ゼアイズとアイアム
ご無沙汰しています。
noteをお休みしていた間もそれなりに元気に生きていました。
ただ、なんだかんだ、文字通りの怒涛がありました。
そこから小休止、というか、ようやく一息ついて振り返る感じです。以下は、自分のための備忘録を、公開向けにもう少しわかりやすくしようという試みです。頑張ろうと思います。
現状の結論は以下のみっつ。
①フィクションに対する趣味嗜好と、実際生きている自身の性指向が別にとくに一致している必要性はない
②セクシュアリティは別にアイデンティティではない
アイデンティティとする自由もあることにはあるけれど、少なくともそれは、己という在り方の舵取りを「第一に」担うものではない。
③↑を踏まえてなお、良い子(規範に則ること)をうっかりロールしてしまうケースのこと
③はほぼ余談になりますが、どれも根を同じくするような話題でもあります。
とりあえずこの三点に着地できるように書いていきたいと思います。
・書く趣味ならびに読む趣味とセクシュアリティの相関。とは。
とりあえず①の話。
近況として、ひと月あまり、ずっと二次創作をしていました。いや過去形ではない。
「もう今さら何かにハマることもあるまい」などとニコニコ斜に構えていたら、なぜか突然遅効性のヤバさに襲われ、果てには推し? を見出してしまい、書き続ける羽目になりました。
事故ですね。おそらくは端的に、いつぶりかに、恋したというやつです。口にするのも恥ずかしいけれども、他に言いようが……ない。
今までさんざんSOGIの話をしていましたが、フィクションを対象にめちゃくちゃな恋? をするというのは今までに何度かはあり、今回がその最新版。というわけです。
「現実の誰かに対して性指向や恋愛指向を持っているとは言い難いけれど、フィクション相手だとわりと恋愛指向がある、のかもしれない」という話。
いやこれは恋なのか? 実際本当に「好き」なのか? と逐一立ち止まっては振り返り「本当かどうか」を気にする気持ちもありますが、ともあれアホみたいに感情がデカいのは認めざるを得ない、という趣き。
それで、書くにあたっては「主人公」を軸にしているのですが、これがなんと「立ち絵がなく、性別も明言はされていない」という存在でした。刀剣とかも確かそうだったな、と後から気が付きましたが……これってすごい発明だなと。
「男でも女でもどちらの性別にしてもいい」のはもとより、「中性・両性・無性・不定性もアリ」という(話の中の整合性とかはフィクションご都合で何とでもなると信じる)。
そして、自分が何よりありがてえ〜〜となったのは「性別を決めなくてもいい」そのことでした。結果的に性別不詳存在(当人の性自認が不定性?)を動かしているわけですが。
ただ、ここで疑問になったのは。
確かに己のセクシュアリティ(現実)は創作(フィクション)に何らかの形で反映ないし投影されるけれど、「そのセクシュアリティだからそういう趣味になる」わけでもないのでは? ということです。
たとえば「ヘテロセクシュアルの人はヘテロセクシュアルが主成分(?)な創作のみを読んだり書いたりするというのか。ホモセクシュアルを含む創作を読んだり書いたりするのは不思議なことなのか」とか。
ホモセクシュアルであれヘテロセクシュアルであれ、あるいはLGBTQであれ、「己のセクシュアリティ外(?)のセクシュアリティを、たとえばフィクションにおいて楽しむことは奇異なことなのか」とか。
たとえば、アセクシュアル・アロマンティックと思われる(とりあえずの暫定ですね)この自分が「恋愛的な何かを読んだり書いたりする」行為は、すなわち「"願望がある"と見なされてもおかしくはない」のか? とか。
こうして並べ立ててみると「いやそんなアホらしい話があるかい」って言いたくもなるのですが。どうやらなぜか、「それは自己投影だろう」あたりの言説、きょうびいまだに横槍として幅を利かせて……いるな……としみじみすることが定期的にあったので。
なので今のところ、「フィクションにおける趣味嗜好と、現実のセクシュアリティとの間に、厳密な繋がりはないんじゃないか」という当たり前体操のスタイルを取っています。
フィクションに没頭するという意味での自己投影? なら……書いたり読んだりする以上は誰でも(少なくとも私は)やっていると思うので、その言葉の意味をここでは深追いしません。申し訳ない。
現実の性指向がそのまーんまフィクション(創作や趣味)に反映される、みたいな疑いのなさは何なんだろうな、と今さら不思議に思います。かく言う自分こそが、このへんを疑っていなかったそのことも含めて。
・それは趣味なのか忌避なのか
↑の件を少し踏まえて②に移ります。
さて、性別不詳存在を動かすのがとても気楽で楽しい今日この頃です。
とはいえ最初は、少しだけ内心に齟齬があり、楽しむ方に舵を切るまでにほんのわずかながら時間を要しました。
つまり「自分は、性別を限定しないことによるゆるふわなカオス(フィクションご都合主義万歳!)が好きだから性別を決めなかったのか、性別にまつわるロールや属性を(フィクションにおいてさえ?)疎んじているから性別を決めなかったのか」問題です。
なぜそんなことを大真面目に……と今でこそ半笑いになりますが、若干の死活問題でした。「自分は自分にとって正しくなければいけない」と思っていたんだろうと思います。これは、言い換えれば「(ただでさえ何もかもから遠いのに)これ以上間違いや偽物であってはいけない」の感情です。
性別不詳存在にして何がよかったかといえば、「その二者間の間柄は、言うなれば異性愛にも同性愛にもならない」という自分への免罪符になることでした。
何が免罪符かといえば、「自分が書く男女も女女も男男も、結局は全部偽物だと思っていた」そのことに対してです。
異性愛規範に乗っかれず、かといって同性愛なのかといえばそうでもないアロマンティック(暫定)。おおかたフィクションを通じてでしか「恋愛感情をわかった気になれない」自分が、対人関係、ひいては恋愛(??)関係を書こうとする。それを、己自身がいっちばん厳しく監視していたというオチです。
「本物じゃないのに書こうとしているし、書けたところで偽物」という自分で自分に向ける呪い。「お前は偽物なんだからこっちを書いてはいけないのではないか」という無意識の縛りです。知らないくせに・本物じゃないのに・偽物だから、書いてはバチがあたる。そう本気で思っていた時期が、なんとも長すぎました。
自分の嗜好や創作はどうしたって偽物風情のやること。という思考の域からどうしても出られなくてこれまで本当に何度となく拗ねていましたが、今は偽物も本物もクソもない、と言える。
そもそも論として、自分で自分を「本物じゃない」「偽物である」と規定してしまうと、それこそ呪いの再生産になってしまう可能性だってあるわけです。自分だけに向いていたはずのそれを、誰かが読み取って「自分はorあの人はそうなんだ」と思わない保証はない。ならば、うまく胸は張れなくても、下は向いてはいかんっすねという話。
おそらく自分は、アロマンティック・アセクシュアルであることをアイデンティティにしていたのではなく「本物にはなれない」ことをうっかりアイデンティティにしていたんだろうな。という感慨。そして「そのアイデンティティ通りに"偽物らしく"いじけていたんだろうな」とも。
ともあれ、呪いの再生産は本当によくない。本当に、よくない。
「セクシュアリティ通りに何かを好きになったり好きにならないようにしたりする必要はない」「セクシュアリティ通りのロール(??)に準じることはない」とゆめゆめ己に言い聞かせていかないとな。と一念発起するこの頃です。
ニュアンスが伝わるならそれに越したことはないのですが、「己は己のセクシュアリティを断罪しなくてもいいし、己のセクシュアリティからの断罪を粛々と受けいれることもない」みたいなやつです。セクシュアリティ、やっぱり己を苦しめるものであってほしくないよね。
(社会上のジェンダーロールにまつわる苦しみは今なお続いているとはいえ、内心や在り方の自由までもを自分で制限する謂れはない。と信じるしかない。なんてありふれた話。祈り)
・余談。良い子とは
そして③の話をします。
当方、このひと月で普段は買わないようなものを買い、少し習慣が増え、普段なら絶対しなかったようなことだって話題にするようになりました。有り体に言えば自由度が上がっている。もっと言うなら、ストッパーの解除数が増えてきている、とも。
たとえば、髪を染めました。ぱっと見わかるかわからないかレベルのトーンで。これは単に、髪をセルフで染めるアレをやってみたかったというのと、髪の色が変わるというのはどんな感じかを知りたかったという二つの理由なんですが。これがまた楽しかった。
それで、やってみてわかったのは「髪を染めることは悪いことだとは思っていなかったけど、いいことだとも思ってこなかった」
という自分の認知のことでした。「漠然とでもいいからとにかく良い子であれ」という謎の処世術と暗黙のことでした。
はるかな大昔に親戚から不良扱いされる、という事件があったのですが、これがまあなんともびっくりするぐらいに当時心外で。今も思い出すということは根に持っているんでしょう。根に持っています。
「んなわけねーだろ」という節穴への不信感と、あとは「not不純な良い子のみを是とされる暗黙ルール」への恨みも根強かったのだと思います。
そうして恨んでいながらも実際そういう「良い子」をやってきてしまったところもあり(当時考えた頭での生存戦略としては残当だったと自分を慰めていくスタイルです)、そこから今になって「学生時代のnot良い子たちがやってきた行為」的な髪染めをやったわけです。
今思えば、その子らにとってはおしゃれとか……自我とか……そういう話だったとわかるのですが。つまりそういうことで、「自分の恣意で自分を動かして(装って)いい」という発想を掴むまでに、自分はそれはもう本当に長くかかった。きっと順当にいけば、十代かそこらで難なく至る境地なんだとは思うのですが。
自分の身体は自分のもの。やりたいように演出していいという大前提。それの実行の第一歩が髪染め。今さら。
「良い子という均質のためには演出などもってのほか。それよりもきっちりを装いなさい」という、強すぎた規範へのカウンターが、髪染めによって成功したのです。ちなみに、「女の子らしいおしゃれ」とは関係ないところから始めることができたのも大きい。
おしゃれのため、とか、何かのため、とかではなく、やりたいからやった。という選択行為。その効き目をつくづく実感できた日でした。
何の根拠もないのに、「何を持っている持っていないにかかわらず、己は最高になることができる」とわかってしまった。
何何だから・何何じゃないからということが関係しない領域があるということを知ることができた。
根拠がないというそのことに意味がある、ということ。
後付けが存在しないということ。
これらすべてが、ちゃんと腑に落ちたことが地味に本当に嬉しかった。もう前進はないだろうなと漠然と諦めていたのに、今さらだとしても、わかることができたそのことが嬉しかった。のでした。
要はタイミング、といえばその通りですが。
結局自分のつくりはこのあたり単純で、納得できなければ意味がないと本当に思っているし、つまり納得できればなんでもいい、ともいう。
「自分だけの納得」が心とか魂とか身体を動かしていくんだろうな、というありふれた話で恐縮ですが、これを結びとします。
たぶん自分は、今になって、個と私の区別がついたのだと思います。
「人はみな個として尊重されるべき」と思えてはいても、他人はもとより自分だって「私」の面がある。ということが抜けていたという話です。
ゼアイズ(俯瞰)とアイアム(主観)、どちらも大事なんだなという。言葉にしたら当たり前すぎるけれど、自分の「私」が肝心なところでおろそかだったのだなというオチでした。
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