真実は物語として。
行信教校の寮生を対象とした勉強会をはじめることになりました。
勉強会といってもさまざまなかたちがありますが、参加型の勉強会です。
参加者のみなさまに積極的に発言してもらい、活発な議論を通して、聖典を拝読することのたのしさを参加者のみなさまとともに味わっていきたいと考えています。
ぼくが「教える側」、参加者のみなさまが「教えられる側」ではなく、ともに聖典に「教えられる側」という立場で、学びを深めていきたいものです。
先日、勉強会の第一回を開催しました。
内容は、オリエンテーションのようなもの。
「こういうかたちで勉強会を進めていきたいと思っています」というマニフェストをお伝えしました。
ありがたいことに、寮生だけではなく、通学生からの参加者もいてくださりました。
参加者のみなさまとの協議の結果、まずは『仏説観無量寿経』というお経典を拝読していくことになりました。
『観無量寿経』というお経典は、「王舎城の悲劇」と呼ばれるひとつの説話を機縁として、浄土の教えが説き述べられていくお経典です。
みなさまとともに拝読していくのがたのしみです。
ぼくはおしゃべりなので、第一回の勉強会ではついついペラペラといろんなことを話してしまいました。
意図せず講義形式になってしまい、猛反省しているところです。
話した内容は、「仏説」ということについて。
「仏説」とは、読んで字のごとく、「仏が説かれた」ということです。
多くのお経典の題号のはじめには「仏説」とあります。
「仏説」と言われることの意義はなんなのでしょうか、という話をしました。
「仏」とは、端的に言えば、智慧と慈悲を完成されたお方のことです。
その智慧のことを「無分別智」と呼びます。
ぼくたちは物事を「分別」することで知ります。
具体的には、言葉によって世界を分節化して、それによって知恵を蓄えていくわけです。
すなわち、コップはコップ、ペンはペン、などと、ものごとを他と区別し、分節化することで、意味を限定し、世界を理解しています。
しかしそれは「分別知」というものであり、世界をそのままに理解していることにはならない、というのが、仏教の考え方です。
たとえばガラスでできたコップ。
そこに水を入れ、花を生ければ、花瓶になります。
割ってしまえば、その破片は武器にもなりえます。
喫煙者にとっては、場合によっては灰皿に見えることもあるでしょう。
「コップ」と呼ばれているそのものは、実はなにものでもなく、なにものでもありえる、無限の可能性を秘めているのです。
それをぼくたちは「コップ」と呼び、意味を限定することで、それが「コップ」であると知っているつもりになっているのでしょう。
仏さまの智慧は、言葉に依らず、分別することなく、そのものをそのもののままに見る智慧のことだそうです。
それを「無分別智」と呼びます。
そこに言葉はありません。
「自他一如」の領域とも呼ばれます。
「自」と「他」をすら分けることがないというのです。
こうなってくるともう文字通りわけがわかりません。
「わたしは一切であり、一切はわたしである」と言い得る心の領域、「わたしはあなたであり、あなたはわたしである」と言い切っていける視野が開かれたとき、「わたし」という言葉も成立しなくなります。
想像するに、「 」という世界でしょうか。
「空」と呼ばれます。
「無」ではありません。
なにもない虚無の世界ではなく、豊かな意味がこれ以上ないほどに充満しているような世界観です。
それをさとったお方を、仏さまとお呼びして、尊崇するわけです。
安らかなあり方らしいですよ。
ぼくにはわからん世界ですが、そういう世界が開けるとたのしいだろうな、と想像はします。
さてそんな「自他一如」なる「無分別智」は、必然的に慈悲に展開します。
他が痛み、苦しみ、悲しみを抱えているとき、自らのことのように痛み、苦しみ、悲しみを共感するのですから、当然です。
他の痛み、苦しみ、悲しみを本当の意味で共感し、ともに痛み、苦しみ、悲しみ、それを抜いて、安らかな境地へと至らせようとするのが、慈悲です。
分別し、言葉でしかものごとを理解できない者を教育しようというのが慈悲ですから、その慈悲の精神は、本来言葉にできない「無分別智」の領域を言語化することを要請します。
言葉にできない領域を言葉化するというのは、矛盾しています。
しかしそれを成し遂げるのが、慈悲の精神の極致であると言えましょう。
『成唯識論』という書物に、次のような言葉が見えます。
従最清浄法界等流。
「最清浄なる法界より等しく流る」と訓じます。
「最清浄なる法界」とは、「無分別智」の領域のことです。
そのような本来言葉で言い表せない領域を、言葉で表現した「仏説」は、「無分別智」の領域を増やしもせず、減らしもせず、そのままに、「等しく流」れ出されたものであると言うのです。
不思議なことです。
浄土真宗では、その言葉が「南無阿弥陀仏」という名号そのものである、と受けとめますが、その話はまた別の機会に。
ともあれ、そんな話を勉強会の第一回ではしたわけです。
お経典は、一如の世界、真実の世界から流れ出て、説かれたものであるから、大切に拝読しましょうね、という注意喚起です。
すると参加者のおひとりから、質問をいただきました。
いわく、「経典に説かれているものには、とても事実とは受けとめられないものが多くあるが、どのように伝えていけばよいのか」というご質問でした。
「フィクションが入っとるやんけ、どないすんねん」というご質問であったと受けとめています。
その場では、「お経典というのは、歴史的な事実ではなく、真実が説かれていると受けとめればよいのではないか」という答え方をしました。
間違った答え方ではないものの、すこし行き届かない表現であったかな、とも思います。
そんなことをつらつら考えているうちに、むかーし考えたご法話を思い出しましたので、ここに書きとめておこうと思います。
お経典にはしばしば、説話が説かれます。
歴史的な事実も含まれますが、事実とは受けとめられない、突飛な話も出てきます。
要はフィクションであるということです。
たとえば『無量寿経』に説かれる法蔵菩薩の発願と修行の説話、『華厳経』に説かれる善財童子の求法譚などです。
科学的世界観に慣れ親しんだ現代人にとって、ここが躓きの石になりがちだろうと想像します。
というのも、ぼくもそうだったからです。
架空の存在、想像上の物語など信ずるに値しない、と思ってしまいがちでしょう。
しかしここで一歩立ちどまってみます。
本当にフィクションだからといって、ぼくたちはそれを信ずるに値しない、取るに足らないものであると切って捨てていますか。
多くのひとはなんらかのかたちで、物語に触れる機会があろうかと思います。
それは映画であったり、小説であったり、アニメであったり、ドラマであったりするでしょう。
物語は、たのしいものです。
そして多くのひとは、お気に入りの物語をひとつは持っているはずです。
それはおもしろかったり、笑えたり、泣けたり、感動できたりするものかもしれません。
物語のなかのセリフに感銘を受けることもあるでしょう。
人生において大切な言葉として、座右の銘にされている方もおられることでしょう。
物語に触れることは、その物語を通して、作者が表したいことがらに触れることでもあります。
だれでもが知っている物語として、『アンパンマン』を例に挙げてみましょう。
「愛と勇気だけが友達さ」の『アンパンマン』です。
みなさまもご存知のとおり、『アンパンマン』は、いらんことばかりしてくるバイキンマンとたたかったり、泣いている子どものために、顔をちぎって食べさせてあげたりする物語です。
『アンパンマン』について、「顔がアンパンでできている怪人がおり……」などという野暮な説明をするひとはいないはずです。
また『アンパンマン』をたのしんでいる子どもに対して、「これはただの作り話やで」などという野暮なツッコミを入れる大人げないひともいないはずです。
多くの親御さんは、『アンパンマン』を通して、自分のものを惜しげもなく困っているひとに分け与えられるような、やさしい子に育ってほしい、という願いをこめて、わが子に『アンパンマン』をみせているはずです。
それが作り話か否かは関係なく、「どんなメッセージがそこにこめられているのか」というのが、物語の肝の部分であろうと思います。
そしてそのメッセージを受けとることが、物語に触れる醍醐味でもあろうと感じるところです。
お経典も同じです。
事実ではなく、真実が説かれている、というのも、同じ意味においてです。
「無分別智」という真実は、必然的に自己展開し、お経典の言葉としてぼくたちのところまで届いています。
「こんなもんはただの作り話や」と受けとめるのは、たいへんにもったいない話ではないでしょうか。
仏さまという存在が、迷いの存在であるぼくたちとどのように関わってくださっているのかを説話のかたちで言い表されているのが、お経典の言葉なのです。
ぼくたちは物語に触れるとき、多くの場合、登場人物のだれかに感情移入します。
お経典も同じように拝読するものなのでしょう。
実はそれが、聖典を拝読するときにもっとも大切なことではないかと考えています。
お経典のはじめには、ほとんどの場合、「如是我聞」と言われます。
お釈迦さまという仏さまがお説きになったことを、お弟子のひとりであった阿難尊者という方が、みなに伝えるときの言葉です。
「このようにわたしは聞きました」という意味です。
この「我」に、自分の名前を入れて拝読することが、お経典を聖典として拝読するという姿勢なのでしょう。
「このようにわたしは聞きました」、「如是我聞」と聞き受けたひとびとの歴史が、仏教をいま、ここ、ぼくのところまで受け継いできた歴史なのだと味わっています。
そしてお経典をただの文献としてではなく、「如是我聞」と聞きひらく者たちがいるかぎり、その中に物語のかたちで説かれている真実は真実としての活動をやめることがないのであろうと考えています。
今日のところはここまでにします。
釋圓眞 拝
南無阿弥陀仏