学校での法話当番で話す内容をどうするか決めかねている件

大阪の高槻市に行信教校という学校があります。
ぼくが長らくお世話になり、お育てをいただいている学校です。
宗門としては「僧侶養成校」という位置づけになるのでしょうが、お坊さんを育てるというだけにとどまらない、さまざまなことを教えていただける学校です。
実際、お坊さんだけではなく、一般の門信徒の方々もいらっしゃいます。
端的にいえば、「お念仏をよろこぶひとを育てる学校」ということになるでしょうか。
望めば何年でも在籍することができる、不思議な学校です。
ぼくが行信教校にご縁をいただいてから、今年で10年目です。
ぼくは龍谷大学にも顔を出していますし、最近は倉庫のバイトも始めました。
行信教校のすべての講義に出席することはできていませんが、それでも「ぼくの主たる居場所は行信教校だ」と個人的には思っています。
そう思わせてくれる何かがある学校なのです。

行信教校において、ぼくは「研究生」という立場にありました。
教校を卒業したひとは、望めば何年でも、この「研究生」として在籍することが可能なのです。
しかしこの2年ほど、抑うつ状態で外部との連絡が一切取れなくなっていたぼくは、一旦研究生としての立場を外れていました。
というか、学費を払っていなかったので籍がなかった、というわけです。
最近行信教校の講義にも出席していましたが、ふたたび体調が悪化する可能性もあることから、研究生としての籍は戻していませんでした。
籍がなくても、「こいつはいつか戻ってくるやろ」と講義の聴講を許容してくれていた行信教校、やはり懐の広い学校だな、と思います。
体調も安定し、すくなくとも今年度は継続して出席できそうな感じが出てきたので、このほど、半年分の学費をお支払いし、研究生に戻りました。
晴れて研究生として復活です。

学費を払って研究生として復帰したのが11/14(木)のこと。
その次の日、つまり11/15(金)に後輩の方から次のようなLINEが来ました。
「11月19日(火)に学生法話ってやっていただけませんか?今のところ空欄でして」
ここで説明が必要でしょう。
学生法話とは、行信教校における当番制のご法話のご縁です。
学生さんたちが順々に当番に当たって、20分ほどの短いご法話をされます。
研究生は基本的にその順番には含まれませんが、年に何回か、ご縁を頂戴してご法話をさせていただくことがあります。
その学生法話をやりなさい、というLINEだったわけです。
11/14(木)に研究生として復帰、その翌日に学生法話の打診、11/19(火)にご法話のご縁。
このスピード感、さすがは行信教校、と感じました。
一も二もなくお受けしたのですが、さてどんな話をしようか、と決めかねているという現状です。

話したいことはいくつか思い当たります。
「法然と極楽浄土」展に行って感じたこと。
法然聖人の回心のこと。
親鸞聖人がはじめ「綽空」と名乗られていたこと。
「如是我聞」という言葉が親鸞聖人の上でどのように響いていたか、ということ。
「念仏成仏」のこと。
etc……。
どれも話したい内容なのですが、どうもしっくりこない。
というか、ひっかかりをおぼえてしまいます。
浄土真宗において、ご法話はたいへん大切にされます。
「お取次ぎ(おとりつぎ)」とも呼ばれます。
仏さまの教えを「取り次ぐ」ということです。
「私はお念仏の御教えをこのようにいただいていますよ、このようによろこんでいますよ」と聴衆のみなさまと一緒に聞かせていただく。
自分の話を一番近くで聞いているのは、他ならぬ自分の耳です。
みずからも聴聞者のひとりとなって、みなさまと一緒によろこべる話をさせていただくのが、ご法話の原点であり、目指すべき地点でもあると聞いています。
その意味において、上に挙げた例は、いずれもぼく自身、浄土真宗を味わって感じていることですから、おぼつかないながらも、一応はご法話になると言ってよかろうと思うのです。
しかしどこかひっかかりをおぼえてしまいます。

ぼくの中ではひっかかりの正体はハッキリしています。
ぼくは懺悔(さんげ)がしたいのです。
仏教でいう懺悔とは、公開の場でみずからの罪を告白し、二度と同じあやまちを繰り返さないためにどうするか、を話すことです。
仏教の通例では「滅罪」と言って、罪を滅することもセットになっていますが、浄土真宗では滅罪についてはうるさく言いません。
煩瑣になるといけませんので引用はしませんが、親鸞聖人は「罪は消えない」とおっしゃいます。
それはそうですよね。
やってしまったことは取り返しがつかないし、吐いた言葉は戻りません。
罪の事実は消えない。
しかしその意味は転じることができる。
罪を引きうけることのできるような人格に、ひとによって遅速はあっても、すこしずつ、育てられていく。
それが浄土真宗の救いの一面だと受けとめています。
ともあれ、ぼくは懺悔というものも大切な儀礼であろうと考えています。
学生法話をしなさい、という後輩のお方からのご指示をいただいたとき、はじめに思いついたのが「懺悔をさせていただく場にしようかな」ということでした。
懺悔の内容は以前にも書きました。

しかし問題があります。
それははたしてご法話と呼べるのでしょうか。
なんとかこねくりまわしてご法話らしくすることも考えましたが、それはごまかしのような気がして、あまりやりたくありません。
どうしましょう。

学生法話のご縁でどんなご法話をさせていただくか決めかねている、というお話でした。

釋圓眞 拝
南無阿弥陀仏

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