ハーマンズ・ハーミッツを語ろうよ 第2回【朝からゴキゲン(I’m into something good)】
最初期のブリティッシュ・インヴェジョンの強みは、黒人R&Bをエレクトリックに再構築したところにあった。ビートルズがそうだったし、黒人と見まがうソウルフルなシャウトが出来るマイク・スミスのいたデイブ・クラーク・ファイブもそうだった。
が、彼らのように1962年~1963年にデビューした第一世代とは違いハーマンズ・ハーミッツはそうではなかった。彼らがフェイヴとしていた音楽はデビュー前にハートビーツ(バディ・ホリーの楽曲に由来)を名乗っていたことからも分かるように、どちらかといえば白人のカントリーやヒルビリーだった。
カール・グリーンは「R&Bを重視はしなかった。そりゃあ『Fortune Teller』とか演奏したけどね」という。
実際に、1963年の後半か1964年初頭に彼らがキャヴァーン・クラブで『Fortune Teller』を披露している映像が残されている。ピーター・ヌーンとキース・ホプウッドのツインボーカルによるこのライブは、デレク・レケンビーとバリー・ウィトワムが加入する前の時期のものだ。
演奏は当時の基準からすれば可も無く不可も無くといったところだが、素人目からしてもオウル・リッジリーとスティーブ・ティトリントンのリズム隊が弱い。だからこそ2人はバンドに残ることが出来なかったのね。
プロデューサーのミッキー・モストは彼らの特性をすぐに判断した。要点をまとめるとこういうことになる。
①演奏力は水準程度(レコーディングに耐えられるかは未知数)
②同期のグループに比べて年齢が若い
③R&Bにあまりこだわりがない
④メンバーのルックスに清潔感がある
⑤ピーター・ヌーンの圧倒的なアイドル性
モストはお抱えのバンドを商品としてパッケージ化するにあたって、妥協を許さない人だった。そのうえで、上記の5項目を踏まえたらハーマンズ・ハーミッツの売り出し方は明白だった。
ロックでなくポップに比重を置いたアイドル・グループ。この路線は多少の変更こそあれ、オリジナルのハーマンズ・ハーミッツの終始一貫したスタンスだった。
まあそれが、後年になって村上春樹やピーター・バラカンに侮られることになる一因となるんだけどね。
さて、彼らのデビューシングルのカップリングを見てみましょう。国によってシングルリリースが異なったりカップリングがまちまちな彼らだが、このシングルではカップリングがアメリカ・イギリス・日本で共通している。
【朝からゴキゲン(I’m into something good)】
記念すべきデビュー曲はゴフィン&キングの作品。黒人女性コーラスグループのクッキーズにいたアール・ジーンがソロでヒット(全米38位)させた作品である。
R&B曲とはいえ、ソフトな女性ボーカルかつブリル・ビルディングのライターによる無難なこの曲をミッキー・モストは瞬く間にチョイスした。そのリリースがどれだけ素早かったかというと7月に全米チャートに登場した曲を、その月の終わりにはハーマンズ・ハーミッツに録音させていることからも伺える。レコードを買う思春期の娘を持つ親が安心するような節度ある(セックスの予感がほぼ存在しない)ラブ・ソングはローティーン向けのアイドルが唄うには最適だった。
彼らと同じタイミングでメジャーデビューを果たしたのは強烈なギターリフのキンクスや、奇才のプロデューサーであるジョー・ミーク(ヤバい人)が手がけた独特のエコーのハニーカムズ。一方のハーマンズ・ハーミッツのデビュー曲にはギターロックの要素は薄く、エレキギターはセッション・ミュージシャンのピアノに圧されてすらいる。全てはライバルとの競合を避けるためにポップなアイドル路線を狙うため。
果たして『朝からゴキゲン』はモストの読み通り、というか予想以上のヒットを記録した。イギリスでは1位、アメリカでも13位を記録してゴールドディスクまで獲得。当時の多くのグループの年齢層が1938年~44年生まれで構成されていたのに対し、1943年~47年生まれだったハーマンズ・ハーミッツ。若く、ルックスが(あくまで他のバンドと比べると)清潔で健康な彼らのイメージが早くも確立された。
【ユア・ハンド・イン・マイン(Your hand in mine )】
B面のこちらはというとギターをメインとした明るく典型的な初期マージービート。バリーのドラムが結構早い。作詞作曲のクレジットはハーヴェイ・リスバーグとチャーリー・シルヴァーマンの2人となっているが、恐らくはバンドメンバーによる自作曲じゃないかと推測する。転調が結構強引なのだ。マネジメント料の代わりにこのシングルでは印税収入をマネージャーに譲渡する取決めがあったのではないか。
彼らの快進撃が始まった。が、まだその人気は確立されてはいない。その人気が決定的になるのはアメリカでの次のシングルを待つ必要があった。