意識の力
私が目を瞑ると温かい光がやってきた。太陽が雲間から現れ、私の額を温めた。私は目を閉じながらも光と熱を感じた。目を閉じて初めて、私たちは光と熱を温もりとして柔らかいものとして感じることができる。目を閉じるからこそ見えてくる感覚がこの世界にはあるのだ。しばらくすると太陽はまた雲に隠れたようで、額はひんやりとした。一瞬にして体温が下がるように感じる。実際にはそうで無いとしても、体の表面で感じていた温もりが消えていくのを感じる。すっとお腹に意識がいき、私はお腹に力が入っていたことを知る。そしてすうっとお腹の力みを抜く。するとお腹は大きく膨らんで私の呼吸を受け止めた。まるででっぷりとした厚みのある壺になったかのように、私の身体は空気を蓄える。右鼻の中で右回りの小さな渦が生まれたのを感じる。それは本当に小さな渦だ。小さな小さな渦が右鼻で生まれている。今度は左鼻だ。左鼻では左回りの渦が生まれる。両方の鼻の渦を通して、私は鼻の奥にぽっかりと快い空間が生まれたのを感じる。この空間に心よい匂いが入っていくのだ。匂いという記憶がここに蓄えられ、私に至福を感じさせる。そしてこの至福の種が膨らんだときに、私の頭に光を送る。その光は私の頭の中に快い空間を作り、そしてそこにもっと密度の濃い至福が蓄えられるのだ。至福は幸福とは違う。幸福には理由が必要だけれど、至福には理由が必要ない。ただこの世界の美しさを丸ごと受け止めた時、ただ私自身の命を丸ごと受け止めた時、それはそのまま至福となる。どんな状況でもそれはおこる。たとえば目の前で自分の家が燃えた時にでも。その燃え盛る炎と爆発する音、崩れていく音を聞いていたとしても、それをありのままの命の燃える炎の美しさとみたときに、私たちはそれを大きな至福として私たちの空間に記憶することができる。失った物質的な重さよりも、いのちの煌めきとして、美しく自然な希少な現象として見つめることができるのだ。
それは実際に起こり、それは私の力となる。私はそれを意識の力と呼ぶ。人間の発した言葉、言動により傷つくことはあっても、やりたく無い作業に追われ、肉体はボロボロになり、精神が疲れ果てたとしても、燃えた炎とそれによって生まれた大きな灰を、美しい現象の産物としてそこに感動し、いくらでも至福を感じることはできるのだ。神はそれを意識の力と呼ぶ。