【短編】掌のなかの小鳥
光はおとなしい子どもだった。
彼が生まれ育ったのは山奥の田舎で、住人の半分以上が年寄りというのどかな土地だった。
むかしながらの伝承がいまだに日常生活に影響を及ぼすような土地柄で、子どもたちはおとなから数々のいい伝えを聞いて育つ。
むやみに山へ近付いてはいけない、というのもそのうちのひとつだった。
山には気の荒いカミサマがいて、もしそのカミサマと出会ってしまったらそのまま連れ去られてしまう。むかしばなしなどではなく、おとなたち、とくに年寄りはそれを本気で信じていた。
実際に、この村ではある日忽然と子どもが姿を消すことがあった。原因はわからない。だからこそ、神隠しといった現象が現実のものとして認識されていた。
光はおとなしく、また聡明な子どもだったので、おとなたちのいいつけを守って山に近付くことはしなかった。けれども、やんちゃ盛りのほかの子どもたちが素直にいうことを聞くはずがなく、あまのじゃくというのか、禁止されると余計にやりたくなるのが人間の心理。
ある日、光は子どもたちに無理やり連れられて山に入ってしまった。
最初のうち、わあわあと騒いでいた子どもたちは奥へと進むごとに口数が減っていき、しまいにはみんな無言になってしまった。怖じ気づいたひとりが「もう帰ろうよ」といい出すと、村のガキ大将である子どもが「意気地なし」と罵る。その声が震えているのに光は気づいていた。
そのとき、あたりの空気が変わった。急激に気温が下がり、ぴんと張り詰めた緊張感がその場を支配する。
光は息を呑んで立ち竦んだ。
わかる。人間ではないものがすぐ近くにいる。
「うわあああっ」
ひとりが悲鳴をあげて逃げ出すと、ほかの子どもたちもつられてパニックを起こしたように我先にと駆け出す。
その場には光ひとりがとり残された。ガタガタと震える光になにかが近付いてくる。人間ではありえない圧倒的な存在感と、あたりを払うようなすさまじい気にあてられて光はよろめく。なにかにつまずいて地面に転んだ。
「私が恐ろしいか」
聞こえたのは、思いがけず玲瓏とした涼やかな声。なにかもっと地を這うような恐ろしい声を想像していた光は驚いて顔をあげる。
射抜くような鋭い眼差しを感じる。
沈黙のあと、ふたたび声が聞こえた。
「そうか、そなた、目が見えぬのだな」
得心がいったという響きに、光は声がする方向へ顔を向ける。そのとおりだ。光は生まれつき目が見えない。だから、いま目のまえに存在するものの姿も見ることができない。
「聡い、美しい顔をしているな。名はなんという?」
「光、です」
「光か。よい名だ。気に入った」
なにをいわれているのかわからない。混乱する光に、声は一方的に告げる。
「今よりそなたは私のものだ。本来ならば今すぐにも連れ帰りたいが、まだ世を知らぬそなたにはあまりに哀れであろう。光を名に持ちながら、光を知らぬとは」
澄んだ声がわずかに憂いを帯びる。声は続けた。
「そなたに光を与えよう。その代わり、そなたは私のものだ。私以外が触れることは許さぬ。時が満ちたなら迎えに参ろう。よいな?」
返事を待つまもなく、ふいにふさふさしたものが顔に触れて光は驚く。まるで獣の毛のような。
目の奥に違和感を覚えて瞼を閉じる。暗闇のなかでうごめくものがあった。そんなことははじめてだ。見えるはずがないのに。
「光、ゆめゆめ忘れるな。契りを破ることは許さぬ」
光はおそるおそる目を開いた。
眩しい。痛い。
これが、光。
このときから、光は視力を手に入れた。
はじめて与えられた光に戸惑いながら、光は長い時間をかけてどうにか山を抜けて村に戻った。
村では、光の姿が見えないと騒ぎになっていた。目の見えない光がひとりでどこかへ行くはずがない。神隠しにあったのではないかというのが年寄りたちの見解だった。
だが、光は戻ってきた。
光はとっさに目が見えないふりをした。なぜかそうしなければいけない気がしたのだ。
しかし、さすがに母親には気づかれた。光は、山のなかでなにかに出会って目が見えるようにしてもらったと、それだけを母親に告げた。それ以外の、あのよくわからない言葉は胸のうちに秘めておいた。
絶対にひとにいってはいけないような気がした。
話を聞いた母親は真っ青になると、その夜遅くまで父親と話し合っていた。
しばらくして、光たちは村を出ることになった。父親の仕事の都合という理由だったが、光はきっと自分が原因なのだと思った。でも聞けなかった。
こうして、光は新しい土地で学校に通い、今までできなかったことに積極的に取り組んだ。
成長して、さまざまな知識を得ていくと、やはりあの山でのできごとの意味を考えるようになる。
光が出会ったのは、あの村で年寄りたちがいっていたカミサマなのだろう。信じられないが、そうとしか思えない。でなければ、光の目が機能するようになった理由がわからない。
どんな気まぐれからか、気が荒いことで知られたカミサマは光に視力を授けた。その代わり、光は自分のものだと、たしかにそう告げた。
それがなにを意味するのかはわからない。心根が素直な光はただ、自分はあのカミサマのものなのだと、そしてこの視力はいっときの借りものでいずれは返さなくてはならないのだと、それを胸に刻み込んだ。
田舎と異なり、街には煩悩を駆り立てる欲望が満ちあふれ、光を誘惑する。欲望はいろとりどりで、さまざまな形をなしてひとを惑わせる。それらの誘惑をしりぞけ、自らを強く律し、光は禁欲的な学生生活を送っていた。
神父さながらの清廉さはときにひとを遠ざける要因となったが、それ以外にも、他人に打ち明けることのできない秘密を抱えた光は人付き合いにおいて消極的で、だれが相手でも常に一定の距離を保って接した。
家族に対しても。
***
大学進学を機に光は家を出た。
早くから学問に才能を見出だされ、自身も研究者としての道を志した光を、両親は快く最高学府へ送り出してくれた。
光は真摯に研究に取り組んだ。だが、いかなるときにも自身の立場を忘れることのなかった光は、ここにきてはじめて律しきれない感情を知った。
彼は恋をした。
相手は優秀な若き指導教官で、彼に対する尊敬の念が恋情だと自覚すると同時に、彼もまた光に同じ感情を抱いていることを知らされた。
告白されたのだ。
これまで、光はあらゆる誘惑をしりぞけ、自身の感情を慎重にコントロールしてきた。
それなのに、今回はそれができない。あふれる恋情を押し殺して彼を遠ざけようとするが、彼にはすでに本心を見抜かれている。決して乱暴ではないが引くこともない彼をまえに、光はとうとうはじめて理性を捩じ伏せた。
今までだれにも話したことのないあの秘密を彼に語った。
非科学的な話だと笑われると思った。荒唐無稽だと一笑に付されると思った。
けれど、彼は笑わなかった。
たとえ光がカミサマのものであっても愛していると、そういって光を抱き寄せた。頭の奥深くで捩じ伏せられた理性が警報を鳴らしたが、意中の相手から愛される喜びのまえでは、もはやなにものも効力を持たない。
光ははじめて他人と身体を重ねた。
その二日後、光の恋人は遺体となって発見された。まるで獰猛な獣に噛み殺されたかのような無惨なありさまだったと聞かされた。
光は激しい後悔と自責の念に駆られた。訃報に触れたとき、光はすぐに悟った。これはあのカミサマの仕業だと。彼がこんなことになったのはすべて光のせいだ。そう思った。
受け入れてはいけなかった。好きだからこそ、関わってはいけなかった。だがもう遅い。
自室のベッドに横たわり、散々泣き腫らした虚ろな目でぼんやりと天井を眺めていると、ふいに全身が総毛立つ。すっと気温が下がり、空気が張り詰める。その恐ろしい感覚を光は知っている。
部屋のなかに、大きな獣がいた。
銀色に輝く毛皮を纏い、怜悧な目をした、犬のような狼のような獣が。
「光、なぜ誓いを違えた。契りを破ることは許さぬと申したであろう」
聞き覚えのある玲瓏とした声が、淡々と、だが明らかな怒りを孕んで光をなじる。
目の前の獣がしゃべっているのだと、なぜかすんなりと受け入れることができた。この神々しいまでに美しい毛皮を纏う獣こそが、幼いあの日に光のまえに現れたカミサマなのだと、そう理解した。
「そなたは私のものだ。私以外の者が触れることは許さぬと、そう申したはずだ」
その言葉に光は目を見開く。幼すぎて理解できなかった言葉の意味を、今になってようやく悟った。
光は恋人に身体を許した。それがこのカミサマの怒りに触れたのだ。
愕然と唇をわななかせる光のまえで、獣の形が変化する。
人間の姿に。
ひとではありえない美しい造作と、眩しいほどに輝く白い衣を纏ったその姿は神々しく、直視することができなかった。
「そなたは美しい。その姿も心根も、濁り多きこの世のなかにおいて、なにものにも穢されることはなかった。光、私はそなたを愛おしく思っていたのに」
すぐそばで声がしたかと思うと、冷たいてのひらが光の目を覆い隠す。体温を持たないその冷たさにぞっとする。押さえつけられているわけではないのに、身体が動かない。
まるで金縛りにあったように。
「そなたは私のもの。身も心も、ほかの者には渡しはせぬ。そなたを惑わせたあの者の記憶、すべて消してやろう」
「――――や、」
彼を、忘れる?
愛したことを、愛された記憶を、すべて失ってしまう?
愚かな自分のせいで無惨な末期を迎えた彼にはどうやっても償いきれない。それでも光は彼を忘れたくない。愛していた。愛している。今もまだ。
「やめてください……っ」
叫んだ声は虚しく掻き消され。
最後に光が目にしたのは、愛した彼ではなく、美しい姿をした残酷な神の冷ややかな眼差しだった。
***
その日を境に、光はこの世から姿を消した。
主をなくした彼の部屋のベッドには、まるで力ずくで凌辱されたかのような、ずたずたに引き裂かれた衣服のかけらや血痕が、それは無惨なありさまで残されていたという。
こうして。
神隠しの伝説がまたひとつ。
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