セミ嫌いを克服したウソみたいな本当の話
セミの鳴き声を聞くと、15年前に死んだおじいちゃんを思い出します。
お母さんが子どもの頃はきびしかったそうですが、
私にとってはとにかく陽気でやさしいおじいちゃんでした。
おじいちゃんと私は誕生日が同じで、毎年夏になると一緒に祝ってもらったのをよく覚えています。
私もおじいちゃんもすいかとアイスが大好物で、遊びに行くと好きなだけ食べさせてくれました。そのおかげで何度もお腹を壊したことも今となればなつかしい思い出です。
そんな大好きなおじいちゃんですが、おてんばで虫とりが好きだった私がセミ嫌いになったのは、他でもないおじいちゃんのせいです。
夏休みが始まって間もなく、私はおじいちゃんと森に虫とりに行きました。
森には夏を謳歌するセミの大合唱が響いていましたが、お目当てのカブトムシやクワガタはなかなか見つけられませんでした。
せっかく来たのに収穫なしがくやしかった私は、セミを捕まえようとしました。
「やめなさい」
おじいちゃんはいつになく厳しい口調で言いました。
かまわず、近くに止まっていたセミを手に取ると、
「セミにおしっこをかけられると、こうなるよ」
おじいちゃんは怖い顔で私を睨むと、鼻を指差しながら近づけてきました。
おじいちゃんの鼻には大きくて目立つイボがあって、なんとなく気持ち悪いなと思っていました。
まさかイボが、セミのおしっこのせいだったなんて!
「上を見てごらん、仲間をとられたセミたちが怒っているよ」
セミたちは変わらず鳴いているだけなのに、
「仲間を返せ」
「おしっこをかけてやる」
と叫んでいるようでした。
途端におそろしくなった私は、掴んでいたセミを離し、顔を隠しながら全速力で走って逃げました。
セミのおしっこの話がおじいちゃんの作り話だったと知ったのは、数年後のことです。
ウソだと分かっても植え付けられたトラウマは消えません。
セミの鳴き声を聞くと鳥肌がたつのはもちろん、息絶え絶えのセミがビリビリ音をたてて悶える姿は恐怖そのもので、食べ物がのどを通らなくなりました。
おじいちゃんが死んだときは、涙が枯れるほど泣いて泣いて泣きまくりました。
それでも時というものは不思議なもので、月日が経つごとに悲しみは癒えていきました。
七回忌を迎える頃には、私は青春ど真ん中で法事なんかより彼氏と花火を見るほうが大事になっていました。
その日、浴衣を着ておめかししてウキウキしながら電車に乗っていると、停車した扉からセミが飛んで入ってきました。
セミは迷うことなくまっすぐ私に向かって飛んできて、肩に止まりました。
叫ぶ間もありませんでした。
恐ろしさで硬直し、冷や汗がじわじわとにじみ出てきました。
なんとか払おうと、浴衣をつかんで引っ張ったりたたいたりしましたが、セミはビクとも動きません。
見ないようにしても、茶色く油ぎったギョロ目のアイツが視界の隅に入り、生きた心地がしませんでした。
沈黙の闘いがつづくなか、ふとセミの顔に小さな突起物があることに気づきました。
「気持ち悪い・・・」
思わず口にしてしまったそのときです、セミが停車した電車の扉に向かって飛び立ちました。
解放された!
そう思ったのもつかの間、セミは舞い戻ってきて再び私の肩に止まりました。
と思うとまた扉の方へ飛ぶ、戻るを繰り返しました。
「一体なにがしたいの?」
発車の合図のベルが鳴り響いています。
「もしかして、ついて来てって言ってる?」
我ながらどうかしてると思いますが、大嫌いなはずのセミと一緒に降りるはずのない駅で下車しました。
セミは少し飛んでは私を待ち、また少し先へ飛ぶ・・・とまるで道案内するかのような飛行を繰り返しました。
気づけば、あるお寺の前に着いていました。
追っていたはずのセミを見失い、キョロキョロしているとお母さんの姿が見えました。
そうです、そのお寺はおじいちゃんの七回忌の会場だったのです。
信じてもらえないかもしれませんが、あのセミは間違いなくおじいちゃんでした。
セミの鳴き声を聞くと、今でもおじいちゃんを思い出します。
あれ以来一度も会えてはいませんが、セミを見かけると、
どうしても顔のイボを探さずにはいられません。
おわり