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冒険ダイヤル 第33話 橋の向こう側

深海は絵馬を振り切って走っていた。
彼女には本当に申し訳なかったけれど、喫茶店に戻ったら全てをあきらめてみんなと一緒に帰らなければならないとわかっているのですぐには戻りたくなかった。
人混みをかきわけながら駅に向かって走ってバスロータリーにたどり着いた。

あじさい橋の赤い欄干が魁人のスニーカーの色を思い出させた。
橋をとぼとぼと渡り、川の向こうの突き当たりを左へ歩いていく。
これといった目的地はなかった。
日頃ひとりきりで見知らぬ町を歩くことはほとんどない。とても心許なかった。
 
坂道を上っていくとそこは町役場の駐車スペースだった。
車がいくつか停まっているだけで人気はない。
振り返ると川の向こうに湯本駅のホームのアーチ状の屋根が連なって見えた。
駅のさらに向こうには圧倒的な濃い緑色の山々が広がっていた。登山鉄道に乗っていけばあの険しい山の上まで登っていけるのだ。
今の魁人にとって冒険にふさわしいのは小さな鶯町の住宅地ではなく、この山を含んだ一帯の雄大な景色なのだろう。
 
ふもとの商店街では駿たちが手紙を前にしてまだ考え込んでいるに違いない。ここからは、とてもちっぽけな世界に見えた。
 
大人になるまでの道のりはスイッチバックのようにゆっくりと行っては戻り、少しずつ傾斜を上っていけるものだと思っていた。
友達と一緒に楽しみも苦労も味わって、なんとなく歩いているうちにゴールにたどり着けると信じていた。

けれども魁人は何の前触れもなく深海たちから離れていった。頭から冷水を浴びせられるような衝撃だった。

道は見えない所にいくつもあって、そこには予想もしない困難があることを思い知らされた。
近道をすることはできるけれど、誰にでも通れるわけではない。近道が楽とは限らない。

魁人にはおそらく他に道がなかった。
ひとりで急階段を登っていく彼の後ろ姿が脳裏に浮かんだ。
一緒に歩いて行きたかったのに。
 
あれから魁人に給食をあげる必要がなくなった深海は、何でも残さずに食べるようになった。
外で遊ぶのをやめて、図書室で本を借りて家で読むようになった。

駿とはほとんど言葉を交わさなくなったが、なぜか同じ方向へ一緒に帰るだけで同級生にひやかされるようになり、それが嫌でたまらなかった。

ひやかす子に理由を聞いてみたところ「ふかみちゃんは可愛いから」と言う。
どこが可愛いのか聞いてみると「髪が長くて可愛い」と言われたのですぐにお母さんに髪を切ってもらった。
 
同級生たちからは失恋したから切ったのだろうとからかわれた。
見当違い過ぎて腹がたったけれど、なぜ髪を切ったのかをうまく説明することができなかった。

髪が伸びてうなじが隠れるのがただただ許せなくて、伸びすぎていないかどうか気にしてばかりいるうちに首の後ろを触るのが癖になってしまった。
 
中学校では野田さんと同じクラスだった。
彼女は幼馴染たちの中では駿以外に交流が続いたただひとりの相手だった。もう一緒に遊んだりはしなくなっていたが、野田さんが視界の端にいると安心した。

駿と野田さんが比較的偏差値の高い公立高校へ進学すると周りに公言していたので、ふたりと離れたくなければ成績を上げなければならなかった。

あまり成績がいいとはいえないのに必死に勉強し、同じ高校を受験した。
それなのに野田さんが他県の全寮制の高校へ進路を変えたと知った時にはあっけにとられて悲しむこともできなかった。

受験が終わり、合格発表を見に出かけた帰りに深海は道に迷ってしまった。
いくら方向音痴とはいえ入試で一度行ったことがある学校なのでひとりでも大丈夫だと高をくくっていた。
ところが合格を確かめた後の深海は余程ぼんやりしていたのか、いつまでたっても最寄りの駅にたどり着けなかった。

周りを歩いていた同じ帰り道の生徒たちの姿を見失い、おかしいと思いながらやみくもに歩き続けているうちに二時間も経ってしまった。
なぜ人に道を聞かなかったのか自分でもよくわからない。

ようやく発見した駅は目的地から二駅も離れていた。
買ったばかりの靴を履いていたせいでその後はひどい靴擦れに悩まされた。思い起こすと恥ずかしい。 
 
今はちゃんと帰り道がわかっているし、そこには友達が待っている。彼らは黙って自分を置いて消えたりはしないはずだ。
たぶん。

汗なのか涙なのかわからない液体がとめどなく頬を伝って滴り落ちた。
 
何かに取り憑かれたように箱根まで来てしまったけれど魁人は会うことを望んでいなかったのだ。
しゃくりあげている自分を一歩後ろからもうひとりの自分が冷めた目で見ている。
 
スマホを取り出して171に電話をかけた。
すっかり聞き慣れてしまった自動音声案内が流れる。
深呼吸して深海は話し始めた。

「ふかみから魁人に伝言。これからも体験利用の日が来たら、この番号で伝言をするね。魁人が聴いてなくても、返事がなくても、聴いてると思って話す。学校であったこととか大したことない話ばっかりするかもしれないし魁人は興味がないかもしれないけど、私が私のためにそうしたいから」
すぐに制限時間の三十秒がきてしまい、通話は終わった。
 
最後の方は独り言になってしまった。
魁人はいつもどんな気持ちで伝言していたのかなどと想像しても仕方のないことを考えた。
 
深海は爪先でトントンと地面を蹴って靴の奥までしっかりと足が入るように調節し、靴紐を結び直してキャップを後ろ前に被った。
そして勢いにまかせて、もと来た坂道を駆け下りた。

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