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見た目の重要性の話

今日は何となく見た目について考えていた。見た目と言っても人間の外見についてではなく、YouTubeの動画のサムネイルやSNSのプロフィール、僕が今使っているnoteの記事のタイトルやタグについて考えていた。

僕はプロフィールを短くしがちだ、でもそれは意識的に行っているわけではなく日々ネットを使い続けていくうえで自然とそのような形に落ち着いたと言える。僕が今使っているnoteのアカウントもそうだし、Twitterでいくつか持っているアカウントもプロフィールは短く多くても20字程度しかない。
何故僕はプロフィールを短くするのか少し考えたのだけれど、恐らく僕に対して余計なイメージを持ってほしくないのとそもそも関係性の拡大を求めていないからではないかという結論に至った。
プロフィールが長い人間は凄い、欠片も合わされば大雑把であるがその人間の形が見えてくるだろう。羅列された情報を観測者が勝手に並び替え繋ぎ合わせ補完し、そして構築する。こうした出来上がったイメージがどれくらい本人と重なるのだろうか、情報は受け取り手によって容易にその意味を変える。そんな曖昧なものを勝手に作られるくらいなら僕はそんなものを作られるほど情報を与えない、最低限自己を構成するワードだけをくれてやれば十分だろう、後は出会ってからだ。

僕はプライドが無い人間だと以前は思っていたが、実は全然そんなことはなくて見栄っ張りで自分を良く見せたがっているのかもしれない。僕はプロフィールが長い人間やタグを恥ずかしげもなく無数に付けることをカッコ悪いと定義し、無意識にそうした行為を避けてきたのだろう、まぁ自覚したところでこれからもそれは続くのであろうが。
人は者にしろ物にしろその表層しか殆どの場合は見ない。世界はそんなものだと思うし、皆が皆目にする全てのモノに対し深く意味を見出そうとするならそれはそれで悍ましい社会だと思うし、これくらいの温度感が人間という動物には適切なのだろう。

そういえば1週間ほど現実逃避で就職活動から逃げていたが流石に、というか僕は暇つぶしやストレス解消、現実逃避の手段として睡眠を用いるので生活習慣が酷くなってきてこりゃアカンなと言うことで今日からまた再開。ていうか利用している転職エージェントもうちょっとやる気出してくれ、僕はそろそろ気分的にダレて来てバイトに逃げようとしてるんだぞ、この取り柄の無い哀れな男の未来は君たちに掛かっている。

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