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怖いの話
怖いのが苦手だ。怖いことはできるだけ避けたい。
歯医者で歯を抜かれるとか、整体でバキバキっと体を曲げられるとか、痛いものは怖くはない。痛みを知っているので、怖さは許容範囲だ。
旅行先で撮った思い出の写真に知らない女性が写っていたとか、閉めたはずのドアが振り向いたら開いているとか、誰もいない夜の学校で人の泣き声が聞こえるとか、私が苦手な「怖い」は、そんな心霊現象的な話でもない。
もちろん怖いことは怖いけれど、世にも不思議な話はあると思うから、心に来るダメージは許容範囲だ。
昨晩、久々にとんでもなく「怖い」に出会った。
彼は大企業の若きエリート役員。恋人にプロポーズしようと準備していたその日、彼はこの世で一番信じていた人の裏切りに遭い、政界・財界の陰謀に巻き込まれ、一夜にして天国から地獄へ転落、窮地に追い込まれていく。
某復讐サスペンスドラマの話なのだが、とにかくハラハラする。彼が罠にはめられていることは匂わせぶりな演出で明らかで、怖すぎて怖すぎて観ていられない(観るけど)。
漫画でもドラマでも映画でも、お気に入りのキャラクターが追い込まれていく状況が、どうしても怖くて、心臓が潰れそうになってしまう。
怖いって、なんだろう。
それで思い出した。スポーツ観戦も怖い。贔屓の選手が出るフィギュアスケートの大会では、ジャンプのたびに転んで失点したりしないだろうかと、心臓が縮み上がり、観ていられない。
野球でもバスケでも、応援しているチームが接戦を繰り広げているほど、その先の展開が怖くて途中退座してしまう。
結局、結果を見て安心してから(あるいは十分落ち込んでから)観るという選択肢をとってしまうのだ。
アイドルのオーディション番組でもそうだ。推しが残るか、落ちるか、毎回通過審査発表が死ぬほど怖い。結果がわかった状態で観ないと心臓が持たず、こうなったらすべての結果が出てから一気に観よう、と怖がりの私は途中をスキップすることにした。
なぜこんなにも怖いんだろう。
人間関係でも「怖い」と感じる瞬間がある。
先日も、まだ会って数回の相手と話していたとき、その人の言い方が冷たく感じられ、恐怖に慄いた。たかだが数回話しただけの相手だ。その人がどんな性格で、どんな言葉遣いや仕草のクセがあり、どんな意図でそんな言葉を発するのか、わからなくて当然だ。だが、そのわからなさゆえに、余計な想像力(妄想力ともいう)が膨らみ、勝手に怖がってしまう。
昨晩怖かった復讐サスペンスも、主人公を取り巻くキャラクターたちのことが、まだ「わからない」ことが私の怖さを増長した。
この人は信じていいのか、信じてはいけないのか。序盤は味方だと思っていた人の裏切りを知った瞬間、ひとりぼっちになった気がして、怖くなった。いや、私がひとりぼっちになったわけではないが、主人公に同調しすぎて、怖くなった。わからないものばかりに包まれている状況は、本当に怖いし、つらい。
初めての幼稚園での初めての社会生活から始まり、初めてのお買い物、初めての仕事、ハジメマシテのものはことごとく怖いし、逃げたい。
自分がいる場所が安全か危険かわからないのは、心的ストレスが半端ないのだ。どうせなら、慣れた安心な場所にいたいと思うのは、当然だろう。
なのに、私たちは「わからない恐怖」の冒険の旅に出る。いくつになっても、どんなに避けても、生きていれば必ず「初めて」に出会うから。
ここ数年でいえば、リモート会議とか、セルフレジ、ガストの猫型配膳ロボットとか。
そういえば、出会った当初は怖かった人が、1年経って、いろいろな現場を共にするなかで、「こういうクセがあるのか」「この言い方はむしろ善意か」と少しずつわかるようになってからは、怖くなくなった。むしろ好感さえ抱いている。Chat GPTがまさにそうだ。
恐怖を取り除く一番の解決策は、「知る」こと、「わかる」ことなのかもしれない。
「怖いもの知らず」という言葉がある。あれは、自分がわかっていないことさえわかっていないから、怖くないんだろう。
だけど、自分が「わかっていない」とわかっている状況は、果てしなく恐怖だ。
ちなみに、久々に「怖い」という感情を駆り立てられた復讐サスペンスは、パク・ヒョンシク主演の『埋められた心』(ディズニープラス スターにて配信中。金・土更新)だ。優れた心理ドラマであり、純愛ドラマでもある。怖いけど観ずにはいられない、秀逸なサスペンスだと思う。