希望ってギャンブルすること?メイズランナー1と2を見た後に考えたこと
未来に何が起こるかなんか知らないのに、わかった気になってたずっと。悟ってた。
自分の経験を勝手に未来に投影して、いいことなんて起こるわけないって決めつけてた。
朝起きた瞬間から、今日も最悪な日になるって決めつけてた気がする、その通りになって傷つきたくないからかもしれないけど。
希望を持つってみんな言うけど、希望の意味が今までわからなかった。今もわかってないかもしれないけど、少し希望の意味を見た気がする。
メイズランナーの主人公はどんなに確率が低くても可能性があればそこに賭けた。めっちゃアホやんって思ったし多分そう。でも確率って結果論でしかないし、起こるものは起き、起きないものは起きない。だから何かを成し遂げようとするとき確率は行動の指針とはならないと思った。
メイズランナーの主人公(名前覚えてない)はある意味ギャンブラーだった。
でも希望というのは博打の中にしかない気がする。未知の未来を進むとき確率は役に立たない。失敗しても確率のせいにはできない。選んだ自分のせいだ。
未来は色々な可能性を秘めていて、僕らは何が起こるか知ることはできない。
ギャリーは希望を持てなかった。未来が良くなるという可能性に賭ける事ができなかった。
ギャリーが間違ってるということではないと思う。
ただ絶望の中で生きるのは辛い。唯それだけ。
可能性に賭けるということは未来を信じるということではないと思う。
その可能性を信じるのは信仰でそれは希望とは違う。
期待している出来事が起こらない可能性を踏まえ上で、そこに賭ける。
デブッチョのチャックはその可能性に賭けた。希望ってそういうことかもしれない。
気候変動で大変な事が起きようってしてるのに、人口は爆発的に増え続けていて。
政治家は自分の利益を追求し続けるし、朝の電車は人身事故でよく止まる。
未来が良くなるなんて、どうしたら思えるのか。多分みんな思ってないんだろうな。
だけど、それでも望む未来に賭けてただ走る。
そんな生き方をこの映画は見せてくれた。
メイズランナー、今の僕に必要な映画だったかもしれない。
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