書店で牡蠣鍋、はじめてのおつかい
友人と会う約束して、書店で待ち合わせた。
最寄りの駅に少し早く着いたため、
なにか面白そうな本があれば買おうかな、くらいの気持ちで
書店に入ったのだが、入り口で目を奪われた。
普段なら、“いま注目の本!”的な、書店が全力で推す本や雑誌が置かれている特等棚に、なぜかレトルトの「牡蠣鍋」が陳列されていた。
ほかにも世界のカレーやらパスタソースやらが並び、
ここは無印良品ですか?な棚の様相。
「本屋に牡蠣鍋?何ゆえ牡蠣鍋?」というインパクトに心が持っていかれ、
なんだか急に牡蠣鍋を買いたい衝動に駆られてしまう。
「なにかおもしろい本があれば買う」という
ぼんやりした目的は、いとも簡単に忘れ去られていた。
結局、本も牡蠣鍋も買わず、
「書店で牡蠣鍋が売られていることの衝撃」を友人に熱く語る、
という展開で終わった。
まぁ、本屋に行く本来の目的は「待ち合わせ」だったので
それは果たしたわけだが。
それにしても、
なにかを買いに行ったはずが、別のものを買ってくるケースって
意外と多いよな、と思う。
たとえば、国民的癒やしドキュメンタリー、「はじめてのおつかい」だ。
幼い子どもたちは小さな胸を不安と緊張、興奮でいっぱいにして
はじめての「目的を果たす旅」に出る。
「お父さんが好きなお好み焼きの粉」なら「お好み焼きの粉」
「おばあちゃんが好きな大福」なら「大福」
大きな目的に持って、壮大な冒険に出かけていく。
自分にとってのはじめてのおつかいが、いつだったか記憶はあやふやだが
いまでも忘れられない「おつかい」がある。
伯母から「豚の細切れ」を100グラムだったか200グラムだったか、買ってきてほしいと頼まれたときのことだ。
小学1年生になっていたかいないか、それくらい幼いころだった。
「ぶたにく、ぶたにく」と何度も唱えながら肉屋にたどり着き、
なにを思ったか、ショーケースの「豚の味噌漬け」を指差し、
100だったか200だったかを買って帰った。
伯母が手にしたのは、目的の「豚の細切れ」でなく、
味噌漬けされた豚肉だった。
「こんな簡単な買い物もできないのか」と
ひどく怒られた記憶があり、いまだ心の傷になっている。
あのとき、幼い私の目的はなんだったんだろう。
「はじめてのおつかい」を観ていると、
頼まれたものを買うことを目的に出かけていくものの、
途中で目的がすり替わる場面を目にすることが多々ある。
その目的は、
「お父さんが好きなお好み焼きの粉」を買うことから
「お父さんを喜ばせる」ことに、
「おばあちゃんが好きな大福」を買うことから
「おばあちゃんを喜ばせる」ことに、
ときには、待っている「お母さんを喜ばせる」ことや
一緒に連れて行った「弟や妹を守る」ことに変わっていく。
もっと大事な目的がもくもくと沸いてきて、
お父さんが好きな別のものや、
お母さんが喜ぶ別のものや、
弟や妹が欲しがるものや、
そんなほかのものを買ってしまったりする。
そういう目的のほうが、心が本気なんだなと思う。
話は変わって。
かつて低迷していたユニバーサル・スタジオ・ジャパンを救った
最強のマーケター、森岡毅氏が「日曜日の初耳学」に出演したとき、
とても印象的な話をしていた。
「自分の強みがわからないなら、好きなことを動詞で書き出せ」
というものだ。
たとえば、「帽子」が好き、「サッカー」が好きだと思っているなら、
それを動詞で考え直す。
帽子を「作る」のが好きなのか、
帽子を「集める」のが好きなのか、
帽子を「かぶってオシャレをする」のが好きなのか。
サッカーを「観る」のが好きなのか、
サッカーを「プレイする」のが好きなのか、
サッカーを「分析する」のが好きなのか。
自分の好きを、名詞ではなく、動詞で考えてみると
それが強みで、特技であることがわかってくる、
という話だ。
買い物の目的も、これに近いかもしれない。
「大福」が目的ではなく、
大福を買って「おばあちゃんを喜ばせる」が目的だ。
幼い私が、なぜ「豚の味噌漬け」を選んだのか、
いまではよくわからないが、
「他の豚肉と違って面白そう」と思った記憶があるので、
「おばちゃんが珍しがって喜ぶかも知れない」
そんな気持ちがあったんじゃないかと思う。
簡単に忘れてしまう目的は、その程度なんだろう。
子どもたちの心を動かしたのは、
「なにか」を買うことじゃなく、
誰かを「喜ばせる」ことだったんじゃないか。
夢中になれる目的は、動詞から見つかるかもしれない。
「日曜日の初耳学」森岡毅氏出演回