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シン・仮面ライダーと「自由」

 かつて「自由」という言葉が、輝きを纏っていた時代があった。
「正義なんて言葉を、言わせるのはやめましょう。ナチスだって、正義のためと称してユダヤ人を沢山殺したのです。仮面ライダーは正義のためではなく、自由のために戦うヒーローにしましょうよ」(初代「仮面ライダー」の企画会議において、脚本家・市川森一が言ったと伝わる言葉)

 仮面ライダー、本郷猛は改造人間である!
 彼を改造したショッカーは、世界征服を企む、悪の秘密結社なのだ!
 仮面ライダーは「人間の自由」を守るため、ショッカーと戦うのである!
(初代「仮面ライダー」のオープニングのラストで、毎回流れたナレーション)

仮面ライダーという、異形の英雄が、ブラウン管の中に現れ、子どもたちを熱狂させていた時代、1971年には、「自由」という言葉は、輝いていた。
 仮面ライダーは、たった一人で、ショッカーに立ち向かう。敵であるショッカーは、精神を悪の手によって改造され、自由意思を失った存在だ。
 仮面ライダーは、バイクに乗る。バイクは、自由の象徴だったのだ。ハンドルを握り、アクセルを踏むことで、ライダーは、自分の生きたい場所に、自由に行くことができる。自由に焦がれる若者たちが、こぞってバイクを欲望した時代に、仮面ライダーは生まれた。
 仮面ライダーは、高く空へとジャンプする。そこは、重力の支配から解放された、自由な空間だ。地上ではありえない一回転の運動をして、ライダーキックがショッカーへと炸裂する。
 仮面ライダーは、警察にも、軍にも、いかなる組織にも所属しない。組織に所属することで生まれるしがらみから、自由でなければならないからだ。
 自由な存在である仮面ライダーが、自由を失った者たちの集団であるショッカーと戦うというのが、初代仮面ライダーが語る物語であった。
 初代仮面ライダーには、「ナチスの財宝の争奪戦を、ショッカーと仮面ライダーが繰り広げる」という、前後編のエピソードがある。財宝を日本へ移送した、旧帝国軍人の男性が登場する話でもある。1971年において、ナチスとは、26年前に壊滅した組織である。今に例えるなら、ニチアサにオウム真理教を登場させるようなものだ。
 初代仮面ライダーが生まれた時代、ナチスに代表される「ファシズム」が、個人の自由を抑圧する体制が持つものに対する恐怖感は、今とは比較にならない程に強かったことは、想像に難くない。そのことを考える時、市川森一が語ったとされる言葉の持つ重みも、感じられる。戦争を経験した世代にとって、特に大日本帝国に生きていた世代にとって、「正義」という言葉に無邪気な信頼を寄せることなど、出来ようはずもなかった。日本も、ナチスも、「正義」を掲げて、戦争をした。そして敗戦とともに、その「正義」は「悪」として裁かれた。
 ウルトラマンシリーズの初期作が典型的だが、戦争を経験した世代が作り出した時期の、戦後日本のサブカルチャーには、善悪二元論を相対化する視点がある。ウルトラマンの「故郷は地球」、ウルトラセブンの「超兵器R1号」「ノンマルトの使者」などを見ればわかることだ。
 しかし、善悪をいくら相対化して見せたところで、それはこの世に正しいものなど一つもないというニヒリズムと荒廃にしかたどり着かない。現実の世界を生きるということは、不完全なものに過ぎないと自覚しながらも、「正しさ」を考え、求めていくことである。
 やなせたかしは、「飢えた人にパンを与えること」を正しさであると考えた。
 仮面ライダーの作り手たちは、「正義」という胡散臭い言葉に変わり、「自由」という言葉を掲げることを、選んだ。
 それは、「自由」を抑圧し、「正義」の名の下に戦争をした、大日本帝国やナチスドイツの体制の恐ろしさを、身をもって知っていたからだと思う。
 それから50年以上の時が流れ、「自由」という言葉の持つ重みは、かつてほどには、実感されなくなっていった時代に産まれたのが「シン・仮面ライダー」という映画だ。
「シン・仮面ライダー」に登場するショッカー=SHOCKERは、「世界征服」ではなく、「人類に幸福」を目標として掲げる組織である。最大多数の最大利益ではなく、「最も絶望した個人が幸福になること」を人類全体の幸福であると定義し、「絶望した人間」を「改造人間=オーグメント」へと変え、彼ら自身の望む「幸福」を実現させる……これが、現代における「絶対悪」として、庵野秀明がクリエイトした「ショッカー」の姿だ。
「シン・ショッカー」とでもいうべき「SHOCKER」の在り方が、個人の人権と幸福を重視する「リベラル派」のパロディであることは、言うまでもない。
 組織名に「サスティナブル(持続的な)」という単語を入れてあるし、クモオーグは仮面ライダーとの戦闘中「私らしく、あなたを倒しましょう」といった。「私らしく」はもちろん、リベラルな人が好む言い回しである。シン・ショッカーの怪人=オーグメントたちは、組織によって自由意思を奪われて道具と化していたかつてのショッカー怪人たちと異なり、それぞれ自分の考える「幸福」の実現のために、「自由」に行動し、その結果人間に害をなしている、極端に自己中心的な個人として描かれている。怪人たちを倒していくのが、主人公の本郷猛=仮面ライダーであり、彼をサポートするは、個人と対極の存在である国家権力(シン・ゴジラ、シン仮面ライダーで政治家と官僚を演じた竹野内豊と斎藤工が演じる)の人間である。
 庵野秀明は、あるいはこう言いたいのかもしれない。
 かつては、自由を抑圧する存在が、仮面ライダーの敵であったが、現代社会においては、むしろ個人の自由を尊重するリベラル思想の行き着く先に生まれる、極端にエゴイスティックな個人こそが敵だ。仮面ライダーは、行き過ぎた自由を行使する存在と、戦うのだ!
 なんというか、「ずれた問題意識だなあ」と、言わざるを得ない。
 それは確かに、個人の自由ってものは極端に推し進めていけば、他者を蹂躙するエゴイズムに行きつくだろうが、そんな程度のことは、それこそ全盛期にだってわかりきっていたことであり、2023年にもなって、わざわざ映画という手段で表現しなくてはならないものだったとは思えない。ネット上にはなぜか多い、感情的にリベラルに反発する人たちの世論に媚びただけの設定ではないのか?
 そもそも、「人間の自由を守る=人間の自由を侵すものが敵である」というのは、テレビ版も石ノ森章太郎先生の手掛けた漫画版も共有している初代「仮面ライダー」の基本的コンセプトとでもいうべきものであり、それを変えるのであれば、あえて「仮面ライダー」というタイトルを冠する意味はない。シン・仮面ライダーの「敵として現れた一文字隼人=仮面ライダー2号の洗脳が解けて味方となり、戦死した本郷の意思を仮面に宿して戦い続ける」というプロットは、石ノ森のコミックス版仮面ライダーと同じなのだが、そんなストーリーの再現などよりも、もっと大切なものがあるのではないか。
 端的に言うならば、商業的な事情を抜きにして、この映画「新しいヒーロー」ではなく、「仮面ライダー」として作ることはどこにあったのか?
 ま、これを言い出してしまうと、そもそも未だに「仮面ライダー」と名前のついた番組を、ニチアサという時間帯に放送し続けることの意義はどこにあるのか、という話にもなってしまうし、その話の結論は「仮面ライダーと名がつく作品は、もう作るべきではない」にしかならないのだが。
 はっきりいって、「シン・仮面ライダー」は、「庵野秀明よ、どうしてしまったのだ」と言いたくなる映画である。「シン・ゴジラ」においては、良くも悪くも存在した「時代への感度」というものが、明らかに鈍っている。
「個人の自由は大切だよね。でも行き過ぎると、他の人を傷つけちゃうよね」
 こんな程度の主張を、2020年代にわざわざ映画として表現する意味など、あるとは思えない。学校ででも教えれば済む話である。
 むしろ現実世界において起こっていることは、リベラルな思想に対するバックラッシュだ。アメリカではトランプ政権が再び誕生したし、昭和の悪の組織みたいな権威主義的な体制であるロシアや中国の力が増しているのが現実の世界だ。LGBTへの理解は、メディアや教育の現場では昔と比較して進んだことは確かだが、一方でネット上では、トランスジェンダーに対する差別的な言論がここ数年で急速に広がったし、知的・精神しょう害者や、外国人への差別、低所得者層や女性、高齢者に対するヘイト的言論も蔓延している。
 私の正確な現状把握はこうだ。リベラルな思想・価値観は、昔とは比較にならない程社会に浸透したり、特に公的な場における「建前」としては定着した。それは、インターネットによって、リベラルな思想・価値観の発信が容易になったから、という側面もある。しかし同時に、差別主義的な思想・価値観もインターネットを用いて発信されている。また社会のマジョリティは、まだまだ根強い差別意識を持っており、リベラルな意見よりもそれに反対する意見の方に、より賛同しがちである。
 特に近年、進行しているのは、「マイノリティがマイノリティを差別する」という事態である。TERF(トランス排除フェミニズム)という言葉に代表されるように、ここ数年、主に「女性の権利」を重視するフェミニズムの立場に立つ人が、トランスジェンダーの女性を差別し、攻撃するという現象が広がりを見せている。また、低所得の若年層が、高齢者や障がい者を攻撃する場面も目立っている。「弱者男性」層による女性叩き、アンチフェミニズム的な言論については、言うまでもない。
 要するに、今起こっているのは「私たちこそが本当の弱者だ! あいつらは弱者を装った、私たちの敵だ!」という立場をとる者たちによる攻撃である。「弱者・被害者」というポジションを巡る椅子取りゲームであるかのように錯覚する人もいるかもしれないが、違う。弱者が、より弱い弱者を叩いているだけである。そして、弱者を生み出す構造自体は、温存されてゆく。
 リベラル思想は、現状、全く世の中の主流とはなっていない。むしろ、反動すら起こっている。このような状況下で「リベラル思想の行き着く先」を絶対悪として提示するのは、ずれている。リベラル思想に反感を抱いている、マジョリティに媚びるという意味でなら、正解なのかもしれないが……。
 

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