正しい努力とは?
昨日の雪を眺めながら、ふと佐々成政の姿が浮かんだ。
佐々成政といえば、決死の「さらさら越え」で有名である。
小牧長久手の戦いで家康と秀吉が和睦すると、秀吉と対立していた成政は、真冬の富山から浜松まで立山連峰を越えて家康のもとへと向かった。
立山ルートか飛騨ルートかといった諸説はあるが、とにかく雪の中を浜松まで歩いたという事実に変わりはない。
雪に慣れていない人にとって、昨日の雪の中を歩くだけでも大変なのに、成政は富山から浜松まで雪道を歩き続けた。
しかし、彼の努力が報われることはなかった。
家康を説得することもできず、また雪の中を引き返さなければならなかった。
頑張れば必ず報われるという言葉は真実なのか?
こんなことを考えると、報われる努力と報われない努力の違いについて思いを巡らせてしう。
その差は一体何なのか?
ひとつ考えられるのは、間違った努力をしている場合、報われることはないのかもしれない、という仮説である。
ただ、そこで問題になるのは、正しい努力と間違った努力の基準が何なのか、ということ。
そこでふと、薩長同盟という歴史的な出来事に思いを巡らす。
もしかしたら、私たちには克服しなければならない感情の障壁があるのではないだろうか?
その感情の壁を乗り越えることがなければ、努力は報われないのではないかという仮説が浮かんだ。
成政は信長によって黒母衣衆の筆頭に選ばれるなど、その才能を認められた武将であった。
信長から認められているということは、彼が非常に優れた武将であったことを示しているに違いない。
おそらく彼は秀吉を「猿」と見下していたのかもしれない。
また、信長や織田家に対する忠誠心も人一倍強かったかもしれない。
彼には秀吉との感情的な障壁を乗り越えなければならない困難な感情が存在したかもしれない。
一方、薩長同盟を見ると、長州の中で薩摩への憎しみが家中に広がっていたことだろう。
私の父や兄も薩摩のせいで苦しい目に遭った。薩摩とだけは手を組めない。
そんな家族は多かったに違いない。
後の世代から見ると、なかなかその感情に気づきにくいかもしれないが、その感情を乗り越えた先に薩長同盟の壮大さがあった。
そして、感情を乗り越えられない努力は誤った努力なのか、感情を克服するための努力は正しい努力なのかと考えた。
しかし、私にはしっくりこない。
次に私が考えたのは、自分のための努力なのか、周りのための努力なのかということだ。
確かに、自己中心的な目的のためだけに頑張るよりも、周りの人々を幸せにするために努力する方が正しいように思える。
しかし、よく考えてみれば、成政も自身のプライドだけではなく、織田家のために尽力した可能性もある。
同様に、薩長同盟も日本のための同盟という側面を持っていたかもしれないが、彼ら自身が日本を支配したいという欲望もあったのかもしれない。
こんなことを考えながら、私はふと思った。
もしかすると、努力して報われると思うこと自体が間違っているのかもしれない。
大谷のニュースを見ながら、私はそんなことを思った。