【短編】約束
小夜の住む村のはずれには大きな木が立っていました。
いつからそこに植えられているのか、だれも知りません。それがなんの木なのかも。
ただ、ずっとむかしからそこにあるのがあたりまえの存在でした。
その村は、今となってはほんの数世帯の数少ない住人たちが暮らしており、それぞれが食べるためだけに少しの稲や野菜を育てていました。決して裕福ではありませんでしたが、飢えることもなく、村人たちはみな倹しく穏やかに暮らしていました。
村では小夜がただひとりの子どもでした。年の近い遊び相手はいません。村人は年老いた者ばかりで、若者は村の外へ出ていき、そのまま戻っては来ませんでした。
小夜は、母親の生家である祖父のもとに預けられていました。今はこの村で祖父とふたりで暮らしています。
祖父の畑は村のはずれにあります。あの木の近くです。毎朝、祖父とふたりで畑に出かけていくのが小夜の日課でした。
はじめて村へやってきた日、小夜はひとりでこの木の下に立っていました。祖父の家から見えるこの木が気になり、ひとりで駆けてきたのです。
風もないのに、ざわざわと枝葉が揺れます。
(童じゃ)
(どこの子じゃ)
(どこから来た)
(名はなんという)
ざわざわと、木がしゃべります。
「だあれ?」
「だれがしゃべっているの?」
ざわざわ。
(聞こえるのか)
(われらの声が)
(童よ)
「わらべ?」
「わらべってなあに?」
(おぬしのことじゃ)
(小さき者よ)
「さよのこと?」
(さよ)
(小夜というのか)
(千夜の子か)
(六蔵の孫じゃ)
(そうじゃ、そうじゃ)
ざわざわとした葉擦れのように、小夜の母親や祖父の名前がささやかれます。不思議に思いながら、小夜は目の前の大きな木の、ざらざらとした木肌をぺたぺたと触ってみます。それはひんやりとしていました。
「このなかに、だれかいるの?」
(そうではない)
(だが、そうともいえる)
(小夜がそう思えば、そのとおりじゃ)
「ふうん」
「よくわかんないや」
ぺたぺた。
(幼子の手じゃ)
(童の手じゃ)
(ひさしいのう)
「さよはね、きょうから、おじいちゃんとくらすんだって」
(そうか)
(六蔵と)
(われらも歓迎するぞ)
これが小夜とあの木との出会いでした。
***
それから月日が経ち、村人たちは次々と寿命を迎えて静かに世を去ります。やがて、小夜と祖父だけが村に残りました。
ある日、祖父は小夜とともに木の前にひざまずくと、深々と頭を垂たれて、いつも小夜がそうしているように、木に向かって話しかけます。
「この村に残った人間は、とうとう、わしらふたりだけになってしもうた」
祖父がそうして木に話しかける姿を目にするのははじめてのことです。
「まもなく、わしのもとにもお迎えが来るじゃろう。気がかりなのは、小夜のことじゃ」
ざわざわ。
風もないのに、枝葉が揺れます。
「わしが至らんせいで、千夜はあんな娘に育ってしもうた。わしはこの小夜のことが気の毒でならん」
「わしが偏屈なせいで、ほかに小夜を任せられる人間もおらん。こんなことを頼めるのはあんた方しかおらん。どうかこの先、小夜のことを守ってやってもらえんじゃろうか。どうか、どうか、小夜を頼む」
ざわざわ、ざわざわ。
(よかろう)
(心得た)
(案ずることはない)
小夜の耳にはそう聞こえました。
そのとき、どこからともなく犬が現れました。小夜たちのもとを目指して一目散に駆けてきます。
あの日、はじめて小夜がこの木に向かって駆けてきたときのように。
大きな犬です。まるで狼のような。
思わず身を強張らせる小夜にするりとすり寄ると、尻尾をひと振り。敵意はないことを伝えるかのように、穏やかな目でじっと見つめてきます。
小夜はこわごわと手を伸ばすと、犬の首筋にそっと触れてみました。ひんやりとしています。木肌に触れたときのように。
(小夜)
(ともにゆこう)
(われらとともに)
葉擦れの音ではなく、直接、頭のなかに響くような不思議な声が聞こえます。
祖父は、すでに用意しておいたらしい風呂敷包みを小夜の背にくくりつけると、力強い手でその背を押します。
「小夜、行くんじゃ。その犬が行き先を教えてくれるじゃろう」
「おじいちゃんは?」
「わしは、まだやらねばねらんことがある」
「じゃあ、それまでまってる」
「それはならん。先に行くんじゃ。わしもあとからついていく」
「ほんと?」
「ああ」
「じゃあ、おじいちゃん、やくそくね」
「……ああ」
先をうながすように鼻先を押しつけてくる犬を撫でると、小夜はうしろ髪を引かれる思いで何度も何度も振り返りながら、祖父に手を振り続けました。
小夜と犬が去ったあと、あの大きな木はとつぜん、メリメリと音を立てて倒れました。地鳴りのような衝撃音。大地が揺れます。
ずっとむかしからそこにあったあの木が、なんの前触れもなくあっさりと倒れたのでした。
ひとり残った祖父には、それを見届ける役目がありました。
かつてこの村の住人たちは、この木にいつからか宿った「カミサマ」と約束を交わしました。それは祖父の先祖の時代、何百年も前のできごとです。そのころにはまだ、たくさんの村人が存在していました。
この木を大切に守る代わりに、この村を守ってもらえるようにと。
今にも滅びそうな小さな村が、災害にも飢饉にも害獣にも襲われることなく平和を維持してこられたのは、カミサマのご加護があったおかげなのです。
その約束も、村人がいなくなれば白紙に戻ります。
そうなれば、それまで結界のように守られていた村には、これまでの歪が一気に押し寄せてくることになります。
祖父はそれを知っていました。
孫娘の小夜にカミサマのご加護を得ることが、祖父のただひとつの願いでした。それが叶った今、もはや思い残すことはありません。
(約束を)
(違えてはならぬ)
すっかり朽ち果てたように見える木から、かすかな声が聞こえます。
(六蔵よ)
(小夜との約束)
(違えてはならぬ)
「じゃが、わしはもう……」
(かまわぬ)
(ゆけ)
(できる限り遠くへ)
(一刻も早く)
(一里でも遠くへ)
しばらくのためらいのあと、祖父は深々と腰を折ると、しっかりとした足取りで、小夜たちが去っていった方向へと歩き出します。
こうして、小夜と祖父は、最後までこの村で暮らした、たったふたりの生き残りとなりました。
村はもう、どこにもありません。
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