仏教で語られる史実の存在ではない仏や菩薩をぼくがどのように受けとめているか。

阿弥陀仏、阿閦仏(あしゅくぶつ)、毘盧遮那仏(びるしゃなぶつ)、大日如来、薬師如来。
法蔵菩薩、弥勒菩薩、文殊菩薩、普賢菩薩、観音菩薩、勢至菩薩、地蔵菩薩、虚空蔵菩薩、常不軽菩薩(じょうふきょうぼさつ)。
これらの仏さまや菩薩さまの共通点は何でしょうか?
タイトルに答えが書いてありますね、史実の存在ではない仏さまや菩薩さまです。
つまり、歴史的にこのような人物がいた、という記録は残っていません。
それではただの架空の存在ではないか、と言いたくなるかもしれません。
しかし、そうとも言いきれません。
というか、ぼくはそういうふうには受けとめていません。
みなさんもそうではないですか?
博物館や美術館でならともかく、お寺にご安置されている仏像や菩薩像には手を合わせて拝む方が多かろうと思います。
阿弥陀仏像や毘盧遮那仏像、弥勒菩薩像や観音菩薩像、道端にあるお地蔵さま。
もちろんお寺に行っても手を合わせない方もおられると思います。
ただ、ぼくがなぜ史実の存在ではない仏さまや菩薩さまを拝むのか、その理由を書いておきたいと思います。
ああ、先に「仏さま」と「菩薩さま」の違いを述べておきましょう。
仏さまとは、智慧と慈悲を完成された、完全にまことの道理にめざめたお方を指します。
菩薩さまとは、その仏さまを目指して修行に励まれているお方のことを指します。基本的に在家者のおすがたをしておられます(地蔵菩薩は例外)。
非常に端的に言えばこのようなものです。
細かく言えばキリがないので、今回は「そんなもの」とフワッと受けとめていただければ、と思います。

結論から述べてしまいますと、ぼくが史実の存在ではない仏さまや菩薩さまを拝むのは、そこに象徴的・人格的に表現されている精神性が尊敬すべきものであると考えているからです。
説明します。
史実の存在ではない仏さまや菩薩さまは、それぞれが固有の精神性を象徴的・人格的に表現したものと受けとめています。
固有の精神性は、多くの場合そのお名前にあらわれています。

たとえば弥勒菩薩。
「弥勒」とは、梵語「マイトレーヤ」の音写です(「マイトレーヤ」が「みろく」になるのは不思議ですね)。
「マイトレーヤ」は「マイトリー」を由来としています。
「マイトリー」とは「慈しむ」という意味だそうです。
他者を思う深い慈しみ、無条件の善意、それは単なる優しさや礼儀以上のものです。
マイトリーの精神は、他者のしあわせをみずからのしあわせとする精神です。
そこから他者のしあわせを強く願うひたむきな思いが生まれます。
自分の利益や見返りを一切求めない、深い慈愛そのものです。
一言のお礼も求めることなく、お礼がなくともまったく意に介することなく、ただひとびとの心によろこびとしあわせを施していこうと活動していく。
この精神は、相手の痛みや悲しみに共鳴し、どんな相手に対しても、心の奥底から「あなたがしあわせでありますように」と真に願うものです。
弥勒菩薩とは、こんな慈しみの精神性を象徴的・人格的に表現した菩薩さまと受けとめています。

たとえば観音菩薩。
「観音」という言葉は、梵語の「アヴァローキテーシュヴァラ」(何度聞いてもおぼえられません)に由来します。
このお名前は「世の中の音(声)を観る者」という意味を持ちます。
「観」は観察する、「音」は声や苦しみのうめき声を指します。
「音」を観察するというと、なんだか五感が入り混じっているような気もしますが、要は五感のすべてをもってひとびとの苦しみ、痛み、悲しみを注視するということだと思っています。
つまり「観音」とは、すべての声に耳を傾け、苦しむ人々に寄り添おうとする精神性です。
どんなに小さな声も逃さず、どんなに深い嘆きにも耳を傾ける。
深い怨嗟の声や、声にならないようなうめき声も、静かに見守る。
深掘りして言えば、「ただ見守る」だけではなく、「深く共にある」ことだと思っています。
端的に言えば、悲しみの共感です。
いや、他者の痛み、苦しみ、悲しみをわがことのように受けとめるという意味では、「同感」と言った方がいいかもしれません。
だれもが持つ理解されたいと願う気持ちに応え、孤独や絶望に囚われている心に温かな手を差し伸べるもの。
そんな他者の悲しみとの同感という精神性を象徴的・人格的に表現したのが、観音菩薩と受けとめています。

たとえば地蔵菩薩。
梵語では「クシティガルバ」。
「クシティ」は大地、「ガルバ」は胎内という意味だそうです。
つまり「地蔵」とは、大地があらゆる存在に居場所を提供して育むように、一切のものを包摂しようとする存在、とでも言えましょうか。
出典をたしかめられていないのですが、伝承によると、地蔵菩薩は、仏になることができるのにあえてそれをせず、迷いの世界にとどまって一切のいのちを救済すべくはたらいてくださっているそうです。
仏教的にいえば、迷いの世界は六つ(地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天)ですから、多くの場合お地蔵さまは六体がご安置されています。
その救済のありさまは「代受苦」と言い表されます。
他のいのちの苦しみを代わりに受ける、という意味です。
「たとえみずからは地獄の苦しみを受けるとしても、それで救われるいのちがあるなら、他のいのちが安らかになるのなら、よろこんで地獄へ赴こう」
そんな忍耐と自己犠牲の精神を象徴的・人格的に表現しているのが、地蔵菩薩だと受けとめています。

たとえば常不軽菩薩。
梵語では「サダーパリブータ」だそうです。
この言葉は四つの意味を持つかけ言葉になっているそうです。
一つには「(相手を)常に軽んじないひと」。
二つには「(相手を)常に軽んじた(と相手に思われてしまった)ひと」。
三つには「(相手から)常に軽んじられたひと」。
四つには(相手から)常に軽んじられなかったひと」。
この菩薩さまは、『法華経』に登場します。
相手がどんなひとであったとしても、「わたしはあなたを深く敬います」と呼びかけて、礼拝することを繰り返したと説かれています。
常不軽菩薩に礼拝されたひとは気味悪がって、「なにをふざけたこと言ってやがる」と腹を立て、彼を罵倒し、棒切れで殴ったり、石を投げたりして迫害したそうです。
それでも石の届かないところへ逃げると、そこからふたたび礼拝したといいます。
どんな誹謗中傷に対しても、腹を立てて相手を中傷しかえすこともなく、「あなたもわたしにとっては尊いお方です。あなたを深く敬います」とただただ相手を礼拝する生き方をしたのが、常不軽菩薩です。
彼は最終的に、さとりをひらいて仏陀となったと示されています。
つまり、「常に相手を軽んじないと主張して、逆に相手からは常に軽んじていると思われて、結果として常に軽んじられることとなるが、最終的には常に軽んじられることのない境地に至った」のが常不軽菩薩というわけです。
宮沢賢治の「雨ニモマケズ」は、この常不軽菩薩をモデルにしていると言われています。
この菩薩さまが象徴しているのは、言わずもがな、相手がどんなひとであっても敬意をはらうという精神性です。

たとえば阿弥陀仏。
ぼくが阿弥陀仏をどう受けとめているかの一側面は以前書きました。

ここでは、他の例に準じたかたちで、お名前から阿弥陀仏のことを窺ってみましょう。
阿弥陀仏は、梵語では「アミターバ」あるいは「アミターユス」と表現されます。
「アミタ」の「ア」は否定の接頭辞、「ミタ」ははかるという意味だそうです。
「はかる」ことは、限定を加えることです。
ですから、「アミタ」とは、あらゆる限定をはなれていること。
現代風にいえば「無限」でしょうか。
「アミターバ」、「アミターユス」は連声の表現で、分けるならば「アミタ・アーバ」、「アミタ・アーユス」です。
「アーバ」は光のこと、「アーユス」は寿命のことです。
つまり無限の光、無限のいのちを象徴的・人格的に表現したのが、阿弥陀仏という仏さまということになりましょうか。
いずれにしても「無限」ですから、本来は限定できないものです。
しかしそれでは限定してしか物事を見られないぼくみたいなものには取りつく手がかりがない。
そこで無限がみずからを自己限定して出現してくださったのが、「南無阿弥陀仏」という名号というわけです。
ともあれ無限はあらゆるものを包摂します。
上に見てきたようなさまざまな菩薩さまも、それぞれが阿弥陀仏の一側面と言えます。
つまり無限の慈しみ、無限の悲しみの同感、無限の忍耐と自己犠牲、無限の他者への敬意、これらが阿弥陀仏のあらわしている精神性だと思っています。
ちょっと阿弥陀さま贔屓な見方ですが、ぼくは阿弥陀さま贔屓なので、お許しください。
無限はあらゆるものを包摂する。
そこから、「摂取不捨」という言葉が紡ぎ出されてきます。
親鸞聖人はこの「摂取不捨」こそが阿弥陀仏の精神性の中心にあるのだ、と看破してくださいました。
「摂取不捨」とは、ひとたび阿弥陀仏の秩序下に入った者は、決して捨てられることがないということです。
摂取不捨の話を本格的にはじめると、それが中心の記事になってしまいそうなので、ここでは擱きます。

さて、いくらかの仏さまや菩薩さまについて書いてみました。
いずれのお方も、精神性を象徴的・人格的に表現したものと受けとめることができる、というのは、べつに変なことを言っているわけではないと感じていただけていたらうれしいです。
この受けとめ方をしたときに、仏さまや菩薩さまを拝むことの意味にも二種類あると思います。
一つは、被救済者の立場に立つ拝み方。
このような眼差しをこんなぼくに向けてくださっているなんて、ありがたいな、もったいないな、かたじけないな、と思って、手を合わせて拝む。
浄土真宗を含めて、浄土教は被救済者の立場に立ちますから、こちらが主な意味ということになろうかと思います。
もう一つは、仏さまや菩薩さまを尊敬する、という立場に立つ拝み方。
尊敬するということは、「わたしはあなたのあり方にあこがれています、わたしもあなたのようになりたい」と思って拝むということです。
「本尊」とは、「根本尊敬」の略ですから、仏教的にいえばこちらが本筋でしょう。
仏教とは、仏さまのすがたを見てあこがれ、仏さまの教えにしたがって、仏さまになることを目指す教えです。
仏さまや菩薩さまのあり方を聞き、感銘を受け、心を揺さぶられて、そのあり方を指針として、みずからもそのようでありたいと願う。
そういうひとを仏教徒と呼びます。
あこがれの連鎖が、そのまま仏教の歴史と言ってもいいかもしれません。
宮沢賢治の「雨ニモマケズ」は、「サウイフモノニ ワタシハナリタイ」と締めくくられています。
宮沢賢治は、まさに仏教に生きたお方だったのでしょう。
さて拝み方に二種類があると言って分けてみました。
しかしこの両者は、実は両立します。
というのも、仏教でいう「救済」とは、究極的にいえば仏になることですから。
被救済者の立場に立つということは、実は仏さまを目指すことになっているのです。
そのことに自覚的であるか否かはべつとして、仏さまになるべきいのちを、いま、ここで、生きているのです。
そのことに気づいたとき、そこに恵まれてくるのは、いい意味での緊張感を持った生き方であろうと思います。

史実の存在ではない仏さまや菩薩さまをどのように受けとめるか、という話をしてみました。
いずれもええ加減なぼくの受けとめ方です。
「こんな話もあるで〜」とか「こう受けとめたらどないや」とかありましたら、教えてください。
今日のところはこのあたりで。

釋圓眞 拝
南無阿弥陀仏

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