近代資本主義の病理、死に至る病

 19世紀の社会科学者、エミールデュルケームの『自殺論』を1ヵ月程かけて読み終えた。近代社会科学礎となっているのが、本書であるそうだ。本書を手に取ったのは、私が敬愛する中野剛志先生の著書「奇蹟の社会科学」の中で紹介されていたことがきっかけだ。約700頁におよぶ大著であるが、挑戦欲が勝り、少しづつ読み進めることにした。

 英国の産業革命ともに、世界に先駆けて近代化を実現したのが、西洋であった。だが、それと同時に統計上の自殺が増えていることに着目したのが、デュルケームである。自殺分布は個人的気質の差異から生ずるのではなく、生活する社会そのものの反映であると直感した点に、彼の驚異的な洞察力が垣間見える。

 自殺タイプの分類として、「自己本位的自殺」「集団本位的自殺」「アノミー的自殺」「宿命的自殺」の4タイプに分類されている。

 特に衝撃的だったのが、「自己本位的自殺」及び「アノミー的自殺」のタイプである。前者は個人主義が強まるほど自殺率が高まりというものである。典型的な例が、都会で暮らす独身者であろうか。続いて後者のアノミーは、社会の経済的繁栄と共に、個人の際限ない欲望が永遠に満たされないことによる自殺である。つまりこれらは、近代以降の資本主義、新自由主義社会そのものであるように感じるのだ。

 市場経済は、「土地」「人」「自然」といった本来共同体に「埋め込まれていた」存在を切り離すことに成功した。人間は共同体から切り離され、根無し草へと化した。

ハンガリー出身の社会学者カールポランニーは、市場の需要と供給が自動的に調整する価格メカニズム、つまり金さえ出せば生産要素をいつでも調達できるシステムを、自然や人間社会を破壊する「悪魔の碾臼」と呼んだ。

 近代人に「もはや故郷は存在しない」と言い放ったデュルケームは、それほどまでに本質を見抜いていた。

 現代社会に対する素朴な疑問や生き辛らさといった、もやもやしたものを抱えながら生きている人は多いのではない。鬱状態でも会社に通っている人、孤独に子育てをしている人、いじめに苦しむ人、経済的に困窮する人、夫婦関係に悩む人、挙げればきりがないが、多くのケースの根源的な要因に、近代資本主義が淵源としている気がしてならない。

 市場経済は本来、商品としてはいけない物までを流通させてしまったのではないか?教育、交通インフラ、郵便サービス、医療、文化施設、さらに人の愛情、真心、性までもだ。資本主義に対する言語化できない嫌悪感はこういう所にあったのではないかと考えている。

 行き過ぎた個人主義に陥った人間は、その孤独に耐えられず死に至る。一方で、資本主義の飽くなき欲望を追い求めるも、止まない渇望の果てに死に至る。近代資本主義は人間を不幸にしかしないかもしれない。





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