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家族なのにどうして。推しなのにどうして。

うちの父親は、筋金入りの巨人ファンだ。
敗色が見えてくると、投手を変えろだの、采配が間違っているだの、口うるさく文句を言い始める。
そんなに能力がないのかと思い、一緒に批難に乗っかると、急に怒り出し、こちらに批難の矛先が向いてしまう。
自分が巨人を悪く言うのはいいけれど、他に人に悪く言われるのはムカつくらしい。

うちの母親もそうだ。外では夫や子どもについて愚痴を吐きまくり、さんざん「ダメ人間」にしているにもかかわらず、友人や親戚に夫や子どもを悪く言われるのは許せないという。
身内のことは悪く言うけれど、身内のことを誰かに悪く言われるのは合点がいかないのだ。

仲がいい友人同士で、「あなた、ほんとに鈍いわね」とか、「おまえ、アホやな」とか、好き勝手言い合うけれど、誰か別の人が友人を「鈍い」とか「アホだ」とか言っているのを聞くと、全力で否定したくなる。
「いや、そんなに鈍いわけじゃないから。慎重で丁寧なだけだから」
「いや、アホなんかじゃないから。すごく考えてる子なんだから」

自分が相手を悪く言うのはいいけれど、誰かに相手を悪く言われたくないのは、なぜだろう。
これ、いわゆる「私のほうが知ってるマウント」なんじゃないか。
うちの父親は、自分が一番巨人を知っていて、自分が一番巨人を愛しているから、適当にしか知らないやつらに、ああだこうだ言われたくない!と思っているのだ。

これ、時折、推しに対してやってしまうときがある。
自分は推しを長年見てきたから、「その服、似合わないのに…」とか、「あぁ、その髪型じゃないのに!」とか、勝手を言ってしまう。
にもかかわらず、他の人に「あの服、変じゃない?」とか、「あの髪型、変じゃない?」と言われると、「え、似合うと思うけど!」「こういうのが好きなのよ」と強い語調で擁護体制に入るのだ。
そして、内心「知らんくせに、言うな!」と戦闘気味になるのだ。
これって、巨人バカの親父と一緒じゃないか……。

『家族なのにどうして』というホームドラマの傑作がある。
家族なのに文句ばかり言い、家族なのに裁判を起こす。
まさに、家族なのにどうして……な内容なのだけれど、実は、よく観ていくと面白いことがわかっていく。
登場人物たちは、家族同士ではいがみ合っても、外部の人間に自分の家族を悪く言われると、どうしようもなくモヤモヤして、懸命に守ろうとするのだ。

そんなことを考えていたら、今朝、妹から電話がかかってきた。
「全然言うことを聞かない」と愚痴ばかり言っていた息子が、高校を卒業したという。その卒業式で、「こうやって無事卒業できたのは、家族や周りの人たちが助けてくれたおかげだ」と、感謝の言葉を口にしたそうだ。
家族や身内、親しい間柄って、そんなものだと思う。
普段は、文句を言っていても、心のなかでは「愛や感謝」があるのだと思う。
父親にとっての巨人も、私にとっての推しも、そうだ。

話はズレるかもしれないけれど。私は子どもの頃、ファンレターオタクだった。推しを見つけると、とにかく手紙を書いた。
小学校のときの水泳部の先輩(女子)、中学の進路指導教師、アイドルからロックアーティスト、バレーボールの選手に漫画家まで、好きなものに出会うと、思いを手紙に綴って出す、という習性があった。
大学生にになると、推しのロックバンドの応援雑誌を勝手に作った。
いまはライターという生業をしているけれど、推しや推し作品への愛を伝えるファンレターを書いているような、そんな部分もあるのかもしれない。

ただ、ひとつ大きく変わったことがある。
昔は、いかに「私が」あなたを好きか、どれだけ「私が」あなたを好きか、好きの度合いをアピールしていたように思う。
でも、いまはむしろ、いかに「あなたが」愛されているか、どれだけ「あなたが」愛されているかを、伝えたい思いが強い。
「私の愛」を知って、から、「あなたは愛されている」ことを知って、に変わったようだ。

もちろん、時折、「私のほうが知ってるマウント」「私のほうが好きマウント」をとりたくなる気持ちが湧いてくることもあるけれど。
私の大切な人や推したちに、良くない言葉を浴びせる人がいたら、それを超える良い言葉を浴びせたいなぁ!



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