうか。
親鸞聖人のお書きになったものを拝読していると、「摂取不捨」という言葉が頻繁に出てきます。
この言葉ほど念仏者のこころを励まし、阿弥陀仏の救いの確かさを実感させてきた言葉はないと言ってよいでしょう。
ほかならぬぼく自身、この言葉の持つ響きに惹かれて浄土真宗の教えに興味を持ったひとりです。
「摂取不捨」とはどういうことか。
それぞれの「わたし」がどんな「わたし」であろうとも、念仏申して生きる者を、決して見捨てることがない、という阿弥陀仏の大悲と救いの確かさを告げる言葉です。
素質も経験も性質も、そこでは決して問われません。
苦境にあるとき、ぼくたちは自分自身を見捨ててしまうことがあります。
しかしたとえ自分で自分のことを見放したとしても、阿弥陀仏はそんなときの「わたし」をも、その光明のなかにおさめとって見捨てることがないと言うのです。
そんな「摂取不捨」について、親鸞聖人は次のような「和讃」と呼ばれる一種のうたを書いておられます。
十方微塵世界の 念仏の衆生をみそなわし
摂取してすてざれば 阿弥陀となづけたてまつる
現代語にするなら、「数限りない世界の、念仏申す者たちをご覧になって、その者たちを摂取して捨てないから、阿弥陀仏と名づけられるのである」というほどの意味になるでしょうか。
摂取不捨だから阿弥陀仏と名づけられる、と親鸞聖人はおっしゃるのです。
なんとも不思議な表現です。
実はもうひとつ、「摂取不捨の故に」とよく言及されるものがあります。
「正定聚」です。
この言葉について詳しく書いている余裕はありませんので、端的におさえておきます。
正定聚とは、成仏することが定まった者のことであり、煩悩の混じり気のない智慧の目を発得し、仏の説法の真意を如実に(そのままに)聞くことのできる聖者のことです。
親鸞聖人は、ご本願のこころのままに念仏申す者のことを「正定聚」であると示されます。
仏教において、凡夫であることと聖者であることは本来両立しません。
凡夫とは煩悩の炎が燃え盛っている者のことであり、聖者とは煩悩の炎が消えた者のことです。
火がついているけれども、同時に火が消えてもいる。
そんなことはありえません。
しかしそんなありえないことが、本願のこころを聞きえた念仏者の上に起こっていると、親鸞聖人はおっしゃるのです。
行信教校では、進級時に論文の提出が必要とされます。
どんなものを書いても、「論文です」と言い張れば進級させてもらえるのが行信教校らしいところですが、その話はさておき。
行信教校一年目に、ぼくが論文のテーマに選んだのが「正定聚」のことでした。
当時頭を悩ませていたのは、「摂取不捨の故に阿弥陀と名づけたてまつる」という言葉と、「摂取不捨の故に正定聚の位に住す」という言葉の関係性でした。
結局その年には疑問が解決しないまま、論文を出さねばなりませんでした。
その後数年間、同じ疑問を持ちながら浄土真宗を学んでおりましたが、あるとき、口癖となっていたお念仏をしていると、不意に何かがつながった気がしました。
それまで「摂取不捨」という言葉は、なにか目に見えない、大いなるものに包まれている感覚であると思っていました。
それは間違っていないと思います。
ただ、親鸞聖人はもっと具体的に「摂取不捨」を捉えておられたのではないか、と感じたのです。
つまり、親鸞聖人は「南無阿弥陀仏」というお念仏が「摂取不捨」という意味を持っているとお考えだったのではないか、ということに思い至ったわけです。
親鸞聖人において「南無阿弥陀仏」が「摂取不捨」という意味だったとすれば、「摂取不捨の故に阿弥陀と名づけたてまつる」という言葉が、より鮮明に理解できるように思います。
「南無阿弥陀仏」と称(とな)える声を一番近くで聞いているのは自分の耳です。
「南無阿弥陀仏」が「摂取不捨」という意味を持っているとすれば、その耳は「お前を決して見捨てないぞ」という声を念々に聞いていることになります。
そこに成立しているのは、如実の聴聞です。
この身はあさましい凡夫でありながら、不思議なことに仏の真意である「摂取不捨」のこころを如実に聞き受けることができている。
だからこそ、本願のこころを正しく聞いた念仏者は、凡夫でありつつも聖者である「正定聚」という位につけしめられていると言えるのでしょう。
そんなことを踏まえると、親鸞聖人の「よろこび」のうち、「慶喜」の内容は、いま、ここで、真実の言葉である「南無阿弥陀仏」を真実の言葉として受けとめることができた、という「よろこび」だったように感じられるところです。
以下のような和讃があります。
信心よろこぶそのひとを 如来とひとしとときたまふ
大信心は仏性なり 仏性すなはち如来なり
ここで「信心よろこぶそのひとを」と言われていますが、このときの「信心」はよろこぶための条件ではなく、「よろこび」の対象です。
信心を得てから「よろこび」をどこかに探すわけではなく、信心をめぐまれたことが「よろこび」そのものだったと言えるかもしれません。
「摂取不捨」という阿弥陀仏の真意を聞きえた者は、阿弥陀仏の救いの言葉をもっとも伝えたかった釈尊の真意に気づいた者は、その一点において、仏さまと法を共有しています。
そこから『無量寿経』に「見敬得大慶 則我善親友」と、仏さまから「あんたはわたしの善き親友だよ」ともったいないことを言っていただけるという世界観が展開されていくのだろうとポヤポヤと考えています。
話が尽きそうもありません。
今日のところはここまでにします。
釋圓眞 拝
南無阿弥陀仏