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素敵な大人になったら

今回はこの曲を聞いた時の書き起こしです。

「僕の命の歌で君が命を大事にすればいいのに」
「僕の家族の歌で君が愛を大事にすればいいのに」
そんなことを言って本心は欲しかったのは共感だけ。
欲にまみれた常人のなりそこないが、僕だった。

苦しいから歌った。
悲しいから歌った。
生きたいから歌った。ただのエゴの塊だった。
こんな歌で誰かが、救えるはずないんだ。
だけど僕は、君の神様になりたかった。

こんな歌で君のジュグジュグ腐った傷跡が埋まるもんか。
君を抱きしめたって、叫んだってなにも現実なんて変わるもんか。
がむしゃらに叫んだ曲なんて、僕がスッキリするだけだ。
欲しかったのは共感だけ。でも君も救いたかった。
僕は無力だ。僕は無力だ。僕は無力だ。僕は無力だ。僕は無力だ。

ボロボロに落ちて落ちて落ちてかさぶたになった傷で
誰かと喋ってみたかったんだ、馬鹿みたいな話。
「あなたに救われました」と「生きたいと思いました」と
ああそうかい、変わったのは自分のおかげだろ。よかったな。

子供の頃は自分も素敵な大人になると思っていた
ていうか素敵な大人になって自分を救いたいっておもってた
時が経ち僕が成すのはボロボロの泥だらけの自分で
生きるのに精一杯。ゲロ吐くように歌う日々だ。

何度だって歌った。かさぶたが剥がれるほど歌った。
生身の僕で、君の神様になりたかった

こんな歌で君のジュグジュグ募った痛みが癒せるもんか。
君を抱きしめたって、叫んだって君が苦しいことは変わらないや
グラグラで叫んだ曲なんて、僕も実際好きじゃないや
欲しかったのは共感だけ。それじゃ誰も救えないや。
僕は無力だ。僕は無力だ。僕は無力だ。僕は無力だ。僕は無力だ。

生きた証が欲しいとか、誰かに称えて欲しいとか、
そんなのはさほど重要じゃない。どうせ落ちぶれた命だ。
誰かを救う歌を歌いたい。誰かを守る歌を歌いたい。
君を救う歌を歌いたい。
無理だ。

君は君が勝手に君のやりかたで幸せになれる。

こんな歌で君のジュグジュグ腐った傷跡が埋まるもんか。
君を抱きしめたい、叫んであげたい君の傷跡も痛みも全部。
でも所詮君は強い。君はきっと一人で前を向いていくんだ。
それならばいい。だけどもし涙がこぼれてしまう時は、
君の痛みを、君の辛さを、君の弱さを、君の心を、
僕の無力で、非力な歌で、汚れた歌で歌わしてくれよ。
僕は無力だ。僕は無力だ。僕は神様にはなれなかった。
僕は無力だ。僕は無力だ。無力な歌で、君を救いたいけど、救いたいけど。

君の神様になりたい。

初めて聞いた時の話、友人の歌はあまりにも眩しかったです。


唐突に刺さってしまって、昔からあったのは知ってたのですが、「命に嫌われている」を聞いた時からどうも変に避けてしまって聞けていませんでした。

1度聞いた時から悲痛の叫びにしか聞こえなくて、誰が歌っても自分の耳には助けを、救いを劈いてるように聞こえて、苦しくて、ごめんなさい。助けられない。私は救えるような立場じゃないと、その歌から目を背けて、耳を塞いでいました。

大切な友人のボカロ1選である君の神様になりたいは1度聞いたくらいで本当に初見の曲でした。ただ、カンザキイオリさんが書いた曲なのか、きっと苦しくなってしまうな、と自分の鼓動が速くなるのを感じました。きっとその曲に対して凄く苦しい何かを感じたからだと思います。

ずっと、音が流れる度に苦しくて、聞く度に苦しくて、歌ってる友人が霞んで、目の前が潤んできて、何かが溜まって、何かが溢れそうになっているのを息を長く細く吐いて落ち着かせる。

どうしてこんなに苦しくなってしまうのか、文字と歌詞が音楽を通じて脳に流れてくる。文字と歌詞と気持ちを伝えやすくする為の、音。そう聞こえてならなかった。だから私の頭には言葉、歌詞、文字がずっと残っていた。

感情的になって歌う、震えてこの曲を歌う、叫んで、誰かに届けようと思って、共感を歌っている友人の姿は眩しくて、何かになろうとしてる、神様になろうとしてる、誰かを救おうとしている君を見ていると、どうしても何も出来ない、何もしていない自分がどうも嫌になってしまう。

ああそうか、

この歌を、カンザキさんの歌を聞くと、どうしても胸の奥が苦しくなるのは、「自分が無力だってことを認めさせられているような、無力だということに対して目を背けている自分が嫌なだけだ。」ただそれだけだったのです。

友人の歌を聞いて泣いたのは人生で数回しかなくて、その数回のうちの1回がこれです。ずっと聞き入ってました。友人の魂からの叫びを、カンザキさんへの愛を、カンザキさんへの、いや、過去または今の自分への憎愛を。

大好きだ、神様だ、救ってくれた、救われた。僕が進めたのはカンザキさんのお陰なんだ、と。

いつもいつも愛おしそうに、切なそうに言っていた彼は、あまりにも眩しくて、この歌に感化されたんだろうなという優しすぎる性格がどうも脳裏に映って仕方なかった。

この歌は彼の全てなのだな、と感じた時にはいつのまにか咽び泣いていました。暖かいなにかがずっと目を潤ませていてそれが決壊してしまったのです。

どこかで「自分を助けられない人間は誰かを助けることなど出来ない」なんてことを言われたことがありました。そのことをずっと心に背負って、生きてきました。

正直、その通りだと思います。

今の私は誰かを救えるほどの力もないし、神様になるほどデカイ人間でもありません。むしろ自分のことを制御出来ないただの人間以下の存在かもしれない。

それでも、誰かの幸せを願って一緒にお祝いしたり、一緒に感情を動かしているのが好きです。

それでも、誰かと一緒にいて、誰かを救ってあげたい、誰かを守ってあげたいとずっと考えています。

そんなのただの「エゴ」だなんてそんなこと5年ほど前からずっと分かっていました。

ずっと泣いてる中、
『それならばいい。だけどもし涙がこぼれてしまう時は、』

もうずっと泣いていました。無力だって、自分は無力だと認めるように歌った上で、それなのに神様になりたいと思っている自分がいると、どうしようもない不条理の歌を歌っている彼を見ていると、自分と重なってずっとずっと苦しかった、だけど凄く幸せで、暖かくて、熱くて、何にも形容しがたい熱を、底知れぬ愛を、生涯を感じました。

本当に、自分を変えられるのは自分しかいないんです。
だから神様になれるのも自分次第、自分を救えるかどうかが大事だと思っています。

それでも僕は、素敵な大人になって、誰かを救うなんて大きなことは言えないけど、誰かの傍に寄り添って、手を繋いであげられるような人になりたいです。

手を差し伸べて立たせるような人にはなれないかもしれないけど、手を繋いで一緒に座ってあげることはできる。

僕が、いつか素敵な大人になったら。

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