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47 マリ、遠いマリ (前編)

 というわけで。
 '95年3月にバックパッカー・リハーサルとして1週間ほどニューデリーへ行き、半年後の11月、ついに本番の香港と雲南省でわたくしは旅人であると確信した。

 翌年に東南アジア、その翌年には中国からパキスタン、マレーシアの島、その年末に南インド(念願の2回目、" イメージのインド "。わたしのインド観は正しかったのだった)で年越し、’99年中国からチベット、ネパール、東インド、コルカタからバンコクへ飛んでさらにバリ島に寄って・・・と、そのへんからもう即答できないぐらい、いつもどこかへ行ってる人になっていた。

 どこかへ行ってないときは働いていた。次の旅費のために。
 書店のアルバイトは楽しかったけど如何せん時給が安く、概ね派遣の電話オペレーター、いわゆるコールセンターのお客様対応で稼いでいた。クレーマーに罵倒され、謝り倒した報酬で旅をしていたのだなあ。

 21世紀になってしばらく経った頃、西アフリカのマリに行きたくなった。ドゴン族の神話や蔵前仁一氏の旅行記を読んだのがきっかけだったと思う。
 マリ、ジェンネのモスクが見たかった。ドゴン族の村を訪ねたかった。
 行こう。マリ行こう。西アフリカ行こう。モロッコからセネガルへ飛んで、マリ、ブルキナファソと東へ移動、ガーナあたりからインドへ飛ぶのはどうだ。

 そんな感じの計画で、資金稼ぎのためまたオペレーターになった。銀行のコールセンター、週5の遅番フルタイム。しかし他所より多少時給が高い分、キツくてですね、なんで毎日毎日こんなに理不尽に怒られてるんやわたしらは。と、同僚たちと嘆く日々だった。
 だけど、西アフリカを思えば耐えられる。ストレス限界時は休憩時間に隣接するショッピングモールで洋服をごっそり買って着替え、出勤時と別ファッションで仕事したりした。終業後しょっちゅう居酒屋で飲み食い(わたしは飲めないので食いだけ)した。高級足ツボマッサージ店で1時間コースをオーダーした。・・・ってぜんぜん耐えてへんやん。

 そんなんだからなかなか目標金額に達せず、息抜きにバングラデシュやインドネシアに行ったりもした。
 でも目指すのはマリ。
 ガイドブック『旅行人アフリカ』を暗誦し、『lonely planet  WEST AFRICA』を辞書を引きながら読んだ。フランス語も勉強した(一応、第二外国語はフランス語だったし・・・)。で、のらりくらりと2年、ようやく旅立ちの目処がついた。

 旅行代理店でモロッコ行きの航空券とマリのビザをお願いした。予防接種を、黄熱病とか破傷風とか、何種類か打ったら数万円かかった。
 ああ、でも、行けるんだなあ、とうとう。
 派遣契約のキリのいいところで更新せずに退職し、リュックに荷物を詰め、さあ出発まであと2日。
 だったのだけど。

 明後日、出発。という日に母方の祖母が救命救急センターに搬送された。
 深夜、おばあちゃんは手術され、集中治療室で何本もの管に繋がれて眠っていた。母が「アフリカ行かんといて」と泣いた。
・・・・行かんとくわ・・・。
 翌朝、代理店に電話して事情を話し、航空券をキャンセルした。
 
 というわけで、2年越しで計画した旅は、出発2日前に終わった。
 まあ、おばあちゃんが元気になったらまた行けばいいさー。黄熱病の予防接種は10年有効だし。
 で、仕事は辞めちゃってヒマなので、毎日意識のない祖母を見に行った。ふわふわのくまちゃんを持って通った。ある日、目を開けていたので嬉しくてくまちゃんをぶんぶん振ったら、声は出せないけど笑ってくれた。でも、翌日はまた眠っていた。
 そうして、祖母は40日も頑張って、ICUで亡くなった。

 祖母が体を張ってわたしのマリ行きを止めたのか、どうか。
 毎日通うところもなくなったので、怒涛のコールセンターに戻り(仕事は過酷だけど人に恵まれた良い職場だった)、またしばらく働いた。
 もう旅人も潮時かなあとか思いながら。
 やめよかな、旅人。
 って思ってたのに。本当に。
 でも、祖母の一周忌のあと、母が「あんた、キャンセルした旅行、行ってきたら」なんて言うものだから、えっ?
 えーーーーーっ? 

後編につづく

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