甥の書き初め 【短編小説】
元旦の朝、というより昼。
実家の一室で目を覚ました俺は、布団の脇に気配を感じて起きた。
高校生の晶がちゃぶ台に向かって筆を動かしていた。
「書き初めか?」
煙草に火をつけながら覗き込む。
そこそこ達筆でこう書いてあった。
〈 油揚げ〉
………俺は黙って布団を畳んだ。
Z世代にしか通じない流行語かもしれない。
余計な質問をすると地雷を踏みそうだ。
たまにしか帰省しないが理解のある叔父としての立場を維持したい。
質問する代わりにポチ袋を渡した。
「ほれ、お年玉」
晶は嬉しそうに受け取ったが、袋の中をちらりと確かめてから上目遣いに言う。
「ねえ、みつるくん。今年は詩織ちゃんも来てるの知ってる?」
知らなかった。
姪の詩織とは長いこと会っていない。
「僕こんなにいらないから半分を詩織ちゃんにあげてくれない?」
そう言ってのし袋を一枚持ってくる。
「はい、これ使って。去年みつるくんがくれた袋」
まるで今買ってきたかのようにきれいなのし袋だ。
そういえば去年はあわてて駅の売店で買って名前も書かずに晶に渡したのだ。
中に五千円札がすでに入っていた。
俺が今あげた一万円の半分の額ということか。
しかもピン札。
このへんにはATMもろくにないのでありがたい。
できすぎて怖い甥である。
母が菜箸を持ったままやってきた。
「みつる、やっと起きたわね。昼まで寝てるなんて…」
小言を言いかけたが、書き初めを見てハッとする。
「おいなりさん用の油揚げ買うの忘れてたわ。みつる、あんた買ってきてくれる?」
「スーパー閉まってたぞ」
「商店街の新しいお豆腐屋さんは営業してるのよ。早く行ってきて。あと、ここで煙草吸うのはやめなさい」
近所の商店街は俺が実家を離れた頃にはすでにシャッター街になりつつあったのだが、去年から急に店が増え始めた。
昭和の香りがするところに集まってくるレトロ好きを喜ばせようと古くて素朴な雰囲気を押し出したデザインの、実際は新しい店たちである。
兄はそれらを「なんちゃって昔ながら店」と呼んでいた。
地元が活気づくなら、なんちゃってでも何でもいいじゃないのと俺は思う。
部屋着の上にダウンジャケットを羽織りサンダル履きで、誰もいないのをいいことに商店街を歩きながら煙草を吸った。
〈なんちゃって昔ながら〉の豆腐屋には煌々と灯りがついていた。
商品ケースの向こうから顔を出した女性を見て、俺はしまったと思った。
去年のゴールデンウイークとお盆休みも彼女が気になって、次こそ名前を聞きたいと思っていたのだ。
こんなだらしない服装で来たことを後悔する。
油揚げは二枚しか残っていなかった。
「次は予約しておいてくださればたくさんご用意できますよ」
手早く油揚げを包みながら彼女は朗らかに言う。
三角巾をつけてノーメイクなのにどことなく色気があって魅力的だ。
店には彼女だけ。
俺はもう少し話をしたかったが、ちょうど煙草が短くなったので急いで踏んで火を消した。
「あら、そこに灰皿があるんですよ。いえいえ、そのままにしてください。どうせ掃除しますから」
よく見ると店の横に赤いブリキの吸殻入れが設置されていた。
彼女は素早く出てきて俺が捨てた吸い殻をほうきで回収し、ついでに店の前を勢いよく掃き始めた。
なんとなく追い立てられるような格好で俺は店を後にした。
「これじゃ全然足りないわ」
母がパニックに陥っていると、晶が淡々と言う。
「ばあば、もしかしたら冷凍してあるんじゃない?」
「そうだった。暮れにたくさん買い置きして冷凍したんだったわ」
近所の親しい家から手伝いに来た莉緒が、笑いながら冷凍庫から油揚げを発掘してくれた。
「おばさんの冷蔵庫は魔窟よ。買いだめし過ぎよ」
隣の祖父の家で開かれる恒例の新年会は、親戚と近所の知り合いがいっしょくたになる。
各家庭から持ち寄った料理がずらりと並べられ、いなり寿司のピラミッドが築かれる。
彼女も俺と同じく休暇になると実家に戻ってきてこの宴会に参加していた。
俺は社会人になってから五回目。
莉緒は三回目。
お互いに実家を離れてからの方が仲間意識が増したような気がする。
俺の兄弟たちはとっくに隣にあいさつしに行っているらしい。
紅白歌合戦を最後まで見ないうちに寝てしまった俺はいつ彼らが来たのかさえ知らなかったが、晶によれば除夜の鐘と共にみんな初詣に行ってきたのだそうだ。
「僕はみつるくんのいびきを録音してた」
「えっ?」
「うそだよ。でも一緒に寝てた。眠かったから」
今ごろ隣家では座布団運びが始まっていることだろう。
母の気が急いているようなので、俺も一緒に甘しょっぱい汁のしみこんだ油揚げに酢飯を詰める作業をした。
昔からよくやらされていたので要領はいいほうだ。
〈なんちゃって昔ながら〉の油揚げは、きめが細か過ぎるのかふわふわしていてすぐに破けてしまう。
馴染みのスーパーで買って冷凍した油揚げの方がやりやすかった。
莉緒は酢飯を詰めながら今の仕事をやめたいとこぼした。
新卒で入職して三年だが、ただハムスターみたいに働いてるだけで全然役に立っている実感がない、自分が嫌になると弱音を吐いた。
子供の頃から知っているが莉緒は真面目で完璧主義だ。
臨機応変が求められる福祉施設での仕事にふりまわされているのが目に浮かぶようだった。
廊下からけたたましい子供の笑い声がした。
晶は危険を察して素速く重箱に蓋をし、「みつるくん、これ一番上に置いて」と言う。
俺が棚の上に乗せたのと同時に、バタバタと子供たちが駆け込んできた。小学校低学年くらいだろうか。
手当たり次第に台所の物に触ろうとする。
どの子が誰の子かわからないが、とりあえず身内の誰かである。
莉緒はすかさず空いているプラスチックのざるを彼らに持たせ、軍手をくるっと丸めてボールを作った。
それを頭の上でふりながら「この爆弾、落とさないで捕れる?」と先に立って歩き出した。
子供たちを庭へ連れ出してゆく莉緒は、ハムスターのようにしか働けない人にはとても見えない。
本人が思うより図太く柔軟だ。
外から「おじさんの靴に入れちゃえ」という声が聞こえた。
宴会の席に座ると、驚いたことに豆腐屋の女性がいた。
さらに驚いたことに、親戚のひとりがその場で「お付き合いしてください」と告白したのだ。
「あれはちょっとずるいわよね」
皿を片付け終わってひと息つくと莉緒は言った。
豆腐屋小町さんは現在フリーだったようで、大勢の前では断りにくかったのか押し切られる形で交際を受け入れた。
…先に交際を申し込んでおけば良かったと俺は悔やんだ。
酔って部屋に戻ると晶がまた紙の上に毛筆を滑らせていた。
覗き込んでみるとこんな字が書いてあった。
〈 末吉 〉
どう突っ込めばいいのかわからない。
謎多き甥である。
「晶、明日、俺と初詣に行くか」
「うん。莉緒さんも誘って行こうよ」
翌朝、近くの神社に詣でた俺達は参道に並んだ屋台のたこやきを分け合って食べた。
「あたし、新年におみくじをひいて凶が出たことあるの。その年に就職したんだ」
「じゃあ一緒にひいてみようよ。もし凶が出たらみつるくんの運だってことにしてもらえばいい」
さらりと晶が言った。
………なぜ、そうなる?
莉緒はためらっていた。
不安にかられている時ほど、おみくじなどを真に受けてしまうものだ。
神社に手を合わせても願いが必ず叶うと信じ込んだりはしないのに、おみくじが悪いと必ず運勢が悪くなると感じるのは奇妙だ。
俺は御守りと供に陳列されていた手のひら大の招き猫をひとつ買って莉緒に渡した。
中におみくじが入っている。
「お前にやるよ。選んだのは俺だから、もし凶が出ても大丈夫だ」
恐る恐る中身を確かめた莉緒は、ほっとして顔を上げた。
「末吉だった」
焦らず勤勉に励め、信心怠るなと書かれていた。
そのアドバイスはほぼ全ての場合に有効だ。
だが不安にかられている時ほどありがたみがある。
招き猫を大事そうにしまって、莉緒は満足げにスキップした。
「そういえば、みつるさん、今日は煙草吸わないんだね。いつもそのほうがいいな」
ライターを取り出すたび、豆腐屋の前で煙草を吸ってさえいなければと思う。
あれ以来は火をつけずポケットに戻している。
正月休みが終わり勤務先へ帰る日に、莉緒は招き猫のおみくじをくれた。
「今度はあたしがみつるさんの代わりにひいてきたの」
開けてみると大吉だった。
「またおみくじやりに行こうよ。みつるさん、次はいつ帰って来るの?」
バス停までは晶が見送りについてきた。
そしてこんな字の書かれた半紙をくれた。
〈 禁煙 〉
「みつるくん。もうトンビにさらわれないようにね」
にこにこしてそう言った。
謎多き甥である。